劇場内での座り小便はご遠慮ください
週末になれば次第に、肩の荷や心の重りが滑り落ちる。みたいなことわざがあったような気がしたが、それは粉雪の気のせいである。
心境として、土曜の午後や土曜の夜だぜヒャッハーという時間が近づくことによる圧倒的なまでの解放感に対する期待は否応なしに増し、あるはずの疲れやストレスやらの印象を極薄にしてしまうということは誰しもにある現象だ。しかしながら、この現象は極めて限られた短い時間にしか得られないものであり、いざ待ちに待った当日には跡形もなく消え失せてしまうという儚い夢のようなものでもあった。
が、寿々木粉雪という少女においてはその限りではなく。彼女は金曜の夜でも土曜の午後でも日曜の夕刻でも月曜の朝でもお構い無しに、ワクワクできるというお得な性質を備えていた。
ゆえに今回も、職員室前に集合をかけた(なぜに?)仲間たちを前に、テンション爆上がり状態のままで踊り狂うことができた。
現在放映中のものではなく、それよりも何作か前の『グチャッ! じんたいパーツドッキングどっきんこフリキュア』のエンディングダンスだ。
「みっちり みちち くっつけちゃ~お★どっきんこ! フ~リキュッア~!」
「こな、全員集合した」点呼係を命じられた露が参加予定者全員の集合を確認したので、主催者であり出資者でもありそうな粉雪に報告する。
「はいっ! みなさんこんにちは。全人類待望のついにこの時がやってまいりましたあ。そうです、フリキュア映画の新作、それも……なななんとっ、わたしたち━━わたしと部長とエイミーちゃん━━が出演しとるという夢のような夢なのかしら本当に夢だったらションボリマンのションボリな新世界みたいになっちゃうけどどうやらこれは夢じゃない!」自分の頬をつねり、ついでに露の頬もつねる粉雪。
「いってぇ……こな、擂り潰す」
「なんて素晴らしい現実。生きててよかったよかった。生きてるだけで丸儲けたぁこのことよね。別に嫌なことがあったって希望がなくったって夢も見れなくたって負け犬と言われたってなんだって生きてりゃこっちのもんよって言うじゃない? え、言わない? 知るかそんなもんわたしはねぇたとえ絶望の底に叩き落とされようとも黙ってくたばったりはしねぇのよ、針の穴ひとつ分だっていいのさ、一矢報いてやろうじゃないのよって気概を持ってこそのフリキュアだってキュアサイコパスも言ってたじゃないのよねぇ。って絶望の底どころか反対も反対、頂上天国ハッピハッピーデイだったね今日は間違えちゃったよえへへへへー!」
言いながらまだダンスを踊っているあたり、誰の手にも負えない。
「寿々木ちゃんヤベェな!」
三年生から唯一参加の井坂三が遠慮なく感想を言うし、他の参加者も同じ意見だったので異論はない。
「こんなにはしゃいだら迷惑防止条例自警団に目ぇつけられるかな? いや目ぇつけられても関係ねーし! つーか自警団が自警団な時点でお前らも迷惑なんだよって話でさぁねぇ。世の中自己中じゃない人間なんて存在しないんだからわたしもそうだけど他のやつらもみんなそうで……以上の理由からわたしを止められる人間なんているわけがないということに━━」
「そろそろ出発したほうがよくない?」
まっとうな意見を言ったのは、露のクラスメイトで学級委員の羨ましいまでにキレイな黒髪ロング美少女の中島緋見呼だった。
今回、なぜか彼女も参加することになったのは、露が気まぐれで誘ったからに他ならない。露は本当に気まぐれなので、誰を誘って誰を誘わないかは完全にランダムだった。ちなみに今回声をかけていたのは中島緋見呼だけである。
「こな、いい加減にしとけカス」友人に対してひどすぎる言葉ではあるが、この状況においては妥当と言っても過言ではないから不思議だ。
「すんまそん。さすがにはしゃぎすぎました。はしゃぎすぎて話が進まなくなるところだった」
「実際、進んでないしな!」三が言う。
「時間的には、あと十五分ほどで完全に間に合わなくなるよコナユキ」エイミーがデータを伝える。そのデータは移動に必要な時間を、細かな小イベントまで含めた上で割り出された正確なものであった。
「あなた、すごくいい匂い。どんな香水使ってるの?」緋見呼がエイミーに訊ねる。
「使ってませーん」
「うそでしょ。なにか教えられない理由でもあるわけ?」
「いや、エイミーちゃんのそれ、普通に本人の体臭なんですよぉ……えっと、中島先輩?」粉雪がしっかり説明する。そんな時間はないのだが。
「ほんとにっ! え、それって、生まれた時から桃しか食べないで育ったみたいな感じのあれ?」緋見呼は驚きと混乱の中、へんなことを口走った。
