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第二章 猫叉事件 その7

     十三


 栃宗の動向を観察していたワタシは彼が何かをつかんでいると察知した。憂の部屋に入るなり迷うことなく一直線に例の窓へ向かったのだ。シュウゾウも彼に続く。

 栃宗が自信を宿した太い手で勢いよくカーテンを開けた。615の数字が出現する。くるりと反転してから、彼が言った。

「わからない」

 それを聞いてずっこけたのは言うまでもない。

 栃宗がガラスを爪でがりがりとする。ちょっと、傷つけちゃうでしょ、と彼の元へ駆け寄ったとき、彼がぶつぶつと何かを口走っていることに気づいた。

「消せない」

 え? とすぐにその意味を察知し、ワタシはガラスに顔をよせる。

「何やってるのふたりとも。ちょっと怪しいよ~」

 振り返ると夜菜がいやらしい笑顔を浮かべ、憂は顔が真っ赤になっていた。

「この行動からなんでそんな変な勘違いが生まれるのかわからないけど。この数字、書かれたものじゃない」

 夜菜と憂の表情が元に戻る。

「この数字、ガラスの内部に浮き出ているの!」

 二人が駆けより窓に張りつく。夜菜は栃宗と同様、爪で数字をなぞり、憂はおそるおそる指でこする。

「憂ちゃん、この窓にはもともと数字が描かれていたんじゃないの?」

「それはないわ。いつの間にか浮かんでいたのよ」

 夜菜が続ける。

「壁や床や岩に顔のようなシミが浮かんでくるという話は聞いたことあるけど、数字、というのは初めてよ。ねえツノミちゃん、思い当たることとかあるかな~?」

 知らないわよ。どのようなトリックを使えば、このような状況を作れるのか。まったくわかりません。

 そのとき、背後からバチンビタンと大きな音が響いてきた。なになについに災厄のときがやってきたのでもまだ十五日になっていないわよでもこんなに大きな音はそうそう出ないでしょ、と蒼白になりながら振り返ると、シュウゾウが翼を書棚にぶつけて本を落としていた。

「こら。いたずらしちゃダメでしょ!」

 急いでシュウゾウを抱きあげる。

「ごめんなさい憂さん」と謝ってシュウゾウを夜菜に渡して本を片づける。『パトリシア・A・マキリップの妖女サイベルの呼び声』『カズオ・イシグロのわたしを離さないで』『性と性のかけはし』『言語力を磨く五十二の方法』『幸せを呼ぶ名前』『MONMON』『アンチ・エイジ・スキンシップ』などの小説からビジネス書、ファッション雑誌から意味のわからないものまでさまざま。どれがどこに収められていたのかわからないので適当につっこんでいく。

「優ちゃん。こうやって本が落ちてきたの?」

 夜菜が何事もなかったかのように憂に訊ねた。ちょっとは手伝いなさいよ、と思ったけどシュウゾウを預けたから無理か、とあきらめて手を休ませずに聞き耳を立てる。

 憂はカタカタと小さく震えるばかりで何も答えない。ワタシは本をすべて棚に戻し、彼女の元へ急ぎ、ゆっくりと椅子に座らせた。

「思い出したのね」

 小さくコクリと頷く。

「もしも無理をしているのなら、今回の調査を延期してもいいのよ」

 そこで顔を上げ、きっぱりと彼女は言い放った。

「大丈夫よ、心配かけてごめんなさい。私はどうしても怪現象の原因を突き止めたいの。結果がどうであれ、決して、後悔はしない」

 しばらく彼女の眼を見つめた後、ワタシは言った。

「任せて、絶対に、真相をつかんでみせる」

 ワタシは立ち上がり、三人と一羽の顔を順に見つめた。

「夜菜、シュウゾウをお願い。栃宗は、シュウゾウとふたりを守ってね」と指示を出し、「それから憂さん、ここから先はワタシひとりで行動するわ。夜菜チームのちからになってあげて」

 何か言いたげだったみんなを残して部屋を出た。

 話を聞かないといけないのは輪ともうひとり。回廊に出て左折。憂の部屋の隣が両親の寝室。その隣が輪の部屋だ。ドアの前で立ち止まり、ワタシは考える。

 お兄ちゃんはいつも、ひとりで暴走しているようだったけど、しっかりと他人の言葉を聞いていた。よく聞き、よく考え、それから行動していた。

 ワタシの考えや行動は正しいのだろうか。正直、相談したい。お兄ちゃんに助けを求めたい。でも、とワタシはかぶりを振る。

 兄が戻ってきたとき、成長した姿を見てほしい。ワタシはいつまでも子供じゃないのよ、お兄ちゃんのおかげで、大きくなったのよ、と。そして最後にこう言いたい。

 お兄ちゃん。ありがとう。

 扉をノックする。しばらくの間があり、どうぞ、と返ってきたのでドアを開ける。

 輪の部屋は憂のところとは左右対称になっていた。右手に大きな窓がある。もしかしてここにも数字が! と思ったけど奇麗な窓だった。

 輪は正面の勉強机に腰をおろしていて、なにかを作っているところだった。いろんな色のビーズの玉がケースに入れられ、その隣には裁縫道具と毛糸玉も置かれていた。机の上にはさらに、数冊の本と小型のCDプレーヤーと写真立てがある。写真には白い奇麗な猫が映っている。家畜種のイエネコだろう。それを見て、この子がポインターね、と思った。

