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演技 die Darstellung

 さて、前章では詠霧趣及び阿真利火において顕著に現れた保因者がどの様な形で広まっていったかを語ったが、この章では更に発展させ、保因者がもたらした社会的変化を、特にそれが大きかった詠国から取り上げたい。

 まず、何よりも目立って起こったのが、犯罪率の急上昇である。見た目は人間でもその能力は人間を遥かに超える存在である保因者は半ば意図的に、半ば暴走する形で法律と道徳を犯した。結果として治安は乱れ、ただでさえ酷いスラムは、とてもでは無いが一般人が入り込めない状況にまで陥った。

 これにより詠国王室と議会は国内の治安確保の為の組織、つまりは警察の抜本的見直しを行う必要に迫られ、またそれは急務となった。だがそれよりも大きな変化がある。私立探偵と言う職業の誕生だ。

 既に詠国内は、警察組織だけでどうにか出来るレベルでは無かった。保因者は貧民層においてかつての黒死病の如く蔓延し、そこに更に犯罪者達を纏める存在、『犯罪界のナポレオン』と称される男、最悪の詠国人が一人に数えられるジェームズ・モリアーティ教授が現れた事で一日の犯罪件数は窃盗等の軽いものも入れれば、同日の事故件数を易々と越える数字にまで跳ね上がった。

 そこで政府はたとえ警察組織に属していなくとも、優秀な頭脳とその筋への深い知識を持つ者に対し、広く協力を求めた。

 これが私立探偵の社会的始まりである。特に詠国、いや世界中で最も有名な探偵もこの頃にその活動が本格的となる。

 そう、シャーロック・ホームズだ。

 彼の存在は大きい。彼が数々の難事件を解決していった事で犯罪率は激減。論曇の治安を(本人は退屈していた様だが)保因者出現以前、教授出現以前にまで押し戻したのである。また彼のそのスタイルは私立探偵の原型として強く記憶され、後々現れる多くの探偵達に強い影響を与える事になる。そうした探偵達が、ホームズ亡き後も、警察と供に詠国の治安の為に無ければならない存在へとなっていったのである。


明眸書房 ヤンミッヒ・デンケ著 

『変容する醒紀 ―醜くも美しき旧時代―』(1987)


 醒歴1889年 六月

 土壱(ドイツ) ドレスデン郊外


「ここであってる、のだよな?」

「えぇ、ここであってるわ。」

 地晒しのまま、自然の歩み以外にろくに舗装されていない田舎道に、目に見える程大粒な雨の雫が容赦なく叩き込まれる。半ば泥と化してぬかるんだ道の、その至る所に池程の水溜りが出来ている。まともに歩く事も困難なその様相は、見る者に最早道と呼ぶ事すら躊躇させるだろう。

「はぁ……しかし何もこんな日に呼ばなくとも。」

「小説読まない?こんな日だからよ。」

 その道…躊躇させるだろうと書いた直ぐ後に何だが、他に書きようも無いのでそう呼ばせてもらう…は平原の中を突き抜け、小麦畑の農園が見渡せる小高い丘を越えて、黒い毛玉の様に見える林の横を通り、そして一軒の洋館に続いていた。

 煉瓦造りのそれなりに新しい館である。比較対象が周りに無いので実感は湧かないが館としては大きい部類に入るのでは無いだろうか。ただ新しい、と言っても、既に建てられて何十年かは経過していそうで、所どころ苔や茨がへばりついている。尤も土壱、もとい皇路覇ヨーロッパにおいてそれ位の年月を経た建物等珍しくも何とも無い。

「それはそうだがね。やれやれ、あちらももうちょっとこちらの都合と言うものを考えて欲しいな。」

「ぼやかない、ぼやかない。」

 その館の前に並んで、二人の男女が立っていた。豪雨の中二人は、余り上等そうでは無い揃いの外套を身に纏い、館の前で佇んでいる。すっぽりと外套を着こんでいる為に、その顔は判別出来なかった。

 ほら行くわよ、と女が言いながら、館に向けて一歩踏み出す。男も、やれやれと肩を竦め呟きながら、ゆっくりと歩き出した。

 進みながら男は、外套の中から懐中時計を取り出す。時刻は午後一時。指定された時間ぴったりである。

 男は満足げに頷くと、ぴしゃりと懐中時計の蓋を閉めながら、館と先に行く女の方を見た。

 開幕を告げるベルが聞こえた気がした。

 さぁ、役者は舞台に上がらなければ。

 

「ところで私、最近シャーロック・ホームズ氏の活躍が楽しみでならないのですよ。ほら助手のワトソン先生の手記を元に、コナン・ドイル氏がお書きになっている作品ですわ。中でも『バスカヴィル家の犬』が好きでしてね、いえ『四つの署名』だって好きですけど、私的にはアレが一番ですわ。ねぇクラウス、あなたはお読みになりまして?あの作品。」

 そう言いながら多少皺の寄り始めた肉突きの良い体を持つ中年婦人ゲルト・フォン・ベルンシュタイン夫人は、まだ十代も後半に漸くなったばかりかと言うメイド・コスタが差し出した麦や大豆の代用品では無い珈琲が黒く並々と注がれたカップを片手に、にこやかに微笑んだ。天然なのか意地が悪いのか、恐らく前者であろうが、真にその神経を疑いたくなる。一昨日の夜から続く豪雨によって館に閉じ込められ、暇を持て余しているとは言え、昼食…風蘭守フランス帰りのコック・ハンスが作った鯰料理とジャガイモを丸めたものを入れたスープは実に美味かった…から小一時間も経って無い食後のお茶にする様な話題ではあるまい。『バスカヴィル家の犬』は血生臭い謎に満ちた詠霧趣イギリス富豪の一族の事件である。

