【-11-】
午前五時半に目を覚ますと、ハチ……ではなく、スミレは僕よりも先に起きていて朝風呂を味わっていた。ロールスクリーンの隙間から、なにやら常に表情が柔らかく、たまに笑顔まで作っていた。昨日は頑なに覗かないと言っていたが、夜にあれだけのことをしたのだから、もうその辺りの信念は放り出していた。なにより、体調が心配であったし、覗くのも仕方無しだと判断した。
それにしても、スミレは化粧前と化粧後の印象がほとんど同じである。こういうノーメイク、又は薄化粧だけで済ませられる女性って、朝早くに起きてメイクする時間を必死に獲得している全国の女性に恨まれないんだろうか。
逆にこういうこと考えている僕の方が恨まれそうだが。
その後、彼女と交代するように僕も朝の露天風呂を満喫し、その後、部屋でのんびりとした時間を過ごし、地下の大衆浴場にまた入った。どれだけ温泉が好きなんだと言われそうだが、源泉掛け流しの旅館に折角来たのだから、限界ギリギリまでは満喫したいところである。この点は彼女も同意見だった。
女湯から戻って来た彼女はどうにか浴衣を自分なりに着付けていたが、帯締めはやはり諦めたらしく、着付け通りではない締め方になっていた。が、男性陣を困らせるようなあられもない格好にはなっていないし、部屋に戻れば帯は直せるので、ここでは指摘しないでおいた。
「おー、今日は卓球台空いてるね」
「早朝に温泉卓球はしたくないんじゃないか?」
昨日は三台とも全て、他の宿泊客に使われていたが今はどれも空いている。
「ねー三柳、卓球しようよ卓球」
「もう卓球はしないって」
「遊びでなら良いでしょ遊びでなら」
そこまで言われたら、僕は折れるしかない。実はちょっと、体を動かしたかったし、卓球も昨日、見掛けた時にちょっとだけやりたかった。
ラケットを選び、卓球台を挟んでスミレと向かい合わせになる。
「金掛けてないなぁ。グリップが擦り減っているところは仕方が無いにしても、ラバーはもうちょっと手入れして欲しいもんだ」
一応、ラケットにも大きさの種類も基準もある。ラバーも弾みやすさ、弾みにくさ、回転の掛けやすさ、掛けにくさで特徴が異なる。
「ピン球ってセルロイドからプラスチックに変わったんだよね」
「やっぱり少し違うらしいな」
ここにあるのもプラスチック製のピン球だ。スミレはピン球の具合を確かめるように台で弾ませたのち、僕の方を見る。
「なにか賭ける?」
「遊びに賭け事を加えるなよ」
「それもそっか。じゃ、まずはプラスチック製のピン球がどんな具合か確かめよっか」
スミレがサーブの体勢に移る。サーブをする際はピン球をラケットとは逆側の手の平に置き、相手に見えるようにしなければならない。そして、そこからサーブに移る際には規定の高さまでピン球を浮かせなければならない。
この辺りは昔取った杵柄というもので、勝手に体に染み込んでいる。なので、マイラケットでもないのにスミレは完全に回転を掛ける形のサーブを打って来た。体に染み付いているので、軽くサーブを打つというのは、それはそれで難しかったりする。やろうと思えば出来るが、何故かネットに引っ掛かる。あと、サーブの規定を気にするから空振ることもある。全部、高校時代の経験だけど。
それに対応しつつ、カコンッカコンッと軽めの打ち合いは次第にカコッカコッと小気味良い打ち合いへと変わり、最終的にカーンッカーンッカーンッカーンッと甲高い音を立てて、ピン球はスミレのコートを跳ねたのち脇を抜けた。
「お前、本気で打って来るなよ! 遊びだって言ってただろ、なんでスマッシュ打つんだよ! あと返球に一々、回転入れてんじゃねぇよ!」
「三柳だってなんでスマッシュで返して来るの! それに全部、スピンが掛かっていてラバーの中心で捉えられないんだけど!」
温泉卓球なのに、マジの卓球勝負を繰り広げようとしていた僕たちは互いに罵り合ったのち、頭を冷やす。ラケットを台に叩き付け掛けたが、ギリギリで止まった。ラバーは高い。そしてラケットも高い。そんな怒りに身を任せ、台で叩いて良いものじゃないのだ。
「プラスチックだと、なんだか重いな。回転の掛け方を少し変えなきゃならないんだな」
「プロはすぐ慣れるんだろうけどね。私たちは昔にちょっと齧っただけだから、全然、駄目っぽい」