 輪は顔を上げ、回転する椅子を回して座ったままこちらを向いた。

 憂と違って、弱々しい感じはない。どちらかというととげとげしい。黒髪のボブカットで、肌は白い。

「さっきもスマートなお兄ちゃんが来たのよ。疲れているから要点だけをお願いね」

 それを聞いて松則くんだ、と悟った。先を越された。さすがね、あなたは将来、有望な名探偵になれるわ、と感心している場合ではない。

 入り口で立ち止まり、彼女の眼を見返し、両足でしっかり地を踏みしめながら質問した。

「お姉ちゃんが抱えている問題を知ってる?」

「もちろんよ」

「じゃあ簡単ね。単刀直入に言うわ。謎を解明させないと、お姉ちゃんは死んでしまう」

 輪の時間が止まった。眼を大きく見開いたまま動かない。だけどすぐに時は、笑いと共に動きだした。

「あはは。マンガじゃないのよ。シャンデリアと本が落ちてきて打ち所が悪くて死んじゃう? 階段から滑り落ちて死んじゃう? 物置小屋とサルスベリの木が倒壊して死んじゃう? おそろしい可能性ね、バカじゃないの」

「ワタシは真剣よ。マンガじゃないから、恐ろしいの」

 笑顔が消え、輪は真剣な表情になった。

「あなたのお名前は?」

()家根(かね)ツノミ」

「ふ~ん、変な名前」

 思わずカチンと来た。

安輪(やすりん)という名前も変よ!」と言った後で大人げなかったと反省する。

「ゴメン。言いすぎたわ。でも、これだけは覚えておいて。人生って、後悔をしない選択をしなくちゃいけないのよ」

「失敗してもその経験を踏まえて、正しい道を選んで行けばいいんじゃない?」

一理(いちり)あるけれど、取り返しのつかない失敗もある。避けなければならないミスもある」


 一里……①一通りの道理 ②一応の理由 ③いきなり使っても『どうしたの?』と言われる可能性が高い


「ツノミさんって、変で、なおかつ熱いのね」

 阿仁球中学校に転入して《変》と言われたのは二度目。しかも今回は《熱い》までついてしまった。ワタシって、変なのかしら。まあいいわ。誰がどう思おうと、ワタシはワタシ自身を信じる。

 携帯電話を取り出して時刻を確認する。午後十時になっていた。

「残された時間は少ないわ。ひとつだけ聞きたいことがあったの。輪ちゃんのところにも、怪現象は起きてるの?」

 しばしの沈黙の後、「いいえ」と輪は答えた。

 じっと彼女の眼を見つめる。すると輪は急にそわそわし出した。最初に会ったときの落ちついた様子が消えている。どうしたのかしら? と彼女の顔をまじまじと見つめていると、あるものを発見した。

 輪の細い顎の下に、小さな傷跡があったのだ。切り傷らしい跡。

「話は終わったんでしょ。そろそろひとりにしてくれない? これからビーズのネックレスを仕上げなくちゃならないの」

「わかったわ。また後で会いましょう」と答えて部屋を出た。

 次の目的地はキッチン。階段を降りながらワタシは輪のことを考えていた。

 輪は憂の身に起こっている現象を知っているが、彼女の身には降りかかっていない。このふたつはきっとひとつにつながる。それを、見極めなければならない。消去法で探る。最後に残ったのが、答え。とそのとき、ダイニング・ルームの扉が開き、七生さんが出てきた。輪の問題は保留、何処かへ行ってしまう前に彼女を呼びとめる。

「七生さん、少しだけお時間よろしいですか?」

 彼女はきょとんとした顔で上を見上げた。


     十四


 平和な生活がいつまでも続くと思っていた。二度もこの家を守り、もう脅威は訪れないだろうと油断していた。平和というぬるま湯に頭まで浸かっていたあなたはそのせいで敗北を経験することになる。

 第三のモンスターにあなたは恐怖し、負けを認め、ついには逃げ出してしまったのだ。戦意もそれほど高くなかったのが敗因のひとつだろう。しかしそれも仕方がない。何故ならここは、居住区ではなく、物置小屋だったのだから。しかも多勢に無勢、モンスターはそこら中にうじゃうじゃと居たのだ。身体は小さい、が黒光りする身体は異様に堅く、牙も鋭い。何体かは退治した。その間に背後から襲われ、牙を穿(うが)たれ、激痛に苦悶する。

 物置小屋を出てすぐのところに背の高い木がある。あなたは襲撃を逃れるためその木へ登った。焦っていたあなたにさらなる惨劇が襲いかかる。足をすべらせ転落したのだ。(あご)の古傷が開く。流血。絶叫。あなたの中の張りつめていた糸が切れた瞬間だった。


つづく

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