第二章 猫叉事件 その11
二十一
噴水の水は常に流れていて、ほどよく冷たく、そして新鮮だった。シュウゾウが満足するくらいの広さもあり、水中を自由に飛び回った。
ところがふとシュウゾウの動きが止まった。水面に顔を出し、それから視線を上げた。
ビョンとジャンプして地に降り立ち、そのままシュウゾウは駈け出した。すぐに階段が巨大な壁となってシュウゾウの前に立ちはだかった。しかし、難なく、一段一段、飛び乗り、上がって行く。
ペンギンの脚力は侮れない。水中からだと、ジェンツー・ペンギンなどは三メートルくらい飛ぶとも言われている。種によるが、地上でも、五~六十センチはジャンプする。
シュウゾウは休まず階段をのぼって行く。飛べないのに翼を羽ばたかせる。
二階へ到達し、一直線に、走る。目的地に向かって、走る。
☆
松則くんたちのいる部屋へワタシたち三人は移動した。ふたりを叩き起こし、事情を説明する。
ワタシの言葉に誰もが凍りつく。
「でも……」
松則くんの話しを聞いているヒマはない。急いで優の部屋へ。
彼女はもう起きていて、ワタシたちを中に招き入れた。そしてひと通り説明したとき、松則くんがつぶやいた。
「六時、十五分だ」
それは、起こった。
大地の底から迫りくる地鳴り。次の瞬間、世界が、縦に揺れた。轟音が鼓膜を襲う。悲鳴を上げる暇もない。とにかく、安全を確保しなければ。しかし、どこに? 安全な場所はどこにあるの?
ちま~ん!
轟音の中、シュウゾウの鳴き声が聞こえた。見ると、部屋の入り口に立っていた。時折身体が浮き、その都度、翼をバタバタさせている。
助けなきゃ、という思いで冷静さを取り戻せた。
「みんな、外へ出ましょう!」
よろめきながら、夜菜、ヒミヨ、憂、栃宗の順で部屋を出て行く。
「ツノミさんも、早く」
松則くんが手を差し伸べる。
「ありがとう」と返し、歩を進めたときだった。
背後から響く高い音。窓ガラスが割れたのだ。室内外に粉々になった欠片が降りそそぐ。一歩も進んでいなかったら、全身に浴びていただろう。
視線を戻す。松則くんはワタシを待っているのか、まだドアのところに立っていた。彼の背後の、本棚が大きく傾くのが見えた。
「松則くん、棚が倒れる」
彼は身をひるがえし、危機を回避する。本が飛び出し、それから大きな音を立てて本棚自体が倒れた。
「ツノミさん、ありがとう」
「さあ、早く脱出しましょう」
そう言って本棚を飛び越え、シュウゾウを抱きあげる。
回廊が、波の上に浮かんでいるかのようにぐにゃぐにゃと蠢いている。絶句し、思わず立ち止まった。
「ツノミさん、しっかり。君は今、シュウゾウの命を預かっているんだ。勇気を出して」
それを聞いて我に返る。
上下左右に暴れる階段を踏み外さないように、集中して下りる。ヒミヨたちはもう一階にたどり着いていて、不安そうにワタシたちを見上げている。そこで松則くんが叫ぶ。
「ボクたちは大丈夫だ。みんな早く外へ避難して」
おかしい。何かを忘れている。何だろうこの違和感。でも、それが何なのか、考える余裕はない。落ちつきを取り戻そうと、他のメンバーの現状を確認する。
夜菜が泣いている。栃宗が彼女の肩をそっと抱き、外へ促す。さすがのヒミヨも余裕がなさそうだ。でも、動かない。ワタシたちを待つつもりだ。優はおろおろきょろきょろと、今にも気を失いそうだった。
ワタシたちが無事、一階へ到達したとき、外から七生さんが中に入ってきて、上を見ながら叫んだ。
「輪さまが、まだ」
それを聞いて違和感の正体を知った。輪の姿がなかったのだ。
優がついに倒れた。七生さんがすかさず助け起こす。
ワタシはシュウゾウを松則くんに手渡し、それから言った。
「七生さんは優さんを早く外へ。輪ちゃんはワタシが助けます」
「ちょ――」
松則くんの言葉を無視してワタシは踵を返した。そのとき、誰かに腕をつかまれた。振り返るとヒミヨだった。
「あんた、何をしようとしているの?」
「もちろん、輪ちゃんを助けに行くのよ」
「バカじゃないの! ミイラ取りがミイラになるわよ」
「離して、助けなくちゃ!」
