第一章 双頭の牛事件 その9
十七
「松則くんだけならただの悪ふざけで済んだけど、ここまで大勢だと、得体の知れない狂気を感じます。みんなで同じいたずらを? その可能性は限りなくゼロだと思います。だからワタシはこう考えました。一連の出来事は、何かを称える儀式なのではないかと。何かというのはやっぱり、双頭の牛。双頭の牛とは、この町を守る神様なのじゃないかしら。もしくは、災いを招くのが双頭の牛で、それを鎮めようとしているのかもしれません。そのどちらかとしか考えられないのです。そこまで行きつくと、飼育小屋で見つけた腕と、牛が持っていた頭部の意味がつながってきます。答えは後者。双頭の牛事件の真相、それは、『いけにえ』を用意して災いを払う儀式」
美聖は紅茶を一口だけすすり、カップを置き、飼育小屋に腕があったのね、それから? と先を促す。眼鏡についた水が、ポタリとテーブルに落ちた。
「双頭の牛は、ワタシも夜菜も先生も目撃しました。つまり、実在するということです」
そう断言したにも関わらず、先生はいつも通りの間の抜けた顔をしている。驚いた様子はない。それを確認して、ちょっとだけ拍子ぬけしたけどかまわずにワタシは続けた。
「双頭の牛が飼育小屋で何をしていたのか、それが気になります。おそらく、儀式が始まってしまう前に、『いけにえ』を奪っていたのではないかしら。それを知らない松則くんたちは、祟りを恐れ、消えた『いけにえ』を見つけるために、街を徘徊していた。双頭の牛は実在しており、街の人たちを出しぬいていた。これが、ワタシの推理の全貌です」
そこまで言ってふと、自分の言葉に違和感を覚えた。喉に引っかかった魚の骨が取れないように、歯の隙間に紛れ込んだ小さな食べかすが取れないように、しつこくワタシの心を刺激しているこの異物。何かを見落としている。何かに気づいたのだけどそれが表面に浮かんでこないもどかしさ。
考えなければ。もしかしたら、今の推理には間違いがあるのかもしれない。それを知らせるためにワタシの中の精神さまが合図を送っているのだ。あるいは、兄が……。
再推理。可能性をひとつひとつ考えてみる。
もしも、『いけにえ』の謎と双頭の牛が別々の出来事だとしたら?
双頭の牛とひとつ頭の牛と『いけにえ』が別だとしたら?
そもそも『いけにえ』ではなくただの死体かただの人形だとしたら?
ちょっと待ってちょっと待って、何か出てきそう。
「双頭の牛の目的は何なのかしら。街の支配? そのために何かを探していたの? まあそれはわからないにしても、ある程度の謎は解けたわね。とりあえず紅茶でも飲んで落ちつきましょう」
そう……そうよ! 隠そうとしていた可能性。何故、隠す必要があったの?
それは、そこから、足がつくから。
「紅茶を飲んでから今後のことを考えましょう?」
ちょっと待って、もう少しなんだから。
「それにしてもみんながあんなことをするなんて、驚いたわね」
《驚いた》
そうよ、そうよ、そこにもっと早く気づくべきだった。
あの人の行動だけが不自然じゃない。
飼育小屋は、干し草の独特の濃い匂いを放っているし動物は生き物特有の香りを充満させているし糞や尿の香ばしい芳潤な余香が蔓延している。だから《とてもすてきな場所》とは呼べない。そんな場所を、賞賛するはずがない。
少なくとも、ワタシは最初、苦しんだ。
芳潤……①かんばしく、うるおいのあること ②芳醇と間違えやすいので気をつけましょう
余香……①後に残るかおり ②残り香 ③普通に生活していてまずお目にかかれない言葉
ある仮説を立てると、すべてがつながっていく。
ある人物を犯人だと仮定すると、ひとつの物語になる。
そう……《驚いていた》のは、ワタシと、もうひとり。
それからもうひとつ、とても大切なこと。あの夜、ペンリアーズは双頭の牛を見て震えていたのではない、と考えると浮かんでくる人物はたったひとり。
産まれた。真相が、誕生した。
「先生。飼育小屋で誰かを殺したのですか?」
唐突な質問に美聖は眼鏡の奥の瞳を大きく見開き、「何を推理しているのかと思ったら、とんでもない答えに行きついたものね」と小さく笑った。
「ワタシが飼育小屋で双頭の牛を目撃して逃げ出したとき、ペンリアーズは異常なほど暴れていました。それは、牛に恐怖してではなく、『先生』に、だったのですね?」