「『魔犬』ですか……一応は読みましたが……あぁ、叔父さんはどうです?」

 夫人の丁度反対側の椅子に座るクラウス・フォン・ベルンシュタインは何とも言えぬ様子でその二枚目な顔に苦笑いを浮かべた。

 ゲルト夫人の神経を何故疑いたいかと言えば、クラウスに話を振った事もまた大きい。あの事件において殺されるのはバスカヴィル家の当主である。そしてクラウスは、少々頼りないながらもベルンシュタイン家の若き当主なのだ。

 そしてその殺され方も、阿附利架アフリカ大陸で発見された巨大な黒い犬…しばしば、十八醒紀風蘭守にて多数の被害者を出した『ジェヴォーダンの獣』と同種では無いかと言われる事があるが、真相は定かでは無い…による惨殺だったのである。

 それでも彼はベルンシュタイン家特有の琥珀色した瞳を左右に躍らせながら、何とか上手い返答が無いものかと考えだ。だが思い付かなかったらしく、叔父、つまりマリア・フォン・ベルンシュタインの夫であるゲルト・フォン・ベルンシュタインに話題を振った。

 ゲルトは右頬全体に機械を取り付けた、厳しい顔を持つ如何にも軍人然とした初老の男だ。彼の体もその妻同様、老いによる劣化が主に腹を中心に差し迫っていたが、それでも若かりし頃の遺産として、がっちりとした肩や胸は依然健在だった。

 因みに人体の機械化、代用四肢の取り付けに対する技術は十五、十六醒紀には既に存在したが、それは余り実用的とは言い難かった。転機は1870年から1871年に掛けて起こった風土戦争にある。

 この戦争の中で行われた『鉄血計画』と称される国家主導の義体開発計画は、研究者の学識及び職人達の技術力を一気に上昇させた。更に土壱帝政化に置けるビスマルク式の社会保障の一環として義体敢行が行われた事で、義体は、七十年代から八十年代にかけて、土壱においてはかなり一般に浸透した。勿論宗教的生理的、その他金銭的理由で何処かを欠損していても義体化しない者も沢山居たが。

 彼は当主としては頼りない甥の問い掛けに、顎を抱えて右頬を指で打ちながら、牛の如き力強い呻き声を出して応えた。

「うむっ。あの事件についてはワシも知っているぞ。マリアに推されて物語も読んだ。なかなかに興味深い話だったが、如何せんワシが命を掛けて体験した殿馬デンマーク翁巣禽オーストリア風蘭守との戦争に比べれば現実味が無い。真に人の感情に訴えかけるのは闘争において他ならない。そもそもワシがそれを体験したのは、丁度お前と同じ頃でな。その頃はこの顔にも機械をつけてはおらなんだのだが――」

 ゲルトの武勇伝が始まって、クラウスは浮かび上がろうとする安堵の笑みを必死に抑えた。彼の話は一度始まるとなかなか終わらない事で有名であり、普段は苦痛であるそれも話題を逸らすには打って付けだった。

 とは言え、余りに長いのも考え物だ、と思われた所に、上手い具合に静止が入った。クラウスの若き妻、エーリカ・フォン・ベルンシュタインが、夫の隣に座っていた所をしゅるりと抜け出し、ゲルトの腕に抱き付いた。彼の顔がすっと緩み、それを見たマリアの顔が逆に鋭くなる。

「まぁ叔父様。勇ましい戦争の話も宜しいですが、でもそれは何度も聞いておりますわ。もっと他に、面白い話はありません事?ほら、アルフレートも退屈そうですわよ。」

 彼女をして、胸部に掛けての発育が大変宜しい体躯に南方的な余りに明る過ぎる性格、流れる黒髪を一本の縄の様に纏めた姿がまるでジプシー女だな、と常々思っていたクラウスの兄、アルフレート・フォン・ベルンシュタインはその当人から予想外にしなかった話題を降られ、一瞬言葉を詰まらせた。だが機転の利く兄は直ぐに穏やかな笑みを作って、

「いや、ゲルト叔父さんの話は何時聞いても、何度聞いても面白いものですよ。僕は一度も戦争に参加した事はありませんが、やはり男子たる者、戦う事に興奮を覚えるらしい。叔父さんの勇敢な戦いぶりを聞く度何時も心震える思いで、もし機会があれば叔父さんと共に是非戦いたいものだと常々考えております。まぁ、彼の鉄血宰相ビスマルクが首相をしている内は、その機会もほぼ無いと言って良いと思いますけどね。」

「それは勇ましい事。私のクラウスにも見習って欲しいですわ。ねぇ貴方?」

 アルフレートの言葉にそう応えて、エーリカはゲルトの腕から離れた。クラウスの隣に戻って来ると、叔父にした事を今度は夫に、全く同じ風に行う。

 押し当てられた柔らかい感触にクラウスは色の白い顔に朱を点しつつ、それをエーリカから逸らした。その様子にマリアが微笑み、ゲルトは土壱男子がその様な体たらくで、と自分を棚に上げて苦言を漏らす。

