序章 兄去りて、ペンギンきたる
探偵ペンギン、走る!
~アニマル探偵団の迷走~
地球上に存在しているすべての生物の中で
もっとも優れているのが人間だというその考えが
最大のミスである
ネズミもアリもバクテリアも人類もみな、平等である
『動物と会話が出来ると豪語しているある科学者の手記』
序章1 兄去りて、ペンギン来る
なんて風! なんて空! なんて太陽! やっぱり海は日常生活とは別世界。空は広くて空気もおいしくて潮風だけがワタシの髪を乱して困らせるのだけど、そんなことは些細な不満。海水浴客がまばらなのでゆったりできて文句なし。これで隣にカッコイイ彼氏でもいたらもっと違った海になりちょっと大人の雰囲気に浸れたりするかもしれないのに、丸坊主の兄とお腹の出てきた父親と身体全体が四角くなってきた母親といっしょなので普通に、なんて海! 楽しいからまあいいわ。
パラソルの下に腰を下ろして周りを見渡すと、笑顔笑顔笑顔。特に元気なのが遊泳禁止ラインぎりぎりのところで遊んでいる姉妹。顔がそっくりだからおそらく双子。小学生高学年くらいだ。笑い声がここまで聞こえてくる。なんてはしゃぎっぷり! 大学生くらいのカップルも砂浜に腰をおろして静かに楽しんでいる。いいないいな。小さな子を連れた家族は今日という日を記憶と記録に残そうとカメラをまわしている。ほほえましい! 負ける訳にはいかない。ワタシも他の人たち以上に楽しまなくちゃ、と思ったけど泳げないので日光浴。パラソルの影から出て、さあ焼くぞ、と気合を入れたとき、突然兄が海へ向かって駆けだした。なによなによあんなに張り切っちゃって大人気ない。あんな人と兄妹と思われるのは恥ずかしくてイヤだわ。とここで背中を焼こうとうつぶせになった。しかしそれが、いけなかった。それが、すべての、間違いだった。
もう少しワタシに観察眼が備わっていれば、洞察力があったのならば、悲劇を免れられたかもしれない。注意力が足りなかった。何故このビーチは、遊泳禁止のラインを設けているのか、それをもっと、深く、考えなければならなかった。
免れる……①好ましくない事柄や災いなどをこうむらずに済む ②逃れる ③逸れると間違えやすいので気をつけましょう
母の悲鳴で顔を上げた。父も血相を変えている。あたりはただごとならぬ空気を孕み、みなが、同じ場所を凝視していた。
孕む……①みごもる ②植物の穂が出ようとしてふくらむ ③中に含んで持つ ④難易度の高い漢字
腰を上げたワタシは母親と父親の視線の先を追った。時折しぶきを上げる海原が広がるばかり。なんて海! などと感動している場合ではない。気づいた。そこは仲の良い姉妹が遊んでいたあたりだ。今は居ない。誰も居ない。すなわち、先ほど兄は、溺れた姉妹を助けようと駆け出したのだ。ワタシはそれを――。
腰を上げて身体についた砂を払わずに海岸へ向かって走る。途中で父親がワタシを追い越して行き、海へと飛び込んだ。父親に任せて水際でワタシは待つことにする。数分後、父親と入れ替わりに、姉妹が少し離れたところから上がってきた。ふたりは砂浜に両手をつき、大きく咳きこんでいる。海水を口から鼻から眼から出している。だけど兄は浮かんでこない。ワタシは姉妹の方へと駆け出した。姉妹を力強く抱きしめて、「大丈夫?」と訊く。そのとき確かに聞いた、彼女たちの嗚咽にまじる言葉を。
「おびいちゃんが……おびいちゃんが……」しかし、それ以降は、海水を吐き出しながら大声で泣きじゃくるだけだった。ワタシは顔を上げ広い海原を見渡した。もしも兄が遠くに流されているのなら、小さな黒い点にしか見えないはず。それを見逃すまいと、集中した。潜ったり浮上したりしている父親の頭部が見える。だけど、だけど――。