「冷めちゃうから、紅茶を飲んで落ちついて」
「双頭の牛の目撃情報、それから存在が明らかになっても、学校の生徒と先生たちや飼育部のみんなは、まったく驚いていなかった。それはつまり彼らにとって当たり前のこと。毎年、祭りをしているからです。みな、平常だった。驚いていたのは越してきたばかりの、ワタシと先生だけ。夜菜は頭が《ふたつ》あったことに少しだけ恐怖し、松則くんたちは、飼育小屋で《何をしていたか》に興味を持っただけ。ワタシが松則くんを追跡中、先生と出会ったのは偶然じゃない。先生は、双頭の牛の正体であろう松則くんを調べようとしていただけ。だから偶然ではなく、必然的にワタシと遭遇した」
ここで一息入れて先生の顔を見つめる。眼鏡から水が滴り落ちるだけ。
「飼育小屋の床にあった謎の黒い物体はやっぱり血だった。あの量だと、先生は他の場所で殺人を犯し、死体の一部を運びこんで飼育小屋の何所かに隠した。隠す場所なんていっぱいありますものね。ちょうどそのころ双頭の牛目撃事件が発生する。しかもその場所というのが、よりにもよって飼育小屋。大騒ぎになり、人が大勢集まれば、その分、発見される危険性が増す。なのに何故、ホームルームで発表なんかしたのか。しかも自分のクラスだけじゃなく、二年生にまで伝えている。何故、情報をバラまいたのか。それは、全校生徒に恐怖心を植えつけて、死体を持ち出した犯人を焦らせて表に出すというのが目的だった。つまり、選別のための発言。
双頭の牛と、頭部と腕と液体、これらは別の事件。先生は、ワタシのことを心配して何度も飼育小屋に足を運んだのではない、牛の仮面をかぶった何者かに持ち出された死体の心配をしていただけ。双頭の牛事件を隠れ蓑にしている、あなたは、殺人鬼」
話し終えたとき、ドドン、という鈍い音が響き渡った。何所からだろう? と辺りを見回す。
中央のテーブルとその上にある小さな茶色い枠の置き鏡、部屋の角に薄型テレビとその右手に鏡台、背後の壁に教会の風景画、その隣に鏡がかけられている。左手に窓があるけどカーテンが閉じられていて外は見えない。隠れられるような場所は後ろの鏡の隣にあるクローゼットのみ。音の響き具合から外からではないとわかる。やはりクローゼットの中があやしい。
顔を戻したワタシに、美聖がにこやかに言った。
「もう紅茶冷めちゃったかしら。でも、それだけは飲んでね。とても落ち着くわよ。飲み終わったら、また温かいのを持ってくるから」
そうね、これからなんとか説得して先生を自首させなくちゃ、とワタシは思い、紅茶を手にした。
そのときワタシは、推理を覆される、信じがたいものを眼にした。
十八
簡単には手に入らなくなってきてはいるものの、ヒ素も考えた。たったの0・2グラムでいい。呼吸中枢運動中枢神経中枢が麻痺して意識を失い死ぬ。そのかわり、効果を得るには、なんとしても生体に入れなければならない。細胞中の酵素と結合すれば酵素の働きを変化させて、細胞中の物質代謝を乱してしまう。恐ろしいヒ素。解毒剤もいろいろあるがプロパノールやらグルコースやらはなんだかわからないし何所にあるのかも謎。だからヒ素も候補にあがった。それから青酸カリ。金属メッキやら写真やら果樹害虫駆除剤などに利用されているので手に入れやすい。飲料に溶けやすいので使いやすい。だけどここで糖は使用できない。何故ならば、糖が解毒剤なのだから。飲ませたり吸わせたり触れさせるだけで絶大な効果を発揮する青酸カリも候補。殺虫剤のパラチオン。致死量は1~2グラムと少量ですみ、アルコールに溶けて水には溶けない。いろいろ模索し、トレスはアセビという木を選んだ。アセビに含まれる配糖体アンドロメドトキシンは嘔吐、下痢、多尿、麻痺、呼吸困難を引き起こし、死ぬこともある。家畜のウマやヒツジが誤って食べてしまい中毒を起こすことが多いので、馬酔木とも呼ばれている。悪魔を殺す。これからは魔酔木と名づけよう。という経緯でアセビに決まった。近頃小さな悪魔がうろついている。自分に優しく接してくるけど何をたくらんでいるのか、だから早く始末しなくては。エンリケを誘拐したのはこの悪魔かもしれない。何かを狙っている。こいつだ。目的があるはずだ。こいつだ。
香りの強い紅茶にアセビを混ぜて飲ませなくては。
つづく




