第一章 双頭の牛事件 その11
二十一
「いっしょに病気を克服しましょう」と哀願するおばさん。だけどワタシは先生の眼が、あらぬ方向をとらえていることに気づいていた。おばさんの声はトレスという人格に届いていなくて、しかも、何かをたくらんでいる。
「危ない離れて!」
「ルルルルル戻らない戻らないルルルル」
先生は後方に、まるで、背骨がないかのように腰をグニャリと曲げ、眼鏡を取り上げた。それから、ヌギン、と背筋を戻して、かけ直す。
「あんたたち男でしょなんとかしなさいよ」と、ワタシはまだうずくまっている鷹正たちに叫んだ。しかし、ワタシの声はガクブルココココと震えて歯を鳴らしている彼らの耳に入っていない。顔を戻す。先生は天井を振り仰いで意味不明の言葉を発している。
「エンリケ、何所へ連れて行かれたの~もうすぐこの悪魔と悪魔の使いを退治するから~ルルルル」
先生の腕に血管が浮き出て、握られたこぶしがぎりぎりと音を立てる。首を小刻みに振動させ、その都度ゴギギココンゴギリギギギリゴコンと骨が鳴る。
「ノー。ペレ・エン。やめなさい!」と叫ぶおばさんの説得を期待しないで逃げるしかないと悟る。使い物にならない男の子ふたりとしわくちゃなおばさんとかよわいワタシだけじゃ話にならないが、あきらめずに何とかしなければならない。
おばさんの手を取る。棒立ちになっていたので引っ張る。扉は閉まっているが、カギは破壊されている。大丈夫。逃げられる。ドアのノブに手をかける。そのとき、耳のすぐうしろに、生暖かい風が当たった。
「逃がさない」
ひいいいいと人生二度目の情けない叫び声を発してしまった。崩れるようにドアを開けて外へと倒れこむ。
「あらこんなところに居たのねエンリケ」ワタシを見下ろしながら、「さあもう大丈夫よ。私といっしょにまたパラダイスを探しましょう? ル、ル、ル」
違う、ワタシはツノミよ! という言葉はしかし出てこない。
ゴコンギジギジと先生の右腕が真後ろへ垂直に曲がる。ピッチャーの投球フォームを壊したような感じだった。そこから繰り出されるのは……考えただけでも恐ろしい。だから、「エンリケじゃないわ、ワタシはあなたの生徒、ツノミよ!」とようやく叫ぶことが出来た。だけど遅い、もう手おくれ、と一瞬あきらめかけた思考をワタシは頭を振って退けた。おばさんだけでも助けなくては、と彼女を横に押し出す。そしてひとりになったところで、ワタシは眼を閉じた。
ちま~ん!
「ペン?」
眼を開けるとペンリアーズが翼を大きく広げて先生を見上げていた。助けに来てくれたのだ。
ペンリアーズは鋼鉄のようなくちばしで突いた。ふくらはぎの肉をくわえ、グリッとえぐる。悲鳴を上げる先生を見て、ワタシはすかさず身体を起こして眼鏡を奪い取った。すかさず外へ放り投げる。
なぜ先生は、わざわざ眼鏡を拾ったのか。それは、絶対に必要なものだから。シャワーから戻り、眼鏡が濡れていたのは熱気や湯気ではなくかけたままシャワーを浴びていたからだ。おそらく、眼鏡なしでは先生は何もできない。
パリンという乾いた音が耳を刺激した。見下ろすと、下に松則くんが来ていた。なんでここにいるのよ、と声をかけようとしたとき、「お母……さん?」と、まるで別人のような声で、先生がつぶやいた。
☆
警察に家まで送ってもらった。玄関で蒼白になっている両親をなだめて、ワタシは最後まで付き添ってくれた松則くんに礼を述べて家の中へと入った。
松則くんは全力疾走するペンリアーズの後を追って先生の家にたどり着いたという。それを聞いてワタシは、犬でもないのになんで場所がわかったの? ではなくて、ある人物を思い出していた。