 アルフレートもまた弟の態度に声を上げて笑った。

 しかしその心の中で、彼は唾を吐き掛けていた。

 全く持って忌々しい、と言うのが彼の嘘偽りの無い感想であった。十九醒紀も終わりを告げようとしているのに一時代前の貴族感覚から未だに抜け出せないでいる…勿論その身分からすれば間違ってはいなかったが…世間知らずの叔母。気色の悪い機械を顔面に貼り付け、戦場こそは地上最大の愉悦に他ならないと吠え立てる野蛮な叔父。外見的な美しさ以外に何の取り柄も持たない頭の悪い雌猫。誰もがアルフレートを苛立たせた。だが、誰よりも彼を不愉快にさせたのは、弟のクラウスであった。

 そもそも本来であれば自らが父ロタールを受け継ぎ、今頃はベルンシュタイン家当主として、近代の世にあって大変稀少となったユンカー…東方的中世的土地貴族だが、土壱の近代化に伴う封建制度の崩壊によって、その多くは没落していった…として地位と領地を得ている筈だったのである。

 だが、彼がさる風蘭守人女性に恋をし、一年程の付き合いの果てに結婚を申し出た事で全ては変わった。堅苦しく古めかしい貴族の典型であるロタールには、それは許されざる行為だった。それ以前の問題として既に長男の嫁は決めてあったのである。

 父は我が子から腹立たしい風蘭守女を離すべく、金に糸目をつけずに様々な工作を行った。夫を多少なりとも諌める役を持つ母親クララがいればそんな馬鹿げた事を止められたかもしれないが、残念な事に彼女は何年も前に他界していた。そして不運にも見事にロタールの工作は成功を収め、アルフレートと未来の妻になる筈だった女性は永遠に別れる羽目となった。   

 だが、ロタールは余りに広く、大きく、また多く手を打ち過ぎた。この別離に父が絡んでいる事は直ぐにアルフレートの耳に入り、彼の怒りは溶鉱炉の如く、燃え滾った。彼はロタールに憤然と食って掛かった。親子は壮絶な問答を繰り広げ、そして彼等の間には永遠に修復不能な溝が深々と刻まれた。結果としてアルフレート・フォン・ベルンシュタインはロタール・フォン・ベルンシュタインより勘当され、ただのアルフレートになってしまった。

 その彼がこの後どの様な生活を過ごしたかは、あえて書くまでもあるまい。貴族の長男が、その後ろ盾を全て失って、どう言う末路を辿ったか等少々想像力のある人間であれば容易に考え付く事だからだ。

 だがアルフレートの放浪は一年程度で終わる事となる。ロタールが急死したのだ。感情の激しい彼は、ちょっとした事でも直ぐに激怒する。コスタがお茶をその服に零したと言うただそれだけで怒り狂った彼は、鞭を持って彼女を叩き付け様とした。その瞬間、彼は小さな少女の頬では無く逆に自らの心臓へ強い衝撃を受け、そのまま帰らぬ人となったのである。長男と和解する事無く。

 遠方よりその知らせを受けたアルフレートは直ぐにベルンシュタイン家に帰還した。そこで彼は自らの代わりに当主となったクラウスと彼の妻エーリカ…初めて逢った瞬間から、彼女に対する評価は決まった…に出会い、弟の計らいによってベルンシュタイン家に舞い戻った。更に伝を頼りに、ドレスデン市の役人と言う、比較的安定した職を手に入れたのである。

 だがアルフレートは、恐らく誰かにそう言われても否定するだろうけれど、根本的に彼が忌み嫌った父親と同じ貴族的思考を持った人間である。出来の悪いと考えていた弟が当主となり、その手に掛かって放免される等屈辱以外の何物でもなかった。それ以上に父亡き後何処の馬の骨とも知れぬ女と結婚していた事が、彼にとって非常に許し難い事であった。

 こうしてアルフレートは表面上平静を装い、当主たる弟ともその妻たる義妹とも穏便に過ごしてきたのだが、心の中では憎悪の種子を芽吹かせていた。

 そしてここに至り、ついに種子は花を咲かせようと発起したのである。即ち、アルフレートはその実の弟を、彼の妻もろとも、ついでに自らの窮地に際して何もしなかった…だけでなく、自分と恋人の別離に協力すらしたと言う叔父夫妻を殺す事にしたのである。

 既にその準備は出来ていた。自らに疑いが掛からぬ様あくまで事故に見せかける為に、馬車に細工…車軸を腐った木に変えたのだ…を仕込んだのである。まずは明日…雨が止めば、の話だが…帰宅する予定の叔父夫婦が、そして次に弟夫婦がその罠に掛かって死ぬだろう。まずばれない様な細工だ。更に彼は、あのコックのハンスが人妻の女中と不貞を働いている秘密を知っている。彼等が死んだ後に秘密を種に暇を出せば、警察の眼はそちらに向くだろう。そして自分はベルンシュタイン家の当主となるのだ。

 その様な事とは露知らず、くだらない談笑を続ける彼等を、アルフレートは内心侮蔑と嫌悪を込めて眺めていたが、逆にまたその愚かさに感謝もした。嘲笑の感情が不意の微笑として表に出ない様必死に何時もの自分を保つ。後もう少しで何もかもに蹴りが付くのだ。焦ってはいけない。

 今や彼の心に巣食った魔犬は、バスカヴィル家のそれよりも強大且つ凶暴で、研ぎ澄まされた己の牙を口の中にひた隠し、哀れな得物が罠に掛かるのをじっくりと待ち構えていたのである。

「旦那様、ちょっと宜しいでしょうか。」

 と、そこに給仕ベンノが現れた。独特のしゃがれ声に当惑した様子が篭り、皆の会話を途切れさせる。一同が彼の方を向いた。アルフレートも冷ややかに彼を見つめる。この男は、自分が勘当されたあの事件の時も居たくせに、何もしなかったのである。尤も、一介の給仕に激動した主人達をなだめ、止める事が出来たのかと考えると、それは大変微妙な訳だが。

