悩み①
千鶴はフレッシュレモンアイスコーヒーを持った右手でインターホンを押した。扉の奥で電子音が響くのがかすかに聞こえたが、人の気配は感じられなかった。
時刻は二十一時を回っているので、部屋にいてもおかしくない時間帯だ。
「また図書室かな? せっかく雪輝に買ってきたのに」
見下ろした左手には、青い鳥のロゴが印刷された蓋つき紙コップを持っている。中身は熱いエスプレッソだ。
「陽介、エスプレッソ飲めるかな……?」
仕方なく立ち去ろうとしたときだった。
「あれ?」
足元に見慣れたワッペンが落ちているのを見つけた。
自分のレモンコーヒーを床に置き、千鶴はそれを拾い上げた。桜と翼がデザインされた櫻林館の校章が描かれており、その下に『櫻林館流』と刺繍されている。
「道着のワッペン……?」
ワッペンをポケットに入れると、千鶴はまさかと思いつつ外へ向かった。
寮棟を出ると、埃っぽく重たい空気が満ちていた。見上げても星ひとつ見えない。
「ひと雨きそうだな」
そう呟いて、千鶴は道場のある訓練棟へ急いだ。
夜でも自主練をする学生は多いが、大抵は二十時を過ぎれば自室に戻り始める。加えて明日は早朝訓練を行うクラスもあるようなので、訓練棟は静まり返っていた。
自主練を終えたと思しき体格のいい学生らとすれ違いつつ、更衣室を覗いても雪輝は見当たらないので、千鶴は道場へ向かった。
静寂に満たされた訓練棟の廊下を進み、まだ数人が残るウエイトトレーニングルームを通り過ぎる。
突き当りに『櫻林館道場』と書かれた大きな木の板が掲げられた扉があり、その奥に並ぶ下駄箱の先にようやく道場への入り口が見えてくる。
千鶴は靴を脱ぐと、僅かに開いた扉の隙間から道場の中を覗いた。
道場の中心に、道着姿の学生が一人立っていた。
ウエーブのかかった黒髪をうなじで束ね、精神統一か、目は閉じている。研ぎ澄まされた凛とした横顔がとても雪輝らしかった。
声をかける寸前、雪輝の目が開いた。
雪輝は直立の姿勢を解いて足を肩幅に開くと、拳を握った両腕を下に向けたまま交差させ、そしてゆっくりと交差を解いた。形の始まりだ。
千鶴は思わず息をひそめて扉の陰に身を隠した。
邪魔をしないようにそっと扉の陰から覗いていると、雪輝は両手の親指と人差し指同士を突き合わせて作った輪を、両腕を伸ばしてすっと天井へ向けた。それはまるで空を求めて手を伸ばしているように見える。
「なんだ、あの形?」
指で作った輪を解きつつ伸ばしたままの両腕を降ろすと、刹那に深く腰を落とし、俊敏な手刀受けが左右に連続で繰り出された。その後も次々と美しい技が続く。
空手は櫻林館の必須科目なので千鶴も黒帯を持っているが、今目の前で繰り広げられている形は見たことがなかった。
受け身をとりながら左右に中段突きを二撃ずつ、そして真横に綺麗な蹴りが入り、着地と同時に構えの姿勢。一つひとつの技が繰り出されるごとに、短く鋭い呼吸音が聞こえる。
その後も手刀や裏拳などが続き、交差させた両手を高く揚げて受け身をとると、大きく飛び上がって見事な二段跳び蹴りを決めた。
雪輝の気合いが静寂の道場にこだまする。
「おお……!」
思わず声が漏れてしまったが、雪輝は気づかない様子で形を続けた。
そしてゆっくりと姿勢を整えると、足を揃えて静かに礼をして締めくくる。
顔を上げ集中を解いた雪輝は、肩で一つ大きな吐息をついた。
「すっげー! 今の形初めて見た!」
千鶴は素直に歓声をあげた。
雪輝は苦虫を噛み潰したような顔で振り向く。
「おい、いつからいたんだよ」
「今の形が始まるところから」
道場に上がると、雪輝がタオルを拾い上げながら「何しに来たんだ、こんな時間に」とぶっきらぼうに聞いてくる。
「今日のお礼にこれ渡そうと思ってさ。課題手伝ってもらって助かったから」
そう言ってエスプレッソを差し出すと、雪輝はさらに顔をしかめた。
「まさか、ホットかよ」
「だっていつもこれ飲んでるし、まさか空手のトレーニングしてるなんて思わなくてさ」
苦笑いでごまかしつつ「こっち飲む?」とレモンコーヒーを差し出してみたが、「そっちでいい」と雪輝は結局熱いエスプレッソを受け取った。