モフンとベッドに倒れこむ。ペンリアーズもジャンプしてきた。
ワタシは顔を上げてペンに向かってこう言った。
「あなたの名前を変えるわ。これからは、シュウゾウよ。わかった? と言ってもわからないか。でも、何度もシュウゾウシュウゾウって繰り返せば理解するよね。あなたの名前を改名するわ、シュウゾウよ」
シュウゾウは光り輝く瞳をワタシに向けながら、小首を傾げた。
その日の夜、ワタシは懐かしい夢を見た。
日差しの一番強い季節、縄張り意識の強いネコの領域に、おさないワタシは迷い込んでしまった。人通りのない狭い路地、そのネコはブルドッグくらい大きく、完全に野生化していて、道をふさぎながらカアアアアと唸っている。当時三歳だったワタシにとってはライオンくらいの大きさに感じられた。あまりの恐怖に足がすくんで動けなかった。せめて眼をそらせば見逃してもらえたかもしれないけれど、固まってしまったワタシはずっとネコの眼を凝視していた。侵略者だと勘違いしたのか、ついにネコが飛びかかってきた。とそのとき、兄の愁児が走ってきて、ネコを追い払ってくれたのだ。兄の胸で泣き崩れるワタシの頭を、優しく撫でてくれた感触は、今でも覚えている。
場面が飛ぶ。家族で山へピクニックに行ったとき、遠くで昆虫取りをしていた兄が血相を変えてこちらに向かって走ってきた。手には何も入っていない網と虫籠。何かから逃げているのかしら? と不思議に思って見つめていると、兄は網を大きく振りかぶってワタシめがけて振り下ろした。なにすんのよ! と文句を言いながら避けた。ザスッと網が地面にあたる。兄の様子が変だったので怒りが消える。視線の先を追うと、網の中で悶えるヘビの姿があった。
ガバンと飛び起きる。
シュウゾウの姿を探すと、ベッドの下で立ったまま寝ていた。
その変な姿にくすくすと笑い。カーテンを開けて外を眺める。真っ暗。月明かりもない。壁にかけられているアナログ時計を確認すると七時半。そこでワタシは、あれ? と思う。朝にしては暗すぎる。これは変だ、と空を眺めていると、闇から二条の光が差し込んできた。何かしらとさらに見つめていると、信じられない光景を目の当たりにした。六メートルくらいに巨大化した美聖が、ワタシの家を見下ろしていたのだ。光は雲ではなく、彼女の脇の下からもれていたのだ。つまり闇をつくっていたのは巨大美聖。彼女は片足を上げている。もちろん狙うはこの部屋。もうダメ、と眼を閉じようとしたとき、シュウゾウが起きだして巨人美聖に襲いかかった。
ガバンと飛び起きる。シュウゾウの姿を探すと、ベッドの下で立ったまま寝ていた。
やすらかな寝顔にちょっとだけ嫉妬し、そのあとすぐ、ある可能性が脳内にひらめいた。だからワタシは、「シュウジ!」と叫んだ。
シュウゾウはビクンと反応し、一瞬だけ眼を開けて、すぐにまた眠りに入った。
変なの、とつぶやいた後、ワタシは、兄が消えてから初めて、泣いた。
☆
美聖は精神の疾患が認められ入院した。数日後、容体を心配したワタシは松則くんを連れて病院へ向かった。(さすがに動物は連れて行けないのでシュウゾウは置いてきた)病室には先生の母親がパイプイスに腰をおろして娘を心配そうに見つめていた。おじゃまします、と声をかけると大きく腫らした眼をこちらに向けてにっこりと笑顔を返した。
変わらぬ、姿だった。
「毒はけっきょく入ってなかったようで、こうしてお見舞いに来ることができました」
「あなたは勘違いをしているのよ。美聖は家を放火したのは確かだけど、人を殺したことは一度もない」
「え? でも死体が――」