「何だいベンノ。何か用事でも?」

 会話を中断され、少し苛立った視線を向けながらそう言うクラウスに、ベンノははぁと軽い溜息の様な吐息を漏らしながら、おずおずと用件を言った。

 男女二人連れの旅人が宿を求めて見られている、と。


「見ず知らずにも関わらず、この様な場にお招き頂き、真にありがとうございます。私の名前はアナベル・ハルトマン。こちらの彼、ゲオルク・フォン・ボルクの助手をしておりますわ。」

「ゲオルク・フォン・ボルク、です。急なお願いをお聞き頂き、真に感謝致します。」

 そう言いながら小柄な姿が可愛らしく、結い上げられた金髪が女性的美しさを感じさせる快活そうな女性…まだ十代の面影を残す辺り、少女と呼ぶべきかもしれないが…アナベルは、ベルンシュタイン家の者達に頭を下げた。ゲオルクと呼ばれたノッポで線が細く、何処か頼りない感じのする茶髪の青年は、彼女の隣に並んで立ち、後に続いて礼をする。

 アナベルとゲオルクの二人は、ドレスデンに向かう道中、今も降り注ぐ豪雨によって馬車が壊れてしまったと言う。ドレスデンの市街まではかなりの距離がある。雨の方も、少なくとも今日中は止みそうに無い。当惑した彼等は、偶然にも直ぐ側にあったベルンシュタイン家に助けを求めにやってきた訳である。運が良いのか悪いのか、この辺り一帯に人家はここ一軒のみであり、後は平原か森か、農園が広がっているだけであった。

 かくして『素性も知れない人間を家に上げるのは賢い行為では無い』と言うアルフレートを抜かしたベルンシュタイン家の一同は訪れた二人を快く迎え入れた。

 クラウスはその生来の人の良さから、ゲルトは軍人としての尊大さ故に、マリアは己の退屈を紛らわす為。そしてエーリカは、アナベルが助手をしていると言う青年ゲオルクの職業に対する興味によって。

「では貴方のご職業は探偵なのですね?ゲオルク・フォン。ボルクさん。

 あのシャーロック・ホームズ氏やオーギュスト・デュパン氏の様な、謎を追い掛け、暴く事を生業とする。」

「そう言って差し支えなければ、僕の応えは決まっています。

 即ちはい(ヤー)、と。

 あの方々と比べるのは聊かおこがましいと思いますが、ね。」

 外部から閉ざされ、弛緩した空気を打破するべくお茶会に招かれた来訪者は、クラウス夫人の質問にそう応えた。多少はにかみながらも青い瞳をしっかりとエーリカの方を向け、肯定の言葉も淀む事無くはっきりと告げた時の表情は、最初に見受けられた頼りなさ等微塵も感じさせない。寧ろ、著名な劇の主人公を演ずる事を命ぜられた一流の役者の如き己の仕事への自信と誇りが、その色の白い頬に朱となってありありと浮かび上がっていた。ベンノが差し出した珈琲を啜るその仕草にすら気品が漂って見える。

 ただその直ぐ後に、雨で冷え込んだのだろう、大きなクシャミをした為、漂っていた気品は台無しとなった。エーリカがフフ、とそのギャップに向けて、おかしそうに笑った。ゲオルクも笑って返す。

「それはとても素晴らしい事ですわ。先程も、あの詠霧趣が生んだ稀代の名探偵シャーロック・ホームズ氏の活躍について話していた所ですの。ねぇ、ゲオルクさん。あなたはどんな事件を解決なされたのです?」

 そこに、実にタイミング良く現れた話題の種へ向けて、エーリカだけでなくマリアも飛び付いた。客人の直ぐ隣に座り、身を乗り出す様に返答を待つ。

「それに対して直ぐに応えるのは難しい事ですね。何故ならば、彼が解決した事件はここ土壱だけでも相当な数になるからです。外国、例えば翁巣禽や錘洲スイス至梨唖イタリアで解決した事件も上げれば、本当にキリがありません。具体的にどの様な事件を、と言われますと……」

 答えたのはゲオルクでは無く、アナベルの方であった。彼女はにこやかに微笑みながら中年婦人に向けてそう言うと、数あると言う事件を思い出して丁度良いのを選ぶ様、つぶらな茶色い瞳を右上に向けた。その答えにますます興味を持ったマリアが、期待を込めた眼差しを向ける。エーリカも同様の視線を向けた。

 暫くして、アナベルはぽんと手を打ち、答えた。

「……あぁ、それではこの様な事件はどうでしょう?土壱でのものですが、さる貴族が領土欲しさに当主である兄弟を殺した事件です。」

「……ほう、それは興味深い事件ですな。どの様な顛末を迎えたのです?」

 今まで隅でむっつりと黙っていたアルフレートが始めて口を開いた。アナベルはマリアに向けたのと同じ様な笑みを浮かべ、彼の方に向き直る。

「彼は当主を、自殺に見せかけて殺しました。まるで自ら首を吊った様に、縄でくくり、部屋の天上に吊り上げたのです。ちゃんと台座も置いて、しっかりと遺書まで書き残しておいて。殺す時も使用人や家族の方々が寝静まった時を見計らって行ったのです。巧妙且つ慎重な手口と言えましょう。けれど彼は、人間が首を吊るのには足場がいるがそれは適切な大きさでなければならない、と言う事実を失念していたのです。ゲオルクは台となっていた椅子の大きさではその役目を果たせない事に一瞬で気付きました。更に哀れな被害者の爪にほんの僅かに付着していた油絵の具のカスを見つけ、彼が何処で誰によって殺されたのかを知ったのです。あの貴族の部屋には先祖の肖像画か飾ってあり、その隅に引っ掻いた後が残されていました。これにより、ゲオルクは彼を見事に逮捕したのです。」

