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第一章 双頭の牛事件 その10

     十九


『逃げて』

 ティーカップを持ち上げた後、ソーサーの中央に小さくそう書かれていた。この家には美聖しかいない。それともキッチンに誰か閉じ込められていて先生が眼を離した隙に『逃げて』と書いたのかしら? さっきのドドンもその人が?

 美聖の顔を見る。いつもと変わらない笑顔。悪意のない優しい微笑。それを見てワタシは違う解釈も考えた。

 実は他に真犯人がいて、何所かでワタシたちの行動を監視している。だから先生は口には出せず、こうやって合図を送ったのではないだろうか、危険を(かえり)みずに。さっきのドドンという音は、その真犯人が発した美聖に対する警告なのでは? じゃあ、本当の犯人は誰なのか? もう一度、推理を練り直さなくては。逃げる訳にはいかない。先生を助け、それから真犯人を暴きだす。

 ワタシは先生に小さく頷いて見せて、ティーカップを戻した。その瞬間、


 飲みなさい!


 先生が叫んだ。だけど、笑顔のまま。そこでまたドドン。今度は音の出処(でどころ)目処(めど)がついた。背後にあるクローゼットの中。ワタシはそっと立ち上がった。そのときチラリと先生を見るが、笑顔で座ったまま。

 誰かいるんですか? 口には出さず指で示した。

 しかし先生は微動だにしない。かまわずワタシはクローゼットの前に移動し、腕をのばした。

 開ける前に振り返る。美聖は笑顔を崩さないまま座っている。大丈夫、何かあってもワタシが先生を守るから。開けてもいいのね。うん、かまわない。勇気を奮い起してワタシはクローゼットを開けた。

 衣類が少ない。隙間だらけ。だからすぐに発見した。

 片隅に横たわる、双頭の牛を。


 ワタシは、大声で叫んだ。間違いなく顔がふたつある。化け物。こいつがすべての元凶なのだ。

「あなたは誰なの? 正体を現しなさい!」


 ルルルルルルル


 奇妙な鳴き声。しかしそれは眼の前にいる双頭の牛から発せられた音ではない。

 背後からだ。ワタシは再び振り返った。

 美聖がルルルルルと鳴きながら、ワタシが置いたティーカップを拾い上げ、テーブルの上によじ登っていた。

「ルルル飲みなさい飲みルルルルなさい」

 逃げようとした瞬間、両足首をガッシリとつかまれ動くことが出来なかった。見下ろすと双頭の牛が《四本》の腕でつかんでいる。顔を元に戻すと美聖が眼と鼻の先に移動していた。

 ワタシはパニックを起こした。『逃げて』と言った先生の様子もおかしいし双頭の牛には腕が四本あって人間とは思えないし先生は今なにをしようとしているのか双頭の牛は今なにをしているのかそれからワタシはこの後どうすればいいのかじっとしていたらどうなってしまうのかごめんなさいと誰にともなくしかも頭の中で叫んでいるしふとそこで、兄の顔が浮かんだ。

「助けて、お兄ちゃん!」

 なんで兄に助けを求めているのだろう。もうダメだ。完全に冷静さを失っている。

「おいいしいいわよ~ルルル飲んで飲みなさいなんで飲まないの先生の言う事をききなさいいいルルルルルル」

 美聖が左手でワタシの首を絞めた。怪力に、思わずワタシは口を開ける。その隙をつき、右手に持っていたティーカップを傾けた。ゴギュウウウル、ング、ボゴ、ング、と変な音を立てながら、飲んでしまった。

 飲んでしまった!