ここで松則くんが割って入った。
「ツノミさんはもしかして、スペイン人留学生殺害事件のことを言っているのかな?」
「そうよ。先生はスペインで生まれたのだし、その人と意気投合した。ところがある理由で、ここは推測だけど、痴情のもつれかなにかがあって、先生は留学生を殺害し、それから死体を切り刻み、細かくして飼育小屋と部室に隠した」
「今朝のニュースで犯人が捕まったと報道されていたよ」
「ええ! そうなの?」
松則くんが大きく頷いた。
「おしいところまで推理していたね。犯人は元交際相手の女性。美聖先生とスペイン人留学生が部屋にいっしょにいるところを目撃してしまい、逆上して元彼を殺害。先生は現場には居たのだけど、無実なんだ……いや、罪は犯している。切りきざまれた死体の一部を持ち出しているのだから」
「美聖は少し変わった病状も持っていたの」とおばさんが言う。「生きとし生けるものがすべて物質に、逆に、物質が生き物に見えるという妙な病気。しかも、死んだ者がエンリケとかいう友達に見えたようね。でもエンリケというのは友達でもなんでもなくて、昔飼っていた子犬の名前なの。この子犬は父親に殺害された。その事実を、受け入れられないでいるのかもしれない。そのせいで見えるものが逆転しているのよ。おそらく、スペイン人の死体がエンリケに見えたのかもね。だから持ちだした。そして、各部位が乾燥してミイラ化したのでしょうね。まだあるわ。眼鏡をかけている間、トレスという人格が身体を支配する。凶暴で、異常な人格。ツノミさんだったわね。咄嗟の判断で眼鏡を取ってくれてありがとう。あなたのおかげで、やっと、娘が帰ってきた」
ワタシは照れ笑いを浮かべながら思う。
ふたりの説明に矛盾はない。でも、トレスには凶暴と異常の他に、プラスされることがある。ミイラを作るには血を抜き、内臓をすべて取り出し脳髄も外へ出して、それから乾燥させなければならない。もうひとつの人格であるトレスはただ恐ろしいだけじゃなく、精密な技術力と知識も持っていたこということ。
はたしてそんなトレスが、大人しく消えてしまったのだろうか。
眼鏡をはずされたら消えてしまうという弱点に、何も対策をほどこしていなかったのだろうか。
だけどこの母親がついているのだ、美聖はいつかきっと病気を乗り越え、ふたり幸せに暮らすだろう、とワタシは信じている。
だって人間は何かと共存して生活しているのだから。家族、友人、恋人、仕事仲間。細かいところでは体内のウィルスもそうだ。それから酸素や地球の恵み。なにひとつ欠けても生きては行けない。過去の記憶、未来への希望、このふたつもまた、生活の上でなくてはならないものだろう。
『共存は仲良くなくてはならない』
まあ、ワタシの持論だけど。
共存……①自分も他人もともどもに生存すること ②同時にふたつ以上のものがともに存在すること ③きょうぞん、も間違ってはいない
最後にワタシはこう言った。
「大丈夫ですよ、先生はとっても優しい人だし強い。だからワタシは信じています。また学校で、あの屈託のない笑顔を見られると。それからきっと、トレスを退けるのではなく、平和な共存を成し遂げる、と」
先生の母親はそれを聞いて何も答えなかったのだけど、そんなの当たり前でしょ、だって私の娘なんだから、という顔をしていた。
☆
病院からの帰宅途中、松則くんから双頭の牛、というか、鷹正兄弟による騒動の真相を知らされた。
翌日学校で、ワタシは鷹正兄弟に詰め寄った。
彼らは飼育小屋と飼育部の部室でミイラの頭部と腕を見つけそれを持ち帰ったという。人形だと思っていたらしい。なんてバカ。