「それは、それは、よく目が利く事だ。」

「素晴らしい名探偵っぷりですわ。ホームズだって適わないでしょう。」

 話を聞き終え、アルフレートは二、三頷きつつ、賞賛の言葉を発した。エーリカも同意する。アナベルが、ありがとうございますわ、とまるで自分がそう言われたかの様に応えた。しかしマリアの方は少し拍子抜けしてしまった様だ。

「余り面白くありませんわね。もっと劇的な事件を期待していたのですが。」

「言われてみればそうでしょうが、しかしこの手の真実を零から導き出すのは得てして難しい事です、マリア婦人。まぁ件の犯人は逮捕されると偉い落胆振りを見せていたので、本人にして見れば、決してばれない、それこそ劇的な事件だったのかもしれませんが。」

 ゲオルクは不満そうな彼女に向けて、そう解説した。尤もこれは、世間一般の探偵ならばよく口に出すだろう言葉であるのだが。続いて発されたクシャミが、やはり感慨を台無しなものとしてしまう。解説されても尚納得していない様子だったマリアも、その姿を見て顔を緩めた。

「フン。その様な小賢しい事を考えているから駄目なのだ。土壱男子たる者――」

 話題が新参の者に移った事を芳しく思っていなかったのだろう、鼻を啜っているゲオルクの言葉をここぞとばかりにゲルトが繋げた。牛が唸る様な声で演説をして見せる姿に、マリアは我が夫ながら肩をすくめ、エーリカと二人の旅人は苦笑いし、そして今まで叔父の相手をしていたクラウスは、しっかりと彼の話を聞いている風だった。あくまで風、であるが。ただ一人、アルフレートだけは何の行動も示さず、むっつりと口を閉ざしているのみだった。


「何故、この様な時に……。」

 アルフレートの苦々しい呟きが、この館において彼の為に宛がわれた部屋に響く。

 太陽は見えなかったが既に日は暮れている時刻である。今頃一同は、宿泊する事となった客人二人を交えて、昼間の続きとばかりに楽しい夕食を過ごしているに違いない。真面目ぶった顔をしながら平然と間抜けな事をしでかすゲオルクは、熱いスープを飲んで舌でも火傷し、さぞや良い笑いの種を振り撒いている筈だ。

 だがアルフレートは調子が悪いと言って行かなかった。行ける筈も無かった。彼の脳裏には、ゲオルクとアナベル、あの探偵と助手と名乗った者達の事で一杯だったのである。

 彼等がいる今、計画を遂行するのは大変危険な事だ。だが今で無ければならないのだ。記録的な豪雨…今頃はエルベ川も氾濫している事だろう…が続き、どの様な証拠でも洗い流してくれる、今で無ければ。

 勿論、あんな者達が居ようと居まいと、計画自体は成功する自信があった。準備は念入りに整えてあるのだから。だが、その後が問題だ。立ち寄った先で相次いで四人も死ねば、それが事故であっても、あの探偵は怪しむのでは無いか。いや、この場合逆に事故だからと言う理由で怪しむかもしれない。

 疑心はアルフレートの心に暗鬼を見出させ、昼間に助手の小娘が語った貴族の話を思い出させる。彼は用意周到であったにも関わらず、思わぬ失敗を犯していた。同じ事が今回も起こらないとは限らない。そう言えば、あの貴族の名前は何と言っただろう。確か、聞かされていない。だが、もしや彼は、アルフレートと言う名前では無いだろうか。

「どうする…どうする…どうするべきだ…。」

 蝋燭によって映し出された影が左右に躍る。呟きながら部屋を歩き回ってみても、アルフレートに良案は何も浮かばなかった。

 最早全てを諦め、次の嵐が来るのを待つしかないかとも考えたが、こうと決めたらテコでも動かない真に土壱人らしい気質がそれを制した。尤も彼は、一度それによって痛い目を見ているのだが。

 耳に入って来る音が煩わしかった。

 雨の雫が窓を叩き付ける音。大きな振り子時計が時を刻む音。自ら発する靴音すら気に障る。高鳴る心音を止める為に、この右胸にナイフを突き刺したい衝動に襲われたが、何とか思いとどまった。遠くから一丸と成って聞こえてくる笑い声、部屋の前を歩いて行く靴音にその心臓は更に早まり、衝動は抑え難くなる。

 全てが自分を急き、狙っているかの様だった。

 アルフレートはますます早く部屋を行き来した。足音は倍速で速まり、吐息は荒くなってゆく。じんわりと浮き上がる脂汗が、湿った空気の中シャツに染み込んで気持ち悪い。蜘蛛の巣に掛かった哀れな羽虫の脚の様に、カタカタと十本の指が勝手に蠢き、ざわめいている。

 必死に抑える為に、親指を口に持って来て噛んだ。咥えた位では止まらせる事は出来ない。彼は前歯に力を込めた。ガリっと柔らかい肉に歯が食い込んで、そのまま抉り取られる。ダラリと真っ赤な血が溢れ出し、ぽたぽたと床に垂れて行く。舌を出して、ねっとりとそれを舐め取ると、口中に鉄と塩を一緒くたにした様な味が広がった。反応して唾が溢れ、アルフレートはごくりとそれを飲み込む。別に美味くも無いと言うのに、体は実に正直であった。

