序章 今話-灯-
煌々と光輝く満月の下、某県の郊外にある地図にすら乗らない小さな村の墓場に、二つの影が相対するように存在していた。
一つは年端もいかないような華奢な少女だ。透き通るような白銀の髪を腰のあたりまで伸ばし、臙脂の根付で無造作に束ねている。宝石のように煌めく赤い眼に、紅を引いたかのように赤い唇。一片の汚れもない白衣と緋袴をまとい、その手には少女に不似合いな大振りの日本刀を握っていた。しかしその姿は、その手に持つ凶器を含めても―――非現実じみた、女神や天使のように見えた。
もう一つの影は、口に出すのもおぞましいような姿をしていた。一つの岩ほどの大きさを持ち、そしてその体全体にいくつもの目と歯が隙間なく張り付いているようだった。大人の頭ほどはあろうかというほど大きな目はぎょろぎょろとせわしなく動き、見るものに恐怖を植え付ける。時折歯が蠢く(うごめく)と、にちゅりという音がした。その体を支えるのは足と呼ぶのもはばかられるような触手のようなもの。
異形。その一言だ。
「―――単刀直入に言う。千面僧、おとなしく消えるか、それとも力づくか。どちらだ。」
少女が唐突に口を開いた。鈴のなるようなその声には、聴いたものに有無を言わさぬ圧力があった。
千面僧と呼ばれたそれは、どこからか笑い声を発した。ぎょろぎょろと動かしていた眼の焦点を少女に定め、歯を一層に動かしながら。
「ぬかすなよ子娘が―――わしを―――私を―――愚かな―――俺を―――従えるなどと―――痴れ者が!」
それはひどく耳障りな声だった。多くの声が混ざり合い、煮詰まり、ぐずぐずになったかのような、雑音とあらわすのがふさわしい声。それはここが屋外であるはずなのに、まるで部屋の中を反響しているかのように少女へと押し寄せる。
「・・・つまり、大人しく引く気はないと。そういうことだな?」
千面僧はそれには答えず、また笑い始めた。無言は肯定と同意、である。
それを見て少女はふう、と息を吐き、静かに刀を握りなおした。
ざぁっ、と音を立てながら、一陣の風が通り、一枚の木の葉を散らした。
それが合図になったかのように、それが地面につく数瞬前、どちらともなく足を踏み出した。
千面僧は、元は一つの寺に仕える僧であった。
名を宗海といい、他の僧たちより人一倍仏への信仰の熱い男だった。
ある寒い冬の日、宗海は難病に侵された。
それはかかったものの指先から焼けるような苦痛を与え、最後には死を与えるといわれる不治の病。
身を焼かれるような苦痛を味わいながら、宗海は考えた。
なぜ仏様は、私を助けてくださらないのかと。
人一倍信仰しておりました、人一倍敬っておりました、人一倍あなた様に忠実でした。
ですのになぜ、あなた様は私めをお救いにならないのか。
朦朧とする宗海の目に映ったのは、自分の苦しむさまをどこまでも冷たい銅の目で見降ろす仏の姿。
そのとき、宗海の中で何かが切れた。
どんなにすがったところで、仏は救ってくれなどはしない。なれば―――復讐してやる。
私の一生の信仰を、無下にしおった罰だ。
狂ってしまった宗海は、手始めに寺にいた人間を一人残らず食べだした。
壁に立てかけてあった斧で逃げる者の頭をかち割り、また首をへし折り、獣のように食べた。
そして夜が明けるころには、宗海は人ではなくなっていた。
自分勝手な信仰と、食べられた人の恨みつらみがまじりあった、一つの妖怪に。
そうして生まれた千面僧が今までに食べた人間は延べ2000人。
食べた人が多ければ多いほどその恨みを自身の糧にする千面僧は、ここまでのものになってしまえば普通の人間はおろか霊媒師であれど命が危ぶまれるほどに危険な妖怪なのだ。
すなわち、この少女は何もできず、ただこれから訪れる苦痛なる死を待つばかりである―――
―――普通であれば。
「―――――――ぎゃぁあああああああ―――ああああ!!?」
いったい何が起こったというのだろうか。
千面僧は先ほどの一から一歩たりとも動くことなく―――幾本もの刃に身を貫かれていた。
その刃は一本一本が屋敷の梁ほどの長さを持ち、幅に至っては子供の背丈ほどもある。それらが放射線状に広がり天に向かい反り返っていた。
そしてその刃のもとの部分にいたのは―――赤く妖しい光を出す刀を千面僧に向けた、少女。
「―――馬鹿な―――わしが―――この千面僧が―――こんな―――小娘にぃいいいいい!!!」
「・・・一つだけ訂正だ、千面僧。」
それまで顔色一つ変えず押し黙っていた少女が、表情を崩す。
見るものをひきつけるような、この場に似つかわしくない笑顔。
「私は小娘じゃない、今年で110歳になる――――まあ、前世を合わせるとだがなぁ!!」
そう言いながら、少女―――8回目の生を生きる『トモシビ』、金輪灯は、千面僧を断ち切るかのように刀を横へと凪いだ。
少女の話は、ここから始まる。