第一章 双頭の牛事件 その4
七
飼育小屋のすぐ隣にある、ずらりと並ぶプレハブ小屋。中央通路をはさむようにして東西にのびている。通路の上には雨よけがあり、細長い影を落としていた。真夏は部活動での熱を冷ましてくれ、みんな安堵のため息をもらすだろうと思った。片方に五部屋ずつ、南側の一番手前がワタシたちの部室だった。そう、《ワタシ》たち。強引に入部させられたような形だけど、まあ動物は嫌いじゃないからいいか。
六畳の部屋に、飼育部の部員たちが集結した。壁側に衣類などを収納するロッカーが並んでいて、部屋の中央には茶色の長テーブルがあるだけの質素な室内。大きな窓のおかげで電気をつけなくても暗くはない。テーブルの上には動物関連の雑誌が乱雑に積まれていた。『ニュートン動物記』やら『動植物大百科・永久保存版』やら『なまけものの本気』やら『アザラシになったチーター』といった定番から意味のわからないものまで揃っている。さすがに男女混合部なので、部屋の角――ロッカーの隣に着替えのためのスペースが設けられており、そこはスライド式のカーテンで仕切られていた。女子はその中で作業着に着替える。飼育部の主な仕事は、動物たちの体調管理に糞尿の清掃に動物たちの個室の掃除、それからエサ当番。十四種、二十八匹も飼っているので大変だ。正直、時間との戦い。ペンリアーズが増えたので今は二十九匹。仕事を増やしてしまってごめんなさい。部員は、部長の松則と夜菜とヒミヨと栃宗、そして、ワタシ。一年の男の子がひとりいるらしいけど、海外へ旅行中だという。まさかアニマル学校らしく外国語ぺらぺらの天才子役やスパイや音楽家といった個性的な子? と思ったけど、絵の勉強でフランスに行っているらしい。それでも一応個性的なのだけど。
ワタシは制服を脱ぎながら隣にいるヒミヨに小声で尋ねた。ちなみに限られた狭いスペースなので、同時にふたりしか入れない。夜菜はふたりが出てくるのを待っている。
「ワタシたちの担任も双頭の牛を見たらしいのよ」
「ええ、知ってるわ」
「ヒミヨはそのことについてどう思う?」
彼女はボタンをはずす手を休めず、けだるそうに答えた。
「どうもしないわ。誰が何を見ようと私には関係ないもの」
「そんなこと言わないでよ。もしかしたら大きな事件に発展するかもしれない、今のうちに対策を練っておきましょう。だけどそんなことよりも、同じ部員である夜菜ちゃんの精神的ショックをやわらげてあげないと」
「夜菜とて他人よ」ヒミヨはカールした赤い髪を直しながら流し眼を向けながら続けた。「外道という文字が、私にとっての褒め言葉なの。忘れないでね」と鼻で笑った。
外道……①仏教以外の教え ②災難をもたらすもの ③悪魔 ④他人をののしっていう語 ⑤口にするとコメディになるのでののしりにはあまりならない語
ワタシは呆れて質問を中断した。これ以上話していても埒が明かないだろうしヒミヨが犯人という可能性もあるからだ。それなら真実を隠したままやり過ごすはずだ。そう判断したワタシはさっさと着替えを済ませ、じっと待っていた夜菜と代わり部室を出た。
質問したい人はもうひとりいる。探し人は飼育小屋にいてウマに干し草を与えていた。彼の巨体はウマにも引けを取らない。ワタシの存在に気づいた栃宗が顔を上げた。
「あ、あの、ちょっと訊きたいことがあるのですが」
後輩なのになんで敬語! と自分にびっくりしたけど仕方がない。
なに? と答えたあと栃宗はすぐに作業に取り掛かった。かまわず彼の背中に質問した。
「栃宗は双頭の牛事件を知ってる?」
コクンと頭が下がる。それを確認して、ワタシは話を続ける。
「実は、ワタシたちの担任も見たらしいの。いったい双頭の牛は何故、ここに現れたのかしら」
「それは俺、も、聞いた。目的」
「目的? いったい何をしようとしていたのかしら」
「――があった」
「だからそれは何かしら」
「――のかもしれない」