「あんたもお兄ちゃんのように死ぬわよ」
ヒミヨの頬を叩いた。その拍子に彼女の手が離れる。
ワタシは急いで階段を駆け上がった。
あふれてくる涙をこらえる。
今は泣いている場合ではない。
二階へ着くと急いで輪の部屋へ向かった。視界の片隅に振り子のように揺れるシャンデリアが見える。恐ろしくて直視は出来ない。とにかく今は輪のことだけを考えよう。
扉を開ける。
「輪、居るの? 助けに来たわ」
散乱する家財道具。輪の姿はない。気づかないうちに逃げだしていたのかしら、と不安と安堵がよぎる。そのとき、
「ツノミ、さん……」
消え入りそうな声が聞こえた。
「どこにいるの?」
居た。ベッドのそば。輪は膝を抱えて泣いていた。駆け寄り、彼女を立たせる。彼女は大事そうに、ポインターの写真を握っていた。しかし、それを捨てるようには言わなかった。写真ごと、輪を助ける。
「ここは危険よ。早く行きましょう」
「ツノミさん」輪が震える声で言った。「これって、ポインターの祟りなのかな」
そんなことないよ、と返事を返して、輪と共に、部屋を出た。
階段の中ほどに差し掛かったとき、足元がふたつに割れた。前を行く輪がその裂け目に落ちた。すかさず腕を伸ばし、彼女の手をつかまえる。重さのためにワタシの膝が折れる。急いでもう片方の腕を伸ばし、両手で彼女を支えた。宙に浮かぶ輪。腕の筋肉が悲鳴を上げるけれど、ワタシは懸命にこらえた。
「大丈夫よ、かならず助けるから」
そうは言ったものの、腕の内部のどこかから、ビリビリと音がしている。筋肉か腱が壊れたのだろうか。それでも、輪の腕を離すまいと、ワタシはさらに力を込めた。
脳裏に、写真を捨ててワタシの身体を伝って昇って、という言葉が浮かぶ。しかし口にはしない。それだけは、出来ない。
「今、引っ張り、上げるから、ね」
「もういいよツノミさん、これはきっと罰なんだよ」
「罰?」
「そう。お姉ちゃんを驚かせた罰」
「今回の騒動は、あなたが起こしたことなの?」
「だって、お姉ちゃんは、ポインターを虐待していたんだもの。それが許せなかったの。だから、ボールを使い、シャンデリアを動かし、本を動かし、小屋で驚かせ、木に写真を置いたの。反省してもらおうと……」
「わかったわ。優さんに懺悔させるから。でも、輪ちゃんも謝るのよ。怖い思いをさせて、ごめんって」
輪は泣き顔のまま笑顔を浮かべた。それを見て、ワタシは最後の力を振り絞った。しかし、微動だにしない。数センチも、数ミリも、持ちあがらない。ヒミヨの言葉が浮かぶ。
『ミイラ取りがミイラになるわよ』
頭を振り、ワタシは言った。
「写真を上に投げてそれからワタシの腕を昇って! 助かる道はそれしかない」
「ありがとう」
そう言って輪は写真を、下に落とした。
「後で探すからいいわ。それより、未練たらしくいつまでも写真を手放さなくてごめんなさい」
「よし、助かったらいっしょに探そう。それより、早く……」
正直、もう限界だった。力が徐々に、なくなって行く。
輪がワタシの肩をつかんだ。少しずつ昇ってくる。もう、大丈夫。そう、油断したときだった。ワタシを支えていた部分の床が崩れたのだ。ワタシの身体も、ぽっかりと口を開けた底に吸い込まれる。もう、ダメ。遅かった……。
シュウゾウ、松則くんならきっと幸せにしてくれる。短い間だったけど、楽しかったわ。などと感傷に浸っていると、誰かがワタシの腰をつかまえた。
「まったく、私がいないと本当にダメなんだから」
「ヒミヨ!」
「ヒミヨ様でしょ!」
その悪態が今は嬉しかった。
「さあ、栃宗、いっきに引っ張って」
ヒミヨの背後からぬっと現れた巨人がヒミヨ、ワタシ、輪の三人の身体を持ち上げた。
階段の上に倒れ込み、ワタシは、動けなかった。肩から下の感覚がない。
揺れはまだ続いている。早く逃げなければならないのに、もう、立ちあがることすら出来ない。
「早く立ちなさい!」
ヒミヨの檄が飛ぶけれど、言い返すことも、怒りの顔を浮かべることも出来ない。そのとき、ひょいと持ち上げられた。栃宗だった。