頭部と腕を使って仏像を作ろうとしていたのだ。それを聞いてさすがは住職の息子たち、と感心したけどそれは黙っておく。黒い液体は血ではなく、仏像の彫像作りに欠かせない漆。粘土でつくる塑像はもうマスターした、中の土を取り除く脱活乾漆像をどうしても作りたかったんだ~などと意味のわからないことを、ちっちゃい方が叫んでいた。おっきい方は、漆での仏像作りは奈良時代の後期から衰退して行った、なんてもったいない、俺はそれを現代によみがえらせるんだ~などと生意気なことをぬかした。でも双頭の牛事件が大騒ぎ不思議事件になってきて、かといってもう表には出られなくて、このままじゃまずいと焦り、ミイラを戻そうとしているところをワタシに目撃されたのだ。何故、林の中や川に捨てないで、わざわざ目撃される危険をおかし部室に戻そうとしていたのか、それを問い詰めると、あ! とふたりはまぬけな顔を返した。落第確定知能指数。
「すぐに僕たちですって白状していればここまで大きくならなかったのよ!」
と言い残し、怒りが収まらないままワタシは席に戻った。そこへ松則くんがにこにこしながら近づいてきた。
「牛の仮面をかぶるのは、この時期じゃあ当然のことなんだよ。ボクはすぐに、双頭の牛の正体が法流兄弟だとわかった。だから何をしていたのか問いただそうと、寺へ向かったんだ」と、人の気も知らないで松則くんが穏やかに言う。あんたもすぐに教えなさいよ! と思ったけど脱力してどうでもよくなって黙っていた。
「一年に一度の、牛を奉る行事なんだ。京都の広隆寺でも牛祭りがあるね。まあ向こうは人間の仮面をかぶるんだけど。牛神信仰は日本各地で行われている。島根、広島、大分、和歌山、山口、まだあるよ。地方によって行事が違う。牛に田を耕せさせたり、角にショウブを飾ったり、闘わせたり。で、こっちの祭りはね――」
彼の説明は止まらない。ちょっとイライラしていて牛や祭りに興味もないワタシは話をほとんど聞いていなかった。
「そうだ忘れてた。知的に見えるほうがいいかなと思って、だて眼鏡を買ったんだ。どう? 似合うかな」と松則くんが眼鏡をかけた。
ワタシはその瞬間、眼鏡を奪い取り、あ! と叫ぶ松則くんを無視して黒板に向かって投げつけた。
ホームルームが終わり、事件のあらましを聞いた夜菜がこんなことを口にした。
「トレスって~スペイン語だよね。意味はなんだっけ?」
それを聞いてワタシはぞっとした。
たしか、意味は……。
席を立ち、教室を出る。夜菜と松則くんがどうしたの? という顔で見ているけど無視。
校門前で校長先生の刈田と鉢合わせた。血相を変えているワタシに気づき、彼もまたつられて血相を変えた。
「そんなに急いでなにかあったのかい? まさか神湖先生絡みじゃないだろうね」
「そのまさかです。事件はまだ、終っていません!」
失礼します、と言い残して目的地へと急ぐ。
先生の部屋にあったいくつもの鏡。少しだけ変だなとは思っていたけど、今にして考えるとその数は異常だ。鏡の目的は自分を見るということ。何故、あんなにも鏡を用意して何度も何度も自分を見なければならないのか。
そう、何度も何度も……。
部屋に行ったとき気づくべきだった。ペンリアーズをシュウゾウと改名したときに思いつくべきだった。
病院に到着。先生のいる病室へ。ノックもせずドアを開ける。
「おばさん! トレスってスペイン語で数字の三でしょ。推理はすべて間違っていたの。真犯人は、トレスではなくてさらにその裏の人格、トレスに洗脳され続けていた美聖先生、本人よ!」
しかし病室には、もう、誰も居なかった。
第一章 双頭の牛事件 了
つづく