 ここまで執拗(しつよう)に飲ませようとするには何か理由がある。もしかして毒? きっとそう。この紅茶には毒が盛られている。ああどうしよう。人生はまだまだこれからなのに。助けて。そうだ吐き出そう。速効性がなければ間に合う。助かる。本当? 無理でしょ。ああ、どうしましょう。


「ノー! ペレ・エン!」

 ドアを蹴破り、女性が侵入するなり異国の言葉でそう叫んだ。その顔には見覚えがある。深いシワが刻まれた顔。生気のない瞳。そう、学校で見かけた女性だ。

 美聖の動きが止まり、ワタシの首から手を放す。膝が折れ、たまらずその場に尻をついた。カ、ッカハ、フスウウウと息を吸い込む。狭くなった気道が十分な酸素を運んでこない。それでも必死に、ッハ、ハア、カハ、フスウウと命の源を体内に取り込む。

 シワの女性がワタシを見ながら言った。

「ごめんなさいね。今回の騒動は、すべて私の責任なの」

「あ、なたが、真犯人なの?」と咳きこみながら返す。

「そういう意味じゃなくて」シワの女性は美聖に視線を戻し、「もう終わりにしましょう、トレス」と感情のない声で言った。

「トレスって、誰ですか?」

 ワタシが(たず)ねるとシワ女が視線をそのままに答えた。先生はじっと立ちつくしたまま、茫然としている。

「美聖は私の娘なの。小さいころ父親から虐待を受け、しかも学校でもいじめに会っていた。そういう境遇だったから、解離性(かいりせい)障害(しょうがい)になってしまったの。もう一つの人格というのが、トレス。今、眼の前にいる女よ」


 解離性障害……①自己の同一性、記憶、感覚などの正常な統合が失われる心因性の障害 ②真実と虚実の判断が難しい ③古典的トリックで三大タブーのひとつ


 暗記したセリフを朗読するように、シワ女が淡々と続ける。

「私はスペイン人と結婚して向こうへ移り住んだの。そこで美聖を生み、数年が経過したころ夫の工場が破綻した。それからなの、夫が娘を虐待するようになったのは。止めても無駄だった。私も殴られた。一年ほどは我慢したわ。いつか再就職し、優しい夫に戻ってくれるだろう、と願いつづけ。でもその前に、美聖が壊れてしまった。現実を逃避するために別の人格をつくってしまったの。それでも……そうなってしまっても、虐待は止まらなかった」

 長くなるのかしら。はやく病院へ行きたいと不安にかられているのだけど具合は悪くないしおばさんは自分の娘は無実なのよ的発言に心がこもっているから止めるようなことはしなかった。先が気になる、というのもあるし……。先生を見ると、じっとしたまま動こうとしないので、まあ、安全だろう。

「――私は、美聖を救うため、離婚し、日本へ戻ってきた。だけど心の病というのはそう簡単に治るものじゃない。良くなるどころが、トレスという人格は自我を強固なものにしていき、やがて、美聖を支配するようになった。私にとって過酷な看病生活は、終わりの見えない無限地獄のようだった。それに、誰かにすがりつきたい衝動もあった。そんなある日、介護士の男性と出会い、彼のそばに安息を求めた。心のよりどころだと思い、実際そうだったのだから、すぐに再婚した。ところがそれは弱っていた私の思い上がりで、勘違いで、この男もまた、とんでもない利己的なヤツだった。美聖の病のことを知っている上で、娘を(ののし)った。自分の子供じゃないからそういう行為、行動を起こせたのだと思う。いいえ、他人に従事する職業のストレスを、美聖に対して発散していただけかもしれない。そのせいで、娘の心の傷はさらに深いものになった。そしてついに、愛する娘が人道に反する行動に出た。家に火をつけたの。再婚相手の暴力に恐怖し、傍観者でしかなかった、私が招いた、悲劇」

 ここでシワ女の眼尻のシワに水が右へ左へと折れ曲がりながら流れた。彼女の顔を間近で見てワタシは知った。彼女の顔にあるのは、シワではなく、火傷の跡、ということに。

 先生の顔にはいつの間にか笑顔が戻っていた。だけどその眼は乾燥している。以前見たおばさんの眼が、彼女に感染したように感じた。

 しばしの沈黙があたりを支配した。おばさんは感極まって本格的に泣きだしている。先生は動こうとしない。ワタシは未だにギュウギュウつかまれている足を解放しようと、双頭の牛に言った。