輪が先になり、つづいてヒミヨ、最後に、ワタシを抱えたままの栃宗が割れた部分を飛び越えた。えっと、今の体重はどれくらいだったかしら。いつかのシュウゾウのように負担をかけていないかしら。ちょっと恥ずかしいかも。などと余裕が出てきた刹那、すべての謎が解けた。
最後の輪の言葉、ヒミヨの姿、夜菜のいやらしい笑顔などにより、残されていた不可解な部分、つまり、窓の謎も解けたのだ。
一階には松則くんが居た。外に避難をしていなかった。それを見てワタシは叫ぶ。
「シャンデリアから離れて!」
二度目の命拾い。松則くんが移動した矢先に、シャンデリアが落ちて来たのだ。
驚いている松則くんにワタシは言う。
「お待たせ。早く逃げましょう」
シャンデリアの瓦礫を(栃宗が)飛び越える。正面の扉は倒壊して出られそうになかったので裏庭へのドアからワタシたちは脱出した。
庭を覆う木々がざわついている。大地ですら、水の上に浮いているかのように揺れている。外へ出ても、安全ではない、と知った。しかし、建物の中にはない安堵感はある。
そのとき、短い脚をすばやく交互に動かして、シュウゾウが走ってきた。それを見て、ワタシは笑顔を浮かべた。
「大丈夫よ、シュウゾウ。サルスベリの木と物置小屋には近づかないから」
言い終わると同時に、物置小屋が崩壊し、木が、倒れた。
☆
長い戦いだった。いや、時間にするとわずか数分の出来事だったのかもしれない。それでも、疲弊しきったワタシたちは、地面に座り込んでいた。
シュウゾウが心配そうにワタシのそばでうろついているけれど、抱いてやることも出来ない。両肩に激痛が走っている。
輪に顔を向けてワタシは言った。
「何か忘れてない?」
しばらくの沈黙のあと、意を決したように言葉を発した。
「お姉ちゃん、怪現象の数々は、私が起こしていたことなの。本当にごめんなさい」
「そうだったの……でも、何故そんなことを?」
ここで少しだけ輪の眉が上がった。
「だって、お姉ちゃん、ポインターをいじめていたでしょ!」
ここで憂は眼を丸くした。
「そんなことしてないわよ」
「ウソよ! だってポインターはお姉ちゃんに階段から落とされたし、それから古傷が絶えなかったじゃない」
「階段の出来事は、事故だったのよ。部屋のドアを開けたらポインターが居ただけ。それに、他の傷のことも私は関与していないわ」
ここでワタシが口を挟む。
「輪ちゃん、失礼だけど、その顎の傷はどうして出来たの?」
「階段から落ちてケガをしたの」
「シャンデリアのいたずらは、一度だけじゃ?」
「そうよ」
「でも、二度ほどあったわよ」と憂が間に入る。
そこで松則くんが大声を上げた。
「そうか、そうだったのか! 輪さんに質問がある。君は、高所恐怖症だね」
「ええ、この事故以来、高いところが苦手なの」と顎を指しながら答える。
「写真が置かれた枝はそれほど高いところにはない。それなのに、わざわざ脚立を使った。ずっと気になっていたんだ。使わざるを得なかった訳だね。シャンデリアのいたずらは、『一度しか実行できなかった』。ああ、なんてことだ。窓の数字の謎も解けてしまった」
「ねえねえ、早く教えてよ~」
夜菜が焦れたようにせがむ。
松則くんに代わって、ワタシが答えた。
「夜菜が最初に、答えに到達していたの」
一瞬の間があり、何かに気づいたのか、いやらしい笑顔を浮かべながら夜菜はヒミヨへ視線を向けた。なによ! といいたげな顔に、
「いひひひ。私の勝ち~」と夜菜が笑った。
帰宅途中、ようやく両親と電話がつながった。家は食器が三、四個割れただけで済んだようだ。他のメンバーも家族にケガ人もなく、ワタシたちは心から安堵した。
ワタシの腕をつかむものがあった。振り向くとヒミヨだった。新妙な面持ちで言った。
「ひどいこと言って、ごめん」
「ワタシこそ、叩いてしまって、ごめんね」
これでやっと、本当の笑顔を取り戻すことが出来た。
二十二
やることは、すべてやった。
未来を垣間見たあなたは、家族を救うことだけを考えた。
幸せな人生を与えてくれたせめてもの恩返し。
生まれてきてよかった。
死の間際、あなたは、感謝、に包まれていた。
そして家族に幸せを!
