第一章 双頭の牛事件 その3
五
ワタシはまず、第一の目撃者である夜菜から事情を訊くことにした。休み時間になり、幸いにもひとりだったので彼女のもとへ。椅子に座っているとその小柄さが強調され、机が二倍に見える。笑ってしまいそうだったけどなんとかガマンして、ワタシは夜菜にたずねた。
月曜日、一昨日の午後八時。餌当番だった夜菜がある動物に餌を与えるのを(ちなみにイグアナ)忘れてしまい、引き返したところ、薄暗い飼育小屋の中で、頭部がふたつある牛を見たという。
「何所に立っていたの?」
「小屋の奥」
「飼育小屋は夜も解放されているのかしら。つまり、カギはかけないの?」
「ええそうよ。だって学校には警備員がいて何度も巡回しているから安心だもの」
カピバラとかクジャクなど高く売れそうなのに不用心ね、と思ったけどそれは言わなかった。
「何か変わったことは? たとえば、牛以外にも誰かが潜んでいたような気配があった、うろついていた、とか」
夜菜はアンバランスなほど大きな眼を上に向けてから口をとがらせた。
「いつもといっしょ。何も変わったことはなかったわ。だから、私はすぐにヤシャとエンプレスの部屋へと向かったの。(イグアナたちの名前らしい。もちろん夜菜だけが勝手にそう呼んでいる)そのさらに奥が食糧の保管室でしょ、タンポポ(イグアナの餌らしい)を取り出して、それからふたりにあげて、急いでいたからすぐに帰ろうと思ったの。だって大好きなアニメが始まる時間が迫っていたんだもの。で、タチアナとアナベル(ヒツジの名前で、入口付近にいる)の位置まで戻って来たとき、ふと、もう一度振り返ったの。妙な影を目撃したのはそのときだったわ」
「それが、双頭の牛?」
「そうよ」コクンと頭を下げる。
「本当に頭が二つあった?」
「ウソじゃないよ~。電気を常備灯に変えたあとだったから薄暗かったけど、見間違いじゃないわ。上と下にね、ふたつ並んで顔があったんだから~」
「あなただけじゃなく、先生も目撃したと言った。それを聞いて、錯覚や幻覚の類ではないとワタシも判断した。だから確かに存在する。じゃあ、なんなの? ワタシは双頭の牛の正体と、現れた目的を知りたいのよ」
「わかんないよ。だって牛さんは、いっぱい居るんだもの」
「いっぱい?」
「そう、いっぱい。いひひひひひ」
妙な笑い声にゾッとしたと同時にチャイムが鳴った。最後に妙なことを言ったけど、とりあえず状況だけはわかった。もっと追究して情報をつかみたかったけど仕方ない。あとは、他のメンバーの話も訊いて、推理を固めよう。
ヒミヨと栃宗は二年生だ。授業が終わるまで事情聴取は無理だろう。何を質問しよう、何か知っているかな、今のうちに質問内容を練っておこう、などと考えていたので、次の授業はまったく身につかなかった。
六
シャワーで血と汗を流し、着替えを済ませ、ビニール袋に氷を詰めて、それをフェイスタオルで巻いて顔を冷やす。それから数分後、タオルを勉強机の上へ放り投げ、トレスは決意をこめて部屋を出た。窓から漏れ入ってくる頼りない明かりが廊下を照らしている。つまずいて音を立てないように注意しながら、トレスは歩を進めた。ドアがようやく、見えてきた。こちらもまた、音を立てないように優しく操作し、開ける。外へ出ると、暗黒の背景をバックに赤い唇がひとつ浮かんでいた。彼女の存在に気づいたのか、唇は一度デロリと舌舐めずりした。背筋を凍らせたトレスは顔を伏せながら、家の裏手にある納屋へと向かった。使われていない清掃用具などをかきわけ、彼女が取り出したのはひとつのポリタンク。それを重そうに両手で持ち上げ、再び母屋へ。空に浮かぶ唇から、長い長い、舌が、地上に降りてきている。トレスは捕らわれてしまわないよう足を急がせた。世界は悪魔に支配されている。自分は、その真実を知る数少ない人間だ。知っているからこそ、行動を起こさなければならない。それが、使命。トレスは、キッ、と上空を見上げ、宣戦を布告した。「勝てるとは思っていない。それでも抵抗はする。これはその、始まりよ」手にしていたポリタンクのふたを開け、中に入っていた液体を家屋にぶちまける。それからポケットをまさぐり、ジッポーを取り出して火をつけ、おもむろに前方へ放り投げた。勢いよく炎が上がった。熱風が、見えない壁となって、トレスを襲う。手で顔をかばった。パチパチゴウゴウという音と熱風をその身に受けながら、トレスは膝を落とし、そのまま、気を失った。
☆
勢いの止まらない炎の中から、ひとりの女性が這い出てきた。彼女はしばらく地面を転がり、やがて、大きく咳きこみながら涙を立ち上がった。炎の柱が轟音をひびかせ、すべてを飲み込んでいく。こうなってしまったのは自分の責任。倒れている小さな子を見下ろす。このような姿にさせてしまった後悔、憐憫、それらすべてを両腕に抱え、女性は暗い夜の道へと消えて行った。
つづく