 それでも血はまだ止まらず、彼はぺろりぺろりと己の血を舐めて行く。それはお茶会の時に出された軽いパンを抜かせば、昼食以来始めて口にしたものだった。

 やがてその舌の動きは加速して行く。彼はエイブラハム・ヴァン・ヘルシングと戦った史上最高の吸血鬼ヴラド・ツェペシュ公に咬まれた事も無ければ、今は詠霧趣に居を構える風蘭守生まれの麗しき吸血姫ジュヌヴィエーヴ・サンドリン・ド・リール・デュドネと甘美なる闇の接吻を交わした事も無い。勿論他…学術上の同類、その存在のあり方から総合して保因者と称される様な者達…とも無縁だ。だが痛みの緩和と治癒、殺菌効果を主に精神的方向から高める為に、つまりはあくまで傷から己の気を逸らす為に行い始めたその行為は、やがて彼の中で奇妙にも一つの方向性を見せ始めた。

 予測し得なかった事態に動揺する心は、血を舐める等と言う背徳的行為に熱中する事で落ち着きを取り戻し始めたのだ。奇妙な行為に耽る事で冷静さが戻る、と言うのは何とも皮肉な話ではあったが。

 こうして彼は、ひとしきり己の血を舐め続けたが、ふと何かに気付いた様にその舌を止めた。親指を口から離し、ねっとりと唇に付いた血を舐め取る。

 彼は雨水が幕となって垂れて行く窓に映った己の姿を見た。狂人と言っても差し支えない顔をしている。その姿を見ながら、彼の脳裏に、ある一つの案が思い浮かんだ。それが浮かんだ瞬間、彼は思わず呟いた。

「……ああ、何だ。簡単な事じゃないか。」

 アルフレートの中に住む魔犬が、何処か遠くにいる獲物の濃厚な血の匂いを嗅ぎ取った。今まで霧で何も見えなかったのが、その匂いに至った事で急に晴れ渡った、或いはどの様な道を辿れば獲物の元に行けるか解った。そんな清々しい気分が彼を包み込む。

 アルフレートの辿り付いた結論はある意味では至極当然のものだった。彼のやろうとしている事は要するに邪魔者の排除だ。邪魔であれば排除すればいい。

 ならば、


「彼等を先に殺してしまえばいいじゃないか。」


 その結論に至ってからのアルフレートは、実に冷静且つ慎重だった。ろくに練習した事も無い素人が弾き散らすヴァイオリンの様に猛り狂っていた彼の頭は、自分ですら驚く程に冴え渡り、熟年者が譜面に合わせながら自らの音色も織り交ぜて奏でる程の余裕すら感じていた。

 順序はこうだ。

 まず、皆が寝静まる深夜まで待つ。今日は思わぬ来客に皆はしゃいで疲れている事だろうから直ぐに寝てしまうだろう。元より土壱人の眠りは早い。使用人達については言わずもがなだ。

 そうした後で、自らこの手で彼等を殺しに行く。騒がれては不味い為、眠っている間にゲオルクの首を絞める。危険なのはこの探偵野郎だ。先に済まして置くに越した事は無い。アナベルが気付いて目覚めても、体力的に強いのはこちらの方だ。勝つのは明白である。こいつは後回しでも良い。

 それから、彼等の死体を捨てに行く。この雨が痕跡を勝手に洗い流してくれるだろう。自ら動く事を止めた体は重いと言う話だが、その場合はハンスに手伝わせるまでだ。『この探偵達は余興の戯れに君の罪を暴こうとしたのだよ』とでも言っておけば、小心者な男だ、簡単に従うに違いない。

 後は全てが終わった朝、皆に向けて、彼等は急ぎの用で早くに旅立ったと言おう。馬車を一台宛がったと言う事で、従者にドレスデンの間を往復させる必要があるが、これは金を使えばどうとでも対処出来る。

 そして全ては元に戻り、皆は死んで、己はベルンシュタイン家現当主と言う地位を得て生きるのである。一人広大な農園の向こうで、沈み行く夕陽を眺める自分の姿を夢想し、彼の股座は冷え切った脳髄の代わりにいきり立った。

 そしてアルフレートは行動に出た。

 皆が寝静まった頃、時刻としてはとうに明日になっている時に、彼はそっと部屋から抜け出した。

 両手には白い手袋が付けられ、また手頃な長さの縄が握られている。縄は勿論ゲオルクとアナベルの首を絞める為に、手袋はその時己の手を傷付けない為であり、また先程付けた親指の傷を悪化させない為のものだ。包帯で手当てはしてあり、何かを握り引っ張る分には大丈夫だと思うが念には念を入れて、である。

 尚この時代、指紋が殆どの人間において固有なものである事は判明されていた。だが、その存在が物的証拠として挙げられる様になるのは、まだ先の話である。

 アルフレートはぎゅっと縄を握り締めながら、コッ、コッと廊下を進んで行く。硬い床は、どれだけ慎重に歩いても音を立ててしまう。皆既に夢の中であり、当分は起きないだろうと想うが、その事実が彼を圧迫してきた。出来るならば早々に歩み去りたい、いや走り行きたかったのだが、その様な事をしては更に足音を増させるだけである。ここは自重が必要だった。