二十三
復興作業は着々と進められ、街や学校などは、災害前の景観を取り戻しつつあった。人間の再生力ってすごい、と改めて実感させられる。遠い過去のように感じるけれど、あれからまだ二週間しか経っていない。だけどワタシたちは、いつもの日常を取り戻していた。
家の近くに、土日祝祭日は家族でにぎわう恐竜公園という奇抜な名の公園がある。恐竜に見立てたジャングルジム(あまり似ていない)と、他にはすべり台や砂場やブランコが用意されている普通の公園だ。
ある休日のショッピングの帰り。恐竜公園を通り過ぎようとしたが、この日は見なれない異物が砂場に座していて、ワタシの歩を止めさせた。
身をかがめていてもその巨体を隠しきれていない。後ろを向いているので顔は見えないが、ワタシはすぐにモンスターの正体を見抜いた。
「栃宗、そんなところで何をしているの?」
彼はゆっくりと顔を上げた。
「捨てられている――」
話し方もゆっくりだった。
「猫を見つけた」
シュウゾウに、遠くへ行っちゃダメよ、と警告し、公園へ入り、彼の元へ駆け寄った。砂場の中央に花柄の木箱が置かれていて、ブチの子猫が一匹、入れられていた。つぶらな瞳をめいっぱい開けて、かわいさをアピールしている。本当はお腹がすいて必死なだけかもしれないけれど。
「栃宗って、見た目は怖いけど、優しいんだね」
彼の背中に言う。正直、栃宗がいなければ今のワタシはないだろう。感謝している。
「ワタシね、ポインターは自分のことを猫だと自覚していなかったんじゃないか、人間だと勘違いしていたんじゃないか、と思うの。でも、優さんたちに降りかかる災厄のことを伝えるとき、言葉の違いに気づいて焦った。死の間際、殻をやぶったポインターが最後に取った行動、それが、あの窓の数字。人間にもわかるように、数字を浮かび上がらせたのだと思う。猫って、いつも自分勝手な行動を取って飼い主にこびないけれど、本当はとっても優しい生き物なんだね。ちょっと、見直しちゃった。それとね、七生さんが気になることを言っていたの。優さんたちの部屋の窓、実は、耐風圧強度を持った、強化ガラスで出来ていたらしいの。優の部屋の窓ガラス以外は、あの地震に耐えたらしい。だからこう言っていたわ。なんらかの原因で、ガラスの内部に亀裂が出来ていたのではないか、と。もしかしたら、光の屈折によって、例の数字が浮かんで見えていただけかもしれない。まあ、真相は闇の中、いや、瓦礫の中だけどね」
熱弁を冷ますかのように、栃宗は例の如く、ゆっくりと、語り出した。
「そうか。ところで――猫――今も――」
「なに?」
「怖い?」
「いいえ、もう怖くないわ」
水たまりで遊んでいたシュウゾウが動きを止め、顔を上げた。視線の先は、砂場。突然、短い足を加速させ、ダッシュ。
「学校に――連れて――行こうと思っている」
栃宗が子猫を箱から出し、持ち上げた。ミ~ミ~とかわいい鳴き声を上げている。
「それは良い考えね。こんなところに放っておくのはかわいそうだものね」
ワタシも抱っこしようと、腕を伸ばした。
笑顔で、栃宗が手渡す。
ガブリ!
けっきょくワタシって、猫に嫌われる運命なのね……。
第二章 猫又事件 了