「……ま、僕たちはプロとかアマチュアとか、そんなん考えなくて良いから、テキトーに打とう。テキトーに」
そう言って、僕はスミレからピン球を受け取って、軽めのサーブを打つ。
その後、互いに体が勝手に反応したことで、激しいラリーを繰り返し、汗まみれになった僕たちはまた大衆浴場で汗を流し、今度は卓球台に手を付けることなく、部屋に戻った。
彼女の浴衣を着付け直した頃合いで良い時間帯となったので、朝食を摂った。昨日の夜は個室での海鮮料理のコースであったが、朝は宿泊客も交えた大部屋でのバイキング形式だった。美味しいわけがないので、バイキングのマナーとして食べられる量の料理を盛り付け、全ての皿とお椀をきっちり空にして、二人で大部屋をあとにした。
「チェックアウトは九時だから」
部屋に戻る途中で、スミレは僕にそう伝えて来た。
「一泊二日だったんだな」
「実はここに泊まれるのは、駅地下でやっていたガラガラくじの景品だったり。一等賞は海外旅行で、二等賞が沖縄、三等賞がここだったの。いやぁ、まさか当たるとは思わなかったなぁ。有効期限があるから、ギリギリ間に合って良かった」
三等でも旅行券を用意しているなんて、凄い大盤振る舞いもあったもんだ。でも、一泊二日であるのなら釣り合いが取れるのか?
「じゃぁ、宿泊費はともかく、僕がスミレに払うお金って幾らくらいだ?」
「……名前で呼ばれると、なんか恥ずい」
「ハチじゃなくてスミレって呼ぶって言っただろ」
「でも、夜のことを思い出して、うわぁってなる」
「諦めろ。もう僕は慣れたから」
「ちょっと意地悪になったよね、三柳。でも、質問には答える。宿泊費は払わなくて良いから、電車賃と、あと雑費かな。ほら、ビールは別料金だったし、ああいうの」
頬を少し膨らませつつ、不満を露わにしていたが、数秒で吹き出し、小さく笑いつつ彼女は答えた。
「そっちで計算は出来るか?」
「それは問題無し。私、お金にはうるさいから」
そこまで自信満々に言うんなら、気に掛ける必要も無いか。
「あ、そだ。忘れてた……お土産を買わないと」
「そういや、僕も会社の人たちに買っておかなきゃな」
二人して下駄を鳴らしつつ、お土産コーナーへ行く。まぁ、下駄と言ってもこれは『右近』と呼ばれる物で、歯は低く、足を上げて歩くというよりは若干、引きずる感じになる種類の下駄なのだが、部屋にあった物なので、帰りにはちゃんと自分の靴に履き直すことを忘れないようにしなきゃならないなと、ちょっとだけ意識しておく。
「海老煎餅がお土産には最適だよね。大きいサイズ二箱……二箱で足りるかな。会社用と、実家用なんだけど、大きいサイズでも社員全員に行き渡るか分かんないよね。三箱かなぁ」
「その部署全員に渡すわけじゃないだろ。上司と部下と、同僚にあと先輩。ついでに僕の場合は、お局様にも渡す必要があるから、小さいサイズも買わなきゃならないけど」
「お局様って、三柳のところにも居るんだ?」
「僕は男だからまだマシだけどな。女性社員はいっつも気にしているよ。スミレは?」
「私は気に入られているって言うか、お局様だろうと先輩だろうと割とズケズケと物を言っちゃうから、避けられている……? うーん、違うな。一応は気に掛けてもらっているから、認めてもらってはいるんだろうけど、どうなんだろ。でも、買っておいた方が良いよね」
それはお局様が「この子を敵に回すと、孤立しかねない」と思っているからじゃないだろうか。スミレの性格は人を惹き付けるから、中立の人も味方になるし、敵も味方になりそうだし。
「海老煎餅は……ちょっと手荷物が増えそうだから、フロントに頼んで伝票貰って、宅配してもらうか。あとは個人的に渡したい後輩とか、友達とか居るなら、ストラップかなにか買うか」
「だねー、軽くもなく重くもなく、捨ててしまっても『御免、来る途中で外れちゃったみたい』って言って誤魔化せるストラップが良い感じ。コップとか貰ったりすると捨てられないからね」
「……今、僕は女性の怖ろしさを垣間見た」
「え、なにが?」
世の中の女性はストラップをそういう感じで処理しているのか。僕は捨てられずに困っているっているんだが、もしそんな風に言って処分したら、同僚にも女性社員にも嫌われそうだ。