父親の努力もむなしく、兄はけっきょく、戻らなかった。やがて警察が駆けつけたが、徒労、に終わった。出ました、ヒーロー。英雄。救世主。
お兄ちゃん、本当に、バカすぎるよ。
立ち止まっていると心がボロボロになりそうだった。生きたまま死にそうだった。
日常に潜む、後悔、怒り、自責、無力感という悪夢に苛まれていたのはワタシだけでなく、両親も同じだったようで、だから、引っ越した。家に残った思い出を無にするのに抵抗はあったのだけど、《思い出》とは場所に宿るものではなく心に残るものだから、とワタシたちはお互い自分の心に言い聞かせて引っ越した。
時間は傷を癒してくれる最良の薬、とはよく言ったもので、ワタシの心にも変化をもたらせてくれた。それは、兄は死んでいなくて何処かに漂流していて今も生きているかも、だった。ワタシの脳が壊れてしまったのではない、幻想世界に入り込んでしまった訳でもない、なんとなく、そう感じるのだった。ワタシは、その、直感を信じた。兄は双子ではなくひとつ上なのだけど、双子と同等の《絆》のようなつながりを感じていた。だから死んではいない、と確信している。もちろんそんなこと両親には言えない。何ひとつ証拠はないのだから。
入学手続きを三日後に控えたある朝、ワタシは少しでも土地勘を得るため、新しい街の散策に出かけようと玄関を出た。その瞬間、ワタシの足がピタリと動きを止めた。しばらく硬直。それからやっと動けるようになって、時間が本来の力を取り戻して、ようやく叫ぶことが出来た。
「お母さん、ペンギンが居る!」
ドアのすぐ下に、真っ白なペンギンが一羽立っていて、立っているようには見えないのだけど立っていて、首を傾げながらワタシを見上げていた。何所かのチワワのように眼をウルウルさせている。まっすぐワタシを見つめている。もちろんそれを見て胸ヘロヘロ。顔ほにゃほにゃ。膝を曲げて視線が同じ高さになりワタシはペンギンに言う。
「どうしたの、飼い主の家から逃げて来た?」とは言ったものの、犬のように首輪があるわけじゃないから野生なのかペットなのかわからない。
やがて母親がワタシの叫び声を聞き駆けつけて来た。その直後、四角い身体を器用にくねらせながら、その場に倒れこんで、嘆息した。
「え? ちょっとツノミ、なになにこの子、ものすごくかわいいんだけど。ダメでしょ、これは」
そりゃそうだ。だってこのかわいさは凶器なんだもん。
嘆息……①嘆いて溜息をつくこと ②甚だしくなげくこと ③文字だと問題ないけど言葉には出さないほうがいいこと(特に男性に対して)
兄が去り、代わりに、お兄ちゃんの存在を凌駕(これは言いすぎか)するペンギンが現れ、我が間家根家の新しい、家族となった。
☆
ペンギンにワタシはペンリアーズと名付けた。『三銃士』という作品が好きで、特にお気に入りのバッキンガム公、ジョージ・ヴィリアーズから取ってペンリアーズと名付けた。もしもメスだったとしても同じ名にしていた。もっとまともな名前があるでしょ、と両親は眉をしかめたけどワタシは譲らなかった。
ペンリアーズと暮らすようになって、ワタシはある疑問を持つようになった。それは、ペンリアーズと愁児お兄ちゃんとの類似点だった。兄は突然触られるとビクンと跳びはねる、ちょっとした接触恐怖症。兄はよく、かわいいワンちゃんのように首を斜めに傾げた。それともうひとつ……。
後にペンリアーズの名が変わることになるのだけど、それは、
《双頭の牛》事件の後のことである。
その鬼妙な事件との遭遇は、転校してからすぐ、のことだった。
鬼妙……①鬼気迫る妙な出来事 ②奇妙以上に奇妙なこと
そのときのペンリアーズの行動が、兄の魂が乗り移ったのではないのかと、そう、思わせるものだったからだ。
つづく