「もう大丈夫よ。だから離してちょうだい」

 そのとき気づいた。双頭の牛は、一匹ではなかった。

 クローゼットの中に牛の仮面をかぶった、ふくよかな体型の男の子と小柄な男の子が縦に並んで座っていたのだ。夜菜から目撃情報を訊いたときに湧いた違和感の正体はこれだったのだ。頭部が横ではなく縦に並んでいたという不自然さ。双子の兄弟が前後に立っていただけ。マスクをはがす。しかも同じクラスっぽい。見たことある。確か、薬師寺の住職の息子たちだ。そうだ、思い出した。法流(ほうりゅう)(たか)(まさ)(まさ)(つぐ)兄弟。そこでワタシはもう一度言う。「すべて終わったわ。だからもう安心して」

 ふたりが手を離したところでワタシは立ち上がり、おばさんに詰問した。

「飼育小屋に隠した死体というのは、再婚相手だったのですか?」

「あなたは何か勘違いをしている。美聖は――」

 彼女が何かを言いかけたとき、今まで黙っていた先生が突然、口を開いた。

「もっとルルルもっルル飲みなさいもしかして気づいたのルルルやっぱり気づいたのねそれがあなたの能力ルルル心を読む能力ルルルエンリケを返してエンリケがいないとダメルルルルルルなの」

 先生が再び壊れた。能力? 心を読む? エンリケ? なんのことだかまったくわからない。

「トレス、あなたは実在していないの。娘を返して!」

 おばさんが前に出て、先生の頬をはたいた。その拍子に先生の眼鏡が飛んだ。


     二十


 視界が、霧、に包まれている。いつからだろう、ここに、迷い込んだのは。最後に覚えているのは大きなこぶしと父親のいびつに歪んだ顔。それから眼窩(がんか)に広がる激痛と鮮血に染まった世界。その赤のあとに来た、霧が、今でも私の周りを覆っている。今日(こんにち)に至るまで、晴れない。痛みは引いたけど霧に覆われたまま。なんでだろう。ここは何所だろう。わからない。とにかくもう普通の世界ではない。それでも出たくない、と思う。戻りたくない、と願う。ここは歪んでいるけれども、平和に包まれている。誰もいない静かな世界は私が望んでいた願望。もしかしたら、神様が与えてくれた空間かもしれない。だから出たくない。ずっとここにいたい、そう思った。どれくらい、さまよい、歩いただろうか。霧の奥から何者かがやってきた。すらっとしていて線の細い眼鏡をかけた女性。だけどこの世界で出会った初めての、人。もしかしたら、人ではないのかもしれない。警戒する私に女性は優しく語りかけた。「いつまでもこの世界には居られない。かならず戻るときがくる。イヤでしょ? 私はその悩みを解決させに来たの。戻った後の世界……悪魔が闊歩(かっぽ)する世界で無事に生きられる方法を私は知っている。だけどそのためにはあなたが心を開かなくてはならない。さあ、ゆだねなさい。私に、すべてを」

 いやだいやだ痛いのはいやだ、絶対に戻りたくない! でも、彼女を簡単に信じるわけには行かない、いや、他人を信じることは出来ない。

「証拠を見せてあげる。あなたの眼から、悪魔を取り払ってあげる。さあ、この眼鏡をかけてごらん。そうすれば、あなたの眼から真実を隠してくれる。苦しみを、取り除いてくれる」

 視力が悪いわけでもないのに、眼鏡をかけた。それしか、なかった。

「あら、似合うじゃない。うふふ。これで確認してみて」

 次に、手鏡を渡された。

 そのとき、霧が、濃くなったような気がした。


つづく

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