「いや、先輩……そのあれとは違うから。ま、遠からずといえば遠からずなのかもしらんけど」なにしろ人工物だからなぁと粉雪は内心思う。「それはそうと、もう出発しないと! ええっと、参加者確認……中島先輩、エイミーちゃん、三ちゃん、もこちん寧ちゃんにミントちゃん、ついでにホビット族の小娘(露)。オッケー全員いるね、ほんじゃいこっか!」
「こな……捻り引き延ばす」
「ってえええ! 先生も行くのぉ?」
寧ちゃんが真っ先に驚いて、いつの間にやら粉雪の近くにいた名取眠兎先生を指差す。先生はちゃんとおでかけ用の私服姿だった。
「お邪魔するわね。寿々木ちゃんに頼まれた……というのは建前で、先生もフリキュア好きなんだよね」と眠兎先生。「保護者だと思って、気にしなくて良いからね」
「あ、はい……」寧はすぐに受け入れた。とはいえ気にはなるだろう、と思いながら。「だから職員室の前だったのかぁ……」ひとりつぶやく。
「あと十三分……」エイミーが告げる。ごちゃごちゃやってる間にも、しっかりカウントは進んでいた。
「おしっ、ほんじゃ映画館へゴー!」
最後に号令を発した粉雪を先頭にして、ようやく女どもは発進した━━。
★★★★★
牝獲市袋小路台にある、たぬきち商店街クロスブリッジロード。その中にあるデパート「ハゲロンゲ」の6階に入っている映画館、ハゲロンゲ映画館というそのまんまな名前の映画館にやってきた一行。
到着後すぐに、粉雪が一人ずつにチケットを配る。
エイミー・ナビゲーションがあったおかげで、まだ少しだが上映時間までには余裕ができていた。本編開始までの、お決まりのめんどくせぇ宣伝予告編の時間を含めると、まだまだ焦る必要はない。なので、みんなポップコーンやなにやらを買い求めてうろついていた。
「ママ、これ買って!」
言ったのは露で、言われたのは眠兎先生だ。
「はいはい。って、ママじゃないんだけど!」とは言いながらも買ってあげるあたり、さすがは人気の先生だった。人が良すぎる。
その背景には彼女の母の教育と、粉雪と粉雪母の影響があるのだが、それは粉雪にしかわからない、いや、エイミーと粉雪にしかわからない裏事情だった。
「わたし、ポップコーン食べようかなぁ……寧ちゃんも食べる? なに味がいいかなぁ?」
色とりどり、種類が豊富な本格的ポップコーン専門店を前に、もこ菜が悩む。このあたり、妙にこだわっている映画館で、塩かキャラメル、みたいなシンプルな通常の映画館とは一線を画していた。
「えっとねー、あたしこれにするこの『A5ランク牝獲牛のステーキにフォアグラ&キャビアを添えて味』」
「なにそれ……すごくおいしそうな名前」
即座に決められた寧とは反対に、もこ菜はやっぱり悩みに悩んで……けっきょく『タピオカミルクティー味』というよくわからない、あとで考えたらこれ、別にタピオカを混ぜてあるわけでもないので、ただのミルクティー味となにが違うんだろう、どこが違うんだろうと確認したくなるような商品を選んでしまう。もちろんタピオカミルクティー味とは別にミルクティー味もあったので、いつか試してみようともこ菜は思った。
「グッズ、こんなにあるんだ」あまり映画館を訪れた経験のない緋見呼は驚く。
まるでアニメショップさながらの規模で、グッズ売り場が存在した。しかも八割ほどがフリキュアグッズで占められている。
「これはうちのママの仕業です」粉雪がすぐに白状した。
どうりで、と露にたかられまくりの眠兎先生は頷く。
どう考えても通常の映画館ではあり得ない量のフリキュアグッズ。そのラインナップは明らかに映画館関係者の中にいる熱烈なファンの存在を示していた。
というか、そもそもこの映画館が存続していること自体が、粉雪母の資金援助によるところが大きかったのだが。それについて粉雪は言及していない。
「えーなにこれ、おっもしろ! これ買っちゃおっかなー!」と、三がなにかを手にする。
それは、恥ずかしいパンティ模様のキャップだった。頭にパンティを被っているように見える、をコンセプトに作られた商品で映画『パンティを被ると強くなる男たち』の劇場限定グッズであった。当然、この映画館で現在上映中の作品でもある。
「三ちゃん、マジか」粉雪が引く。
「え、よくないこれ? イケてると思うんだけどなー」
などと、三のズレた感性が白日のもとにさらされたあたりで、緋見呼がふとした疑問を粉雪へと訊ねる。
「ねえ、寿々木さんってわたしのことは『中島先輩』なのに、井坂先輩のことは『三ちゃん』って呼ぶのは……やっぱりまだ親しくないから?」