ダメ! かみ合わない。ワタシが十話す間に一しか答えない。どうしましょう。
「それは」
「もしかして思い当たることでもあるの?」
「――わからない」
この調子だと自分がした質問すら待ち過ぎて忘れちゃうわよ! と心の中で叫ぶ。先日、ヒミヨが栃宗に怒鳴った理由がわかった。怒鳴らないだけワタシは大人。
「最後にこれだけは答えて。双頭の牛事件は、これからも続くと思う?」
栃宗が手を止めて顔を上げた。うっすらと微笑が浮かんでいる。
「もちろん」
「もしかして、頭がふたつある牛の出現って、初めてじゃなく、以前にもあったの?」
牛さんはいっぱい居る、という夜菜の言葉を思い出したからそう訊ねた。
「わからない」
もういい。
ワタシは大きく溜息をついた。
はたして、飼育部の部員たちは無実なのだろうか。見たところ、悪事を行うような人たちではない。個性的ではあるけれど、悪人ではないと思う。この部に在籍していることでも推測できる。動物好きに悪い人はいない。まあワタシの持論なのだけど。松則くんに関してはもう少し調査が必要だ。よく犯罪者は、罪を犯すような人には見えなかった、と言われる。(そればっかりが耳に残るだけかもしれないけれど)松則の、好青年で優しくて知的な印象は正体を隠すための飾り? それともワタシの観察があまくて、実は飼育部全員が口裏を合わせて隠している? ふう。とにかく現時点ではそれ以上のことはわからない。
ワタシは奥へ移動した。ペンは二匹のイグアナと仲良く水浴びをしていた。心温まる光景に口元がゆるむ、ところがここで、妙なことに気づいた。なんと、一匹のイグアナの色がうっすらとピンク色だったのだ。なんでピンク? 絶句。きっと病気にかかっているのよ。そんなイグアナといっしょにペンリアーズを置いておくなんて無理。ただでさえ鳴き声と色がおかしいと言われているのにこれ以上変になったら耐えられない。急いで救出しようと手を伸ばしたとき、背後から声をかけられた。
「珍しいでしょ」松則くんだった。「ガラパゴス諸島に生息している陸イグアナとグリーンイグアナの混合種だろうと言われているんだ。ロサーダ・イグアナ。ロサーダとはスペイン語でピンクらしい」
「病気じゃないの?」
「ははは。ちゃんとした新種だよ。世界にまだ百頭くらいしかいない稀少種」
思い込みとはすごいものだ。ワタシは本気で心配したのに。それが一遍した。安心したところでワタシは続ける。「それが何でここに?」
「昔、ちょっとした事件があってね……」
それ以上は言葉を濁して黙ってしまった。追及するのもはばかられるのでワタシも口を閉ざした。そこでふとある可能性を思いついた。
「双頭の牛って、普通の牛が進化した姿なのじゃないかしら」
しかしそれを松則くんはすぐに否定した。
「イグアナは食糧が減少して、生き残るために進化した。ところが牛は食糧難に陥ってはいない。それはつまり、進化する必要がないということ。そのような環境では起こり得ないよ」
「そうなの?」とワタシはイグアナを見下ろした。
生き残るために元の種を捨て生まれ変わる。その勇気は、消滅への恐れから来ているのだろうか。孤独への道。未知なる領域への一歩。約束された未来ではない。そんな最初の一歩ほど、ドキドキすることはないだろう。不安にさいなまれるだろう。そう思うのは人間だけではないはずだ。いかなる種にとっても同じ気持ちのはずだ。
ワタシは動物にも普通に感情があると考えている。そんなことないよ、とたまに言われるけど、ワタシにとってはそっちのほうがそんなことないよ、なのだ。確かに人間ほど複雑な思考ではないかもしれない。単純な喜怒哀楽。飼い犬などがわかりやすい例だ。主人が出かけるときは哀しみ、帰ってきたら喜ぶ。散歩に出かければ楽しみ、主人を脅かしそうな不審者には怒る。さらにもう少しだけなら複雑な感情を持っているかもしれない。こういう話題が出て、否定する者にワタシは、かならずこう言う。犬や猫が、一匹一匹性格が違うのはどうして?