 実際は十分かそこらだろうが、心理的にはその二倍から三倍程の時間を掛けて廊下を渡り終えると、アルフレートは事前にベンノから聞いていた、ゲオルクとアナベルに宛がわれた寝室の前にやってきた。ここはベルンシュタイン家の館の中でも離れに位置している。声を出させない方法で殺すとは言え、物音や呻き声は出てしまうだろう事を考えれば、好都合だった。

 アルフレートは、ゆっくりと息を吸うと、同じ位時間を掛けて吐き出した。緊張や興奮と言った、これからする行為に置いて一切が無駄であるものを、抜け出して行く。すると、何だか体が軽くなった様な気がした。それは文字通り気の所為であるのだが、気分だけでも随分違うものだ。今ならば、鷲の様に自由に空を跳べるだろう。無事に着地出来るかどうかは別として。

 ドアノブを握った。なるべく音を立てない様慎重に回しながら、アルフレートは扉を引いた。中は暗く、闇に満ちている。だがここまで来るのも蝋燭無しで来た為に、瞳は黒いカーテンの先を見据える事が出来た。

 簡素な作りの部屋だ。綺麗に整えられているとは言え、家具は少なく、装飾も無い。アルフレートからして見れば、貧乏たらしかった事だろう。

 その中にベッドが二つ見えた。どちらも白いシーツが被さっていて、それがこんもりと盛り上がっている。探偵と助手と言う間柄とは言え、男女は男女。それぞれ別室に泊まるかと思ったが、どうやら性差は関係無いらしい。或いは、そう言った事が許される仲であるのか。そうは見えなかったが、しかし二人一緒であるのも都合が良い。

 誰にも見つからず騒がれてもばれ難い場所で、しかも殺すべき相手が二人とも並んでいると言う幸運。アルフレートはそれが、自らの行為を正義として認める神の思し召しでは無いかと感じた。勿論そんな事は無いのだが、既に彼と彼の中に住む魔犬は同化して、恐るべき悪を自己中心的に正当化しているのである。

 アルフレートは靴音を立てぬ様、踵から先に床に付ける歩き方で、部屋の中へと入って行く。ぐっと縄を両手で握り締め、首を掛けやすい様に円形を形作った。顔もシーツですっぽり隠されている為、どちらがゲオルクか解らなかったが、彼の体は長い。一歩一歩近付くにつれて全体が見て取れ、アルフレートは、彼が自分から見て右側のベッドに寝ている事を察した。

 更に近付いて行くアルフレート。ゲオルクもアナベルも、どちらも起きる気配は無い。何とも無防備な事だ。自分が何も知らないお前達を警戒した様に、お前達も何も知らない自分を警戒すべきだったな、と嘲笑しながら、彼はついに不運なる探偵の隣にやって来た。

 心臓が、何時までも騒ぎ続ける聴衆を止める為に判事が叩き込む木槌の様に、重々しく高鳴った。そんな事は無いだろうが、余りの高鳴りにこの音で起きられるのでは無いかと心配になった。先程と同じ様に、肺から空気を締め出す。完璧にとは言えないが、心音は弱まり、そしてアルフレートは真に自分が行うべき事に対する集中力を得た。魔犬が牙を出す。もう、何者であろうと、彼を止める事は適わないだろう。

 シーツにそっと手を掛ける。女性へ夜這いを掛ける時の様な背徳的感慨が背筋を駆け巡り、アルフレートはぶるりと体全体を震わせた。背徳的と言えば、殺人程背徳的である行為もあるまい。己の利己の為ならば尚更だ。

 そして彼はシーツを捲った。瞳を閉じ、浅い寝息を立てるゲオルクの顔が現れる。すっかり熟睡している様に見える。何と言う安心しきった顔だろう。これならば、ここまで来る時にあれ程警戒する必要は無かったかもしれない。だが、やはり用心に越した事は無かったかもしれない。どちらであるかは解らないが、一つだけ言える事がある。これからやる作業は非常に楽であると言う事だ。

 アルフレートは両手で縄を握ると、ぴんと引っ張った。左右から力を加えられた縄は、真っ直ぐに伸ばされる。後はこれを首に掛け、首に巻き付けてから、更に左右から力を加えるだけである。

 アルフレートはゲオルクの長身に跨ると、その女性の様な、と言う程では無いが、男性のものとも思えない細い首に縄を当てた。更にしゅるりと持ち手をずらしつつ、縄を伸ばす。そこから腕を交差させて、枕の下に滑り込ませた縄を彼の首に巻きつけると、両腕に力を込めた。巻き付いた縄が擦れて音を立てながら、彼の首を締め上げて行く。

 う、と小さな呻き声が漏れた。ゲオルクが目を覚ましたのだ。薄っすらと青い瞳を明けて、アルフレートを見ている。だがもう遅い、と殺人者の唇が三日月形に割れた。抑えていた愉悦が零れ、鋭く尖った犬歯が覗ける。そう、後少し力を入れればそれで終わりだ。

 そこでアルフレートはもう一つ気が付いた。ゲオルクが笑っている事に。額からじんわりと一滴の汗を垂らしながら。この最期に気でも狂ったか、と彼は思った。この様な状況で笑う等正気の沙汰では無い。それを言えば、彼も正気ではありえなかったが。嘲笑の微笑みを浮かべながら、アルフレートはぐっと力を込めた。縄同士擦り切れる音が千切れんばかりに増した。

 次に彼が気が付いた時、上下が逆転していた。

 床が上に、天上が下に見える。足場の感覚が無く、自分が中空に浮いている事が解る。腹の辺りには鈍い痛み。視界は徐々に回転して行き、その向こうでゲオルクの笑い顔が見えた。