「え、そんなことないよ?」そんなことないらしい。「別に初対面でも関係ないし……ただ、中島先輩はほら、いかにも先輩らしいしっかりした人に見えたから、なんとなくね」ということらしい。
説明に、緋見呼はそれなりに納得した。
「なるほど」と、三のほうを見ながら。
「みなサーン、そろそろ予告編も残り半分デスヨー」エイミーから連絡が入る。その声に、仲間内だけではなく訪れていた他の客たちも反応する。
入場開始のアナウンスはとっくにあったのだが、みんなエイミーを見たくてほとんどの客がフロアにとどまっていたのだ。
金髪デブ眼鏡三十代男性などはあからさまにエイミーを撮影していたようだったが、多分映像は残らないだろう。特殊なメカニズムにより、彼女の姿は撮影されないようになっている。
「よっしゃ、行くぞてめぇら……ショータイムのお時間だ!」
「おつゆちゃん、行くよ」緋見呼がフリキュアグッズから離れようとしない露を呼ぶ。
すでに眠兎先生に数千円使わせている露だったが、また改めてグッズの前に立つとまた改めて違う商品が欲しくなり、物欲の無限ループ地獄へと迷い込んでいた。
「お姉ちゃん、これ買って」などとほざく。
「お姉ちゃんって……同級生だったと思うんだけど」と、緋見呼は半ば強制的に露の手を引っ張って、先にとっとと行ってしまった薄情な女たちのあとを追った。
「もっと買うにしても、見終わってからにしなよ。邪魔になるでしょ」
「はっ! それは考えてなかった……」
それとかこれとか関係なく、購入すること以外なにも考えてなかった露はあとでクリアファイルセットもやっぱり買っておこう(買ってもらおう)と決めた。クリアファイルなんて一つ二つあれば足りるし、そんなすぐにダメになることもないのだが、どうしても買ってしまう。そんな露はアニメ系クリアファイルを百枚近く所持していたので、一生懸命、毎日のように違うものを学校へと持ってくる。持ち歩く必要のない粉雪宛のいたずらメッセージ紙切れや、粉雪から自分宛のいたずらメッセージ紙切れなぞを挟んで。
最新の映画スクリーンは、どの角度、どの距離から見ても遜色ないよう作られた、最新技術の結晶だった。画面から飛び出たり、はみ出したりするVR技術なんて当たり前で、目にやさしい映像を映すテクノロジーも使用されている(これは、現在ほとんどの家庭用テレビにも使われている)。そのため、薄暗い中で長時間観賞しても目が悪くなるどころか視力が改善してしまうので、なにもネガティブな要素がない。そして、非常時にはすべての壁が消え失せるので、避難するのも簡単なのだった。
「さて……座席は上のほう」粉雪が先頭で、薄暗い中、段差の低い階段をあがっていく。途中、なんか水が流れてきたのを目にして、粉雪は止まった。足元を照らすライトで、それに気がついた。そしてすぐ、上方の異変にも気づく。
「びええええーん!」と、前方の座席から小さな子供の泣き声がしていた。母親らしき人物が子供をなだめながら、床に膝をついてなにかを拭いている。
「ど、どしたんですか?」
「すいません、この子がおどろいてお漏らししちゃって……」
母親はどうやら、子供のお漏らしを拭き取っている最中だった。
「ってことは、これはおしっこか」と気づく。
「わたしたちも手伝おう」と、もこ菜が提案した直後、駆けつけたスタッフ二人が参加したので、粉雪たちは任せることにした。ただ、粉雪はひとつだけ気になったことを母親にたずねてみた。
「なんでビックリしたんですか?」と。
すると母親から「それが……『食人鬼パラダイス』っていうホラー映画の予告編があって……」と、にわかには信じられない言葉がとびだす。
「は? マジすか? フリキュアの映画の前なのに? それ、絶対なんかのミスですね。ありえねー。あとでママに言っておきます、すみませんでした」
とりあえず粉雪はあやまっておいた。
「そりゃひでーな! でも見たいな、食人鬼パラダイス!」
「三先輩って、そういう趣味なんですか?」
もこ菜の問いに、三は「そうだよ?」とあっけなく答えた。
ともあれ並んで座った一行が息を整えるころにはすべての予告編が終わり、最後の警告映像が流れだす。
『劇場内での盗撮、バカ騒ぎ、爆発、座り小便などはご遠慮ください。見つけ次第、当館スタッフによって叩き出されたあげく、世間の笑い者になることをお約束します』
「……こんなんだっけ?」と言う三。
「……いや、多分ここだけっスね」と粉雪は教えてあげた。
ようやっと、映画本編がはじまった。
エイミーの匂いがやさしく香る空間で、幸せな気分に浸りながら、幸せな時間が幕をあける。