人間は人間以外の生物を軽く見すぎている。心の……精神の周囲を《エゴ》が覆っているのでそう思うのは仕方がない。だけど、とワタシは同時に思う。こうやってワタシが動物のことを理解している気になっている感情もまた、エゴの現れかもしれないのだ。ワタシもまた、他の人と何も変わらない同じエゴ人間なのだ。ワタシだけじゃない。周りの人もみんな、エゴを隠すために自分の論理を正当化して心を偽っているのだ。などとちょっと大人な思考に走っているとき、当のイグアナがなんとペンリアーズの短い尻尾をパクリ。ちょっとちょっと! それは食べ物じゃないわよと慌てて引き離す。
じゃれ合っている彼らを見ていると、双頭の牛目撃事件に頭がいっぱいになっている自分がなんだか情けなくなってきた。現に飼育部メンバーはぜんぜん騒いでいない。自分たちの飼育小屋で目撃されたにもかかわらず、だ。自分だけ大騒ぎしてバカみたい。そう思い立つと、なんだか肩が軽くなったような気がした。
もう、忘れよう。
双頭の牛事件――――――――――――――――――――――――――――――完
……て、あり得ない。忘れてしまうなんて無理。気づいてしまった以上真相を究明しなければ、もしもこの先、悲劇が起こった場合、きっと後悔することになる。これからの人生、ワタシはもう、後悔はしたくない。
新入部員は下の世話が主な仕事だった。まあとうぜんだけど。部員数が足りないので誰も手取り足捕り教えてはくれない。簡単に説明されただけ。夜菜はときどき下当番の順番が回ってくるのだが、ヒミヨは決してこの業務をしないらしい。だろうな、とは思った。まあいいや。見て覚えるしかない。だから肉体はさることながら、精神のほうもへとへとになった。
栃宗が外へ出た。ついて行く。飼育小屋の裏手に排泄物処理施設があった。糞尿を放置するのは違法だから当たり前。集めた排泄物はそこでふたつに分けられる。たい肥化と汚水浄化。栃宗の行動を見て記憶する。農家さんが肥料用として、ときどきもらいに来るという。彼らから、双頭の牛の情報を得られるかもしれない、と期待したけど、このときは来なかった。
部活動が終わった。想像を超える重労働だった。ただ動物が好き、というだけじゃ続かないだろう。おそらく入部してはすぐに退部して行く者があとを絶たないだろう。そして、残っているのがこのメンバー。彼らは心の底から、動物を愛しているのだと思った。
着替えを済ませ、再び飼育小屋に戻り、ペンリアーズを連れて帰ろうと抱っこした。突然触れられてビクンとするけど無視。ちょうどそのとき、松則くんが声をかけてきた。彼はまだ作業着のままだった。誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰る。さすが部長、エライ。
「疲れたかい?」
「疲れたし、くさい」
「ははは。においなんてすぐに慣れるよ」
「まあいいんだけど。ところで、なんで牛は飼っていないの?」
ついでとばかり疑問になっていたことを聞いてみる。すると松則くんは驚いたように眼を広げ、「ああ、そうか、ツノミさんは転校してきたばかりだからね。飼っていないというか――」
そこで、彼の言葉をさえぎるようにヒミヨが寄ってきて青くて細い棒状の物をワタシの顔の前に突き出した。
「これならある程度の匂いを抑えることができるから」
そう言って彼女はデオドランド剤を手渡した。
デオドランド……①不快なにおいを除いたり防止したりするもの ②自分では相手に与える不快感がわからないので気をつけましょう
「ありがとう」と答えると、「礼なんていらない。ただの気休めだから」と返された。感謝の気持ちが吹っ飛ぶ。
「ツノミさんの働きがあったから早く終わることができたよ」とニコニコ顔で松則くん。時刻を確認すると午後六時半。
「普段は七時から七時半くらいまでかかるからね」
初心者だけど大きく貢献できたようだ。
貢献……①貢物を奉ること ②力を尽くすこと ③他人に言われるとかなり嬉しいこと ④自分からは言わないほうがいいこと
「飼育部ってきついんだから、どうせ続かないわよ。冬くらいまではなんとか頑張ってもらわないと」と言い残してヒミヨは去って行った。まったくこの女は。というか、後輩なのにタメ口! 本当にどうしようもない女ね。と、憤慨していると、
「口にはしないけど、ヒミヨさんも君には感謝していると思うよ」それはないでしょ。
「おや? 校長先生」と松則くんが眼を背後に向けた。振り返ると、肩にかかる黒い長髪を背後に流しているちょっとした南米人チックダンディおじさまが立っていた。まだ五十代くらいだろうか。
