第一章 双頭の牛事件 その7
十三
家についたときには肩が激しく上下していた。
中へ入ると、『スペイン人留学生殺害事件の容疑者は以前、逃亡を続けており、持ち去られた――』というニュースの音と『遅かったのね』というキッチンのほうから母親の声が重なって聞こえてきた。部活が長引いたの、と適当なウソをついてペンリアーズといっしょにお風呂へ入る。シャワーを浴びている間に浴槽へお湯をためる。身体を洗い終えたころには半分くらいになっていた。栓を止めて浴槽の中へ。ペンには大きな桶に水をためてある。お互い疲れを洗い流しているとき、湯船の中でワタシは事件のことを考えた。
恐怖心は水の中に溶けたらしい。冷静になって考えてみると、双頭の牛は、やっぱり悪魔や妖怪などではなくて松則くんだったのだ。
胴部分も牛の形で、さらに頭がふたつあったらそれこそ恐ろしい存在なのだろうけど、身体は人間だった。
松則くんの家を出たあと、彼は先回りして部室の何かを隠そうとした? 持ち去ろうとした? それともワタシを待ち伏せしていたのかしら。真相はわからない。わからないけど、何か目的があり、牛の仮面をかぶって行動を起こしているのだ。
仮面をかぶる理由は? 双頭である意味は?
深入りは避けるべきなのだろうか。どうしよう。
お兄ちゃんならどうするかしら。
水の中に頭を沈めた。鼓膜にボゴゴゴウウウゴゴゴという水の音が響きわたる。水中で眼を開ける。すると兄の愁児が水底から笑顔で手を振っている。なに人の裸見てんのよ! という怒りは少しだけあったけどそれはすぐに消え去り、水中から顔を上げ大きく息を吸い込む。
やっぱり、事件はまだ解決していない。ここであきらめたら、この先きっと後悔する。だって水中は、こんなにも苦しいのだから。兄は笑顔だったけど、本当は笑顔なんて浮かべていられないくらい苦しんで、苦しんで、それから海でおぼれていた姉妹を助けたのだ。事件を解決するために。
命がけの兄の意志を、ワタシも受け継がなければならない。
浴槽から出るとペンリアーズをゴシゴシしたあとタオルで拭いて、着替えてから自分の部屋へ向かおうとしたところでまた母の声。「ご飯はどうするの?」「食べてきたからいい。明日の朝ごはんにするから冷蔵庫で冷やしといて」と答えて玄関わきにある階段を駆け上がり自分の部屋へ。ベッドにダイブ、ではなくペンリアーズを置いてすぐに部屋を出る。階段を下り、ちょっと友達ん家に忘れものしたから取ってくるね! と叫んで有無を言わさず家を出る。母親の《ちょっと、最近物騒なんだから――》までは聞こえたけど無視。
目的地は松則くんの家。一日に二度も全力疾走なんて生まれて初めて。でも、ペンリアーズがいないから身体は軽い。すぐに着いた。そして、誰かが出てきたので、すかさず電信柱の陰に隠れた。
牛の仮面をかぶった中肉中背の人物。外見やらしぐさやら動き方から、松則くんだろうと推測できる。何所へ行くの? という出かかった言葉を手で抑えて飲み込む。このまま彼の後をつけて行く先を見届けよう。そこですべての真相が明らかになるかもしれない。
右へ左へちょっとした坂を上りしばらく進んで今度は階段を下りる。ここは何所? もうひとりでは帰れません。どうしましょう。まあいいわ、ここまで来たら前進あるのみ。
やがて右手に豪華な生け垣が見えてきた。十数メートルくらいは続いているだろうか。ちょうど中間ほどに差し掛かったとき、松則牛は生け垣に囲われた敷地内へと姿を消した。見失わないように角まで駆け足。表札を見て「お寺?」と思わずつぶやいた。
「ツノミさん」と背後から声をかけられ、ドギンッとペンリアーズのように跳びはねる。
「先生!」美聖だった。
彼女は驚きの顔からすぐに呆れの表情へと変化させて、「中学生がこんな時間に出歩いてちゃダメじゃないの」と説教された。
「先生はどうしてここに?」謝らずに言う。
「松則くんに話を聞こうと思っていたら、あなたを見かけてね」
ちょっと変でマイペースだけど生徒思いの良い先生だとワタシは思った。
「さっきの牛の仮面をかぶっていたのが松則くん? 薬師寺に何の用があるのかしら、双頭の牛と鷹正くんたちとは何か関係が?」と小さくつぶやきながら彼女は歩き出した。鷹正。誰それ? と考えている間に、美聖が境内を覗く。その刹那、先生はワタシの手首を強く握ってきた。
痛い、という悲鳴を、美聖の恐怖に慄いた眼が消滅させた。彼女の視線を追い、ワタシも中を覗く。寺の中を確認し、彼女と同様、絶句してしまった。
灯篭やら外灯に照らされる、牛仮面を発見したからだ。
否、牛仮面たち!
五人 六人 十人 十五人――まだいる。
逃げたほうがいいのかもしれない。異常すぎる。先生を見上げると、彼女はワタシの背後に視線を向けていた。何を見ているの? ワタシの後ろに、誰がいるの? とおそるおそる、振り返る。
その刹那、ひいいい、という情けない声がワタシの喉からほとばしった。
牛仮面がすぐ後ろに立っていたのだ。大きい。ニメートルはあるだろうか。
そのとき、腕の痛みが増した。美聖が腕を引っ張ったのだ。
「ここを離れるわよ」
彼女の顔を見る瞬間、薬師寺内にいる牛仮面たち全員が、こちらを向いていることに気づいた。
またまた走る。心臓はボッゴンボッゴンでおまけに脇腹が痛いけど、牛仮面の恐怖から逃れるにはこれくらい我慢しなくちゃ。美聖に引っ張られたまま路地を走る。右へ左へ。ちゃんと家まで送ってね、という余裕は、道中飛び込んできた光景によってかき消された。
いたる場所に存在する牛仮面。
ワタシは悟った。牛仮面の正体は松則くんじゃない。否、《だけ》じゃない。この町の人たち全員が、牛の仮面をかぶっていたのだ。
『だって牛さんは、いっぱい居るんだもの。いひひひひ』という夜菜の言葉と不気味な笑顔が蘇り、ワタシはさらにゾッとした。
十四
エンリケが消えた。ここなら絶対に安全だと思っていたのにまた誘拐された。悪魔は私の行動をすべて見通し、奪うのだ。隠しごとは無駄。無理。不可能。トレスは絶望した。決して逃れられぬ運命に、悲観した。それでもあきらめるわけにはいかない。エンリケを見つけ出し、また違う場所へ、隠さなければ、ならない。何度も何度も。エンリケは、この不浄の世界での、たったひとつの楽園なのだから。トレスは泣かなかった。歯を食いしばり、こぶしを握り、闘うことを決意し、親友をかならず取り戻す、と心に、誓った。
つづく