【-6-】
「さむっ! って言うか、さむっ!」
「風、キッツいなー」
出掛ける前から分かっていたことだが、今日と明日の天気はそれほどよろしくない。降水確率は低いが、曇り。そして、風が強いらしい。春一番、というやつだろう。
「ちょっ! 風っ! 三柳、こっち見ないで!」
コートの下に何枚かは互いに着込んではいるのだが、この風を前にすると、僅かでも露出している肌が凍て付くかのように冷たい。けれど、それ以上に問題なのは、この強風でハチのスカートが捲れ上がりそうな点であった。必死に押さえ付けてはいるので最悪の事態は免れているが、気を抜いてはならない状態が続いているとでも言うべきだろうか。
これは乗り換えするたびに起こっていたことだが、スマホのマップで調べてみれば、ここは知多半島。海が近いこともあって、そっちから吹く風もプラスされ、よけいに冷たく、そして強い風が吹くので、彼女のスカートとの格闘はここが最大の山場といったところらしい。
ハチは制服以外でスカートを履くことはなかった。小学生時代はずっとズボンを履いて、男勝りな一面もあった。僕に対してイヤミを言う相手なら誰にでも言葉で噛み付いてはいたが、決して無敗であったわけではない。僕の記憶では二度、三度ほど敗北している。その一つに、これもまた小学生の頃だが「お前、ち◯◯ん付いてんだろ」と男子に言われて、言い返すこともなく教室から逃げ出したというものがある。女の子に対してよくもまぁそんなことを言えるもんだなと僕は思いつつ、教室から居なくなったハチを探しに行った。幸い、ハチはすぐに見つけることができた。と言うか、その頃から僕はもう彼女がどこに隠れようが見つけられるくらいはわけないことになっていた。
その日、初めてハチが泣いているところを見た。男勝りであっても、ハチはやっぱり女の子なんだと、そう思った日でもあった。声を掛けることは出来なかったので、隣に座って、彼女が泣き止むのを待って、一緒に教室に戻った。
次の日からハチはスカートを履くようになった。女の子らしくなりたいという理由で、嫌いだったスカートを履くことにしたらしい。元々、端正な顔立ちだったので、このスカートを履いたハチを見た男子のほとんどは見惚れ、昨日のことが嘘のように女の子として扱われるようになった。
あの頃はまだ男勝りで、スカートが捲れようがどうってことないという感じであったが、どうやら現在はそうも行かないらしい。
「迎えの車っていつ来るんだ?」
「大垣駅ぐらいで電話して下さいって言っていたから、もうすぐだと思うけど」
この風とこの寒さでは、二分や三分ぐらいなら待っていられるが、五分は耐えられない。
「なぁハチ? 風の凌げる場所を探さ、」
「ギャーッ! こっち見るなー!」
尚もスカートと格闘中だったらしい。これは、先が思いやられそうだ。
五分、いやおよそ三分だろうか。それぐらいに迎えの車はやって来て、「八宮様ですか? こちらへどうぞ」と運転手に誘われ、僕とハチは車に乗った。やはり外と車内では風を受けない分、温度差が違う。「今日はお越し頂きまして、誠にありがとうございます」と運転手は言いながら宿へと車を走らせる。
「こちらに向かう間、ずっとこれぐらいの風が吹いていましたか?」
「はい。こっちの方が風が強いように思えます」
「海辺ということで、今日は海風も強くて、とても寒いですよ。露天風呂に入る際には注意して下さい。寒暖差による血管の収縮で、血が詰まってしまって倒れてしまわれる方も居るそうですし。私共のところでは、今のところ、そのような事故はありませんが」
海辺の宿なんて聞いていないが、そもそも旅行先そのものも聞いていなかったので、今更、驚くことはしない。
車が走ったのは十分程度。車道は空いていて、渋滞などに巻き込まれることもなくすんなりと宿に着いた。
「ようこそ、お越し下さいました。それでは、ごゆっくりとおくつろぎ下さいませ」
歓迎の言葉を向ける運転手にお礼を言いつつ、僕たちは車を降りて、宿の中へと入る。
ホテルと言うよりも旅館だ。外観から平屋ではなかった。数えただけだが、五階建て、と言ったところだろうか。大きくもなく小さくもなく、中規模の宿だ。
フロントからは海を一望できる。あいにくの天気ではあるが、この景色は都市部にこもっているだけでは味わえないだろう。
ハチはチェックインの手続きを行っている。隣で、旅館より出された梅昆布茶を飲みつつ、彼女が変なヘマをしないように意識を傾ける。まぁ、ハチがこんなところで料金を間違えていたり、部屋の予約を間違えているというようなポカをやらかすわけがないのは分かっているので、ほぼ全て任せ切りだったのだが。
手続きを済ませ、旅館の方が僕たちの荷物を預かり、共に予約した部屋を目指す。エレベーターに乗り、五階へ。そこにある二部屋しかない内の一部屋の鍵を開けて、僕たちを部屋へと通してくれた。