「ほう、それが例の白いペンギンか」「ペンリアーズです」「すまない。私はこの学校の校長をさせてもらっている刈田だ。よろしく。実は、飼育部に半ば強引に入部させた形になってしまったから少しだけ罪悪感があってね。こうやって様子をうかがいに来たんだよ」それにはワタシではなく何故か松則くんが答えた。「彼女も入部して楽しそうだし、ボクたちも助かっています。校長先生には感謝しています」楽しそう? まあ、はい、そうですね。「そうか、安心したよ。これからも君たちには期待している。それじゃあペンリアーズ、またな」と言って去って行った。
「優しそうな人ね。でも、顔が濃くてちょっと日本人離れしているけど」
「この部が存続できているのも、彼のおかげなんだ」
「みんな、動物が好きなのね」
「みんな、ただ好きなだけじゃないんだけどね……」
「何があったの?」
しかしその質問には答えず、「そうだ、ツノミさん、家はどこ?」と松則くんが言う。それに答えると、「じゃあ、ボクの家の近くを通るね。ちょっと渡したいものがあるんだ。寄ってくれるかい?」
断る理由もないのでワタシは承諾した。
八
いくつもの、肝臓のような黒い、臓器、が空を舞い、茶色やら白やら緑色のバネがビョンビョンと地上を飛び跳ねてトレスの隣を通り過ぎて行った。異様な光景に、彼女は大きく嘆息した。世界に安住の地はあるのだろうか、否、《普通》の景色はあるのだろうか。炎のちからを借りて、悪魔の王国をひとつ滅ぼしたのだ、それでもこのありさま、期待は持てない。根絶やしにしなければ変わらない。数年前、まだ幼かったころ、世界は、豹変、してしまった。否、真実を見抜く《眼》が、世界の真の姿を浮き彫りにさせた。人間の姿をした《悪魔》たちと、動物の頭を持った《悪魔の使い》たちが、この世を割拠していたのだ。神なんていない。それが真の姿、真の世界。トレスはあきらめと同時に開き直ってもいた。何所にも行けやしないし逃げられないのだから、自分がうまく順応しなければと。トレスは目立たないように数年間を五体満足で暮らしてきたが、引っ越した新しい町には、さすがに身の危険を感じてしまった。何故ならば、《悪魔の使い》の全員が『牛の頭』をしていたからだ。今までこのように、同一の動物ということはなかった。いったいこの町を支配している悪魔はどれほど強大なのだろう。お金は尽きた。しばらくはここで暮らし移動資金をかせがなくてはならない。幸いにも、仕事はすぐに見つかったので部屋を借り、未来設計を計画する。数か月、長くて一年くらいは滞在しなくてはならない。異様極まりないこの町で……。引っ越して数日が経過し、隣人の牛頭の男が優しく接してくるようになった。私の魂を奪うよう命令されているのかしら、それとも魂を乗っ取りこの肉体が欲しいのかしら、そんな疑いを持っていたが、トレスはおくびにも出さずやり過ごしていた。隣人は冷たく接する彼女の態度に嫌な顔ひとつせず、毎日、声をかけ、よだれを垂らす口を、わずかにゆがめて笑顔を送った。そんなある日、執拗に食事へ誘う牛頭の男の願いを、一度くらいは叶えてあげなければ何をされるかわからない、ということでトレスは了承した。場所はすぐ隣。自慢の料理を披露するという牛頭の男の部屋だった。上下に流水するクラゲのようなドアを開け、突起物を出したり引っ込めたり流動する床を踏みしめ、脈動するキッチンで牛頭の男はいびつな笑顔を浮かべながら料理を始めた。料理といっても細かなプラスチックを組み立てているだけ。あんなもの食べられないし、早くここから出たい。少しでも気を許したのはやっぱり間違いだった、と後悔し始めたトレスは、おもむろに腰を上げて、帰る、と言った。牛頭の男は顔を上げ、円形の眼をトレスに向けた。「本当にごめんなさい。急用を思い出しちゃって、この埋め合わせは今度かならずするから」と言うトレスに対し、牛頭は言葉の代わりに黄色い唾液をドバドバと吐きだした。液体に触れるプラスチックの塊がじゅうじゅうと溶けだす。「イヤになったわけじゃないのよ。本当にはずせない用事なの」突然、部屋中に、ルルルルルルルという音が響き渡った。いったい何の音? とトレスは顔を巡らせるが音の発生源を見つけ出すことはできなかった。鳴りやまないルルルルルルという奇妙な音。鼓膜が強制的に振動させられ、嘔吐感が浮上してきたとき、トレスは音の正体を知った。牛頭の口からオレンジ色の長い舌が飛び出していて、舌先にたまった唾液が上下左右にビョインビョインと飛んでいて、そしてその根元から、怪音が響いていたのだ。
ルルルルルル
つづく