【-9-】
一騒動あって、ハチは今、露天風呂に入っている。僕は寝室で待っているのではなく、居間のテレビを点け、そこから垂れ流される番組を見ているようで見ていない、考え過ぎて周りが見えていない状況に陥っていた。
ハチは僕の前ではいつも強かった。そりゃ二度、三度と弱い一面を見せられたことはあったけれど、それでも僕の中でハチはいわゆる、正義のヒーローみたいな、そういう部分があった。
一度目は男子の心無い一言、二度目は先輩への告白失敗。
「三度目は……僕、だったっけ」
僕が地方の大学に行くのでは無く、二つほど県を跨いだ――まぁ社会人になってからは、仕事であちこちに飛ぶことはザラにあるし、今も県を二つ三つほど跨いだところに宿泊しているわけだが、青臭い頃の僕――いやハチは、そのたった二つほど県を跨ぐということが、今生の別れであるかのように、感じていたのだった。僕は僕で、まぁどこかでまた会うことはあるんじゃないかと陽気に考えていたのだが、ハチはまるで、僕が地球の裏側に行ってしまうみたいな、そんな感じで卒業式を控えた数週間は常に俯き加減で、いつもの元気さの欠片も無く、周囲から心配されていた。
なんでそんな遠い大学に行きたいのか。
なんで家から近い大学じゃ駄目なのか。
一人暮らしなんて三柳に出来っこない。
元気が無いから、ちょっと話を聞こうと思ったらそのように攻撃されて、カチンと来た僕はハチに怒りをぶち撒けたのだ。
口喧嘩は激しいものだった。そもそも言葉での攻撃に強いハチと、言葉で喧嘩をするのはなかなかに、死力を尽くすものだった。後半、僕は半泣きだった。ハチに至っては完全に泣いていた。この口喧嘩は休み時間が終わるまで続き、周囲と先生に止められるまで続いた。その後、一人ずつ引き離されて放課後に先生に事情を話すことになったのだが、僕は洗いざらい話したが、ハチは沈黙を貫き続けたらしい。
「心残り……だったはずなのにな」
その後、僕はハチと表面上は仲直りをした。互いに謝り、卒業までの間、いつも通りを貫いた。でも、僕はともかく、ハチは絶対に心の底から謝っていないと思った。嘘をつく時のハチほど分かりやすい奴は居ない。
だから、大学生になってもそれはシコリとして残っていたはずだった。
気付いたら、ハチもちゃんと謝っていたんじゃないか、と勝手に記憶を改変していた。過去の記憶を、青臭い記憶を美化してしまっていた。セピア色に染まっていたそれを、さっきのやり取りでようやく僕は、完全な状態で思い出したのだ。
「ハチ……大学に合格した時は喜んでいたけど、内心じゃ喜んでいなかったんだろうな」
僕が遠くに行くことになるのに、心の底からハチは喜ばないだろう。でも僕は、彼女が喜んでくれて良かったと受け取っていたのだ。
「でもさ、ハチ? どこからなんだよ。どこから、お前は僕無しじゃ駄目になってしまったんだ?」
少なくとも高校二年生の時には一つ年上の先輩に告白していたじゃないか。あの時は、僕とのやり取りの全ては友情から来るものだったんだろう?
なのにどうして、さっき、ハチは泣いたんだ? 僕が変なことを言ったからか? 気持ちの悪いことを言ったからか? いや、そうじゃない。「今の私を見て」と言った。それってつまり、僕にそういう気持ちを、少なからず、砂粒程度ではあれど持っている、ってことだ。そうじゃなきゃ、そんな台詞は口からは出て来ない。
「ハチは、僕とは友情で結ばれていると思っていたのに」
この旅行だって、友情の再確認。そういうものだろうと、決め付けていた。でも、僕は徐々に友情以外のものに支配されて行った。その態度が、悪かったのかも知れない。
だからハチも同じように、砂粒程度の想いに翻弄されて、支配されつつあるのかも知れない。
僕のこれは、砂粒程度とはもう呼べなくなってしまっているが。
露天風呂の扉を開閉音が聞こえた。続いて、髪をバスタオルで拭う音。それから、体を拭く音。この空間では、些細な音でも敏感に拾えてしまう。
「あー!! 寒い!! 死ぬかと思った!」
座椅子に座っていた僕は前のめりに倒れそうになった。
「三柳! 強風の中で露天風呂に入れるのって今日だけなんだよ、ある意味貴重だよ! でも、心臓ヤバいよ! もう寒暖の差でドックンドックン鳴ってた! 要注意だよ!」
吹っ切れるの、早いよなぁ、ほんと。
さっきまでの雰囲気はなんだったんだよ。僕の物思いも全部全部、吹っ飛ばしやがった。
「でさー三柳、また浴衣の着付けお願いできる?」
間仕切りの襖を勢い良く開けて、ブラとシャツ一枚、下着一枚に浴衣を羽織っただけの状態でハチは居間にやって来た。さっきもう、ブラとパンツまで見ちゃっているからな。多分、もう隠すのも面倒っていうことなんだろう。
「はいはい」
僕は呆れ返りながら、彼女の言う通り、浴衣を着付けた。
「じゃ、僕も露天風呂に入るから」
「うん」
手荷物から替えの肌着等が入った物を取り出し、間仕切りの襖を閉じる。
「ねぇ、三柳。私、覚悟しているから。ちゃんと……私を見てよ?」
その言葉に返事はせず、僕は衣服を脱いで行った。