和洋折衷ではあるが、やや和が強い。洋を感じる部分は大きな寝心地の良さそうなベッドが二つと、様式のトイレぐらいだろうか。それ以外は畳、座椅子、座卓といった和式らしさが華やいでいる。なにより、ここからも海が一望できる。
「入って右手側が寝室、左手側奥の扉がお手洗いとなっております。居間にはお菓子とお茶を御用意させて頂いておりますので、ご自由にお手を付けて下さい。そして居間に入って右側奥に洗面台。そしてこちらが、部屋付きの露天風呂となります。本日は大変、風が強く、肌寒いため、入浴する際は特にご用心下さい。また、冷蔵庫にはアイスも入っておりますので、ご自由にお食べになられて下さい。居間のテレビは地上デジタル放送であればどれでも視聴が可能となっております。その他、細かなことはこちらに纏めてありますので、一度、お目を通し下さい。わたくしの説明不足故に、なにか分からないことがございましたら備え付けのお電話で1を押して下さい。フロントへと繋がります。外へお電話をなさる場合は0を押してから、市外局番から番号を押して頂きますと繋がります。大衆浴場は地下にございます。ただし、開放時間に御注意下さい。朝は六時から十時まで、午後は五時から十一時までとなっております。食堂は誠に申し訳ありませんが、フロントより続きます階段をご利用下さい。それでは、夕食の方、御用意させて頂きたいのですが、午後五時、六時、七時のいずれの時間帯にお越しになられますか?」
僕たちの荷物を「失礼致します」と言って居間の片隅に纏めて置いて、部屋の説明をしたのち、訊ねて来る。
僕はハチに目配せをする。決めるのは、この旅館の予約を取ったハチだ。僕はそれに合わせるだけで良い。
「それじゃ、七時でお願いします」
「承りました。それでは、七時にファイルに挟んでおります夕食のお食事券をお持ちになって、お越し下さい。また、お出掛けになられる際には必ずこちらの鍵をご持参し、また鍵をお掛けになって下さい。一つは部屋の鍵、もう一つは貴重品等を入れておく金庫の鍵となります。小さな金庫ではございますが、万が一の際に備えてご利用頂けるとなによりでございます。本日はお越し頂き、誠にありがとうございます。それではごゆっくり、お過ごし下さい」
そう言って、旅館の方は部屋を出て行った。
「オーシャン! ビュー!」
ハチは窓から見える景色に嬉しそうに叫ぶ。
「露天風呂は……」
僕は間仕切りとなっている襖を開けて――逆に言えば、この襖以外に脱衣所と洗面台を仕切る物はなにも無いという点に一抹の不安を抱きつつ、露天風呂を確認するために部屋と露天風呂を繋ぐ扉を開ける。
マンションで言うところのベランダだろうか。さすがにそれよりもスペースは圧倒的に広いが、そこに円形の浴槽が一つ。そこに源泉掛け流しの温泉が溢れている。左右を見ても、コンクリートの仕切りがあって、誰かに覗かれる心配も無い。五階にはもう一部屋あるのだが、僕たちが入っている部屋とは直角になるように扉があったので、部屋の形が違う可能性がある。となると、そのもう一つの露天風呂の位置は、このコンクリートの仕切りを越えたところで恐らく、見ることはできないだろう。そもそも覗こうという気は無いが、相手側が覗いて来ないという可能性は無きにしも非ずなのだ。そんな犯罪に手を染めるような連中が、こんな高級感溢れる旅館に泊まる理由も見当たらないが、こういう確認は特に、女性を連れている場合は必要だと思う。
「ってか、さむっ」
僕は確認を終えるとすぐさま露天風呂と部屋を繋ぐ扉を閉める。浴槽から上がる蒸気は強風に揺られて、若干、渦巻いているようにすら見えた。
「どうするー? まず露天風呂入るー?」
「入るんなら僕は寝室から動かないからな」
「えー、テレビでも見ていれば良いのに」
オーシャンビューな窓から横に視線を移すと露天風呂スペースが丸見えなのにそんなこと出来るか。かと言ってカーテンは無い。あるのはロールスクリーンだ。遮光としては抜群だが、やはり隙間からなら見えてしまう。なんてトラップだ。僕の欲望が暴走して、ハチの入浴姿を見ようとしてしまうかも知れない。
もう完全に僕は友情よりも、男女の関係を意識してしまっていて、自制が利くか利かないかの瀬戸際に追いやられていた。男女の友情は存在しないと提言していた方々に今からでも平謝りしたい気持ちが強くなる。
幸いなのはダブルベッドでは無かったことぐらいだろうか。言っても寝室はやや狭く、ベッドの位置も近いので、気分を紛らわす程度の効果しかない。
「あー布団があるんだな。じゃぁ僕は布団で、ハチはベッドな」
居間にあった押し入れの襖を開けると、そこには柔らかそうな敷布団、枕、掛布団の三点セットがあった。これを使えば、ベッド以上に距離を開ける。居間と寝室を繋ぐ間には間仕切りの襖もある。鍵は掛けられないが、空間を隔絶することさえできれば、僕は暴走することも無いだろう。