 自分が彼に、どう言う技なのかは知らないが、あの状態から投げ飛ばされたのだ、と言う事実に気が付いたのは、背中から壁に激突した衝撃と騒音を感じてから約五秒後の事であった。

 がひゅぅおっと、自分のものとはとても思えない奇妙な声を発しながら、彼は空気を吐き出した。夕飯を食べてなかったのが幸いした。もし食べていたら、吐き出したのは空気だけでは無かっただろう。

 そのままずるずると、頭を下にしながら倒れて行く。何とも間抜けな格好だ。

 だが、その体勢は余り長くは続かなかった。起き上がったゲオルクがこちらに歩み寄り、アルフレートの襟首を掴んだ。その見た目から出せるとは到底思えない細身の青年の腕力によって、襲撃者は成す術も無くずるずると床に寝かされた。苦痛と驚愕に心身が麻痺して、身動きが出来ない。そこから今度は、体を反転させられ、右腕を取られた。再度鈍い痛みが右肘に感じられた。先程腹部に感じたものとは違う。ありえない方向に向けて関節が曲げられ、下手をすればそのまま外れてしまいそうな程の力に骨が悲鳴を上げているのだ。ぐぅ、と喉から声が搾り取られる。

 ゲオルクは、更に左腕を取った。同じ様に関節を押し曲げ、両腕を重ねると、自分の首に掛かっている縄を振り解き、器用にも片手でそれを腕へ巻き付けた。力を入れようにも入らない。アルフレートは完全にその動きを封じられた。

 ふとアルフレートが見ると、何時の間にか隣のベッドが空になっていた。アナベルが部屋の外に飛び出し、皆を呼んでいる叫び声と、どたばたと言う靴音が聞こえて来た。直に一同揃ってここに来るだろう。そして己を糾弾するのだ。あの時と同じ様に。何か言い逃れる為の台詞でも考えようとしたが、こんな間抜けな姿ではそれも出来ない。彼は諦めた。

 計画は完璧に失敗したのだ。

 終わった。疲労が脳天から指先までを駆け抜け、全身に襲い来る。魔犬は何処に消えた。もう何も考えたく無い。呼吸すら億劫だった。この探偵はいっそこのまま、腕だけじゃなく首の方も曲げてしまってはくれないだろうか。ありえない方向へ。

 そうアルフレートが思っていた時、ゲオルクの口が彼の耳に近付いた。そして囁いた。申し訳なさと少しの喜びが混じった、奇妙な笑みを浮かべながら。


「すみません仕事、なもので……。」


 アルフレートはその言葉を聞いた瞬間、はっとした。機転の利く男だ、察しも良い。だがこの場合、そうで無かった方がどれ程良かっただろう。

 彼は己の言葉を訂正しなくてはならない。

 終わった、のでは無い。

 終わっていたのだ、に。

 皆がやってきた。ベンノが誰よりも先に、次にエーリカでクラウス、少し遅れてゲルトとマリアが部屋に入り、その光景を見て唖然とした。

 叔父が何事かと怒りも露に喉を張り裂けて叫ぶ。それを華麗に制し、エーリカが何があったのですかと…仮にも義理の兄であるアルフレート、では無く…ゲオルクとアナベルに向けて質問した。探偵と助手が経緯を語る。皆を代表してエーリカが相槌を打った後、一つの疑問を呈した。何故この様な事をしたのか、と。他の誰かが何か言うよりも早く。

 成る程彼女だったのか、と思いながらアルフレートは疲れた笑みを浮かべる。

 どうせ弁明した所で全て無駄だろう。彼は口を開き、己の心中とその失敗した計画を語った。

 こうしてアルフレートは殺人未遂の罪で逮捕された。未遂であり、また一応名家たるベルンシュタイン家の一員である為、刑期はそれ程長く無かったが、彼が出て来ても帰る場所等存在しない。折角手に入れた役人の職も失い、また流浪の日々が始まるのだ。

 それもこれも半ば己の所為なのである。

 結局、アルフレートが己の意思を持って幸福になる等到底適わぬ夢であり。

 彼は低俗な喜劇の三文役者な主人公に過ぎなかったのだ。


「それでは、こちらが約束の報酬でございます。エーリカ様があなた方の仕事の手際良さに感嘆しておられまして、多少色を添えてありますよ。」

 ドレスデン市街にある小さなカフェ『カルプフェン』。人影もまばらなその店の、片隅にあるテーブルに座るベンノは、反対側に座るゲオルク、アナベルに向けて相当な紙幣の束、貨幣がたっぷりと詰まっているのだろう皮袋を差し向けた。

「ありがたく頂戴致しますわ。」「……どうも。」

 アナベルは祈璃社ギリシャ神話のヘレネもかくやの満面の笑みで応えながら、ベルンシュタイン家給仕より手渡された報酬を受け取った。だが、ゲオルクの方は何か浮かない顔をしている。

「如何なさいましたかな、ゲオルク様。万事は全て解決されたと言うのに。」

 その様子を見て、ベンノが心配そうに彼に聞いた。

「いえいえ、いいのです。仕事の後は大体こんな感じですから。」

 ゲオルクはむぅと黙ったままで、代わりにアナベルがそう応える。そうですか、と然程興味無さげにベンノは答えながら、立ち上がった。

「それではこの度はありがとうございました。」

「こちらこそ。久しぶりに良い仕事をさせて貰いました。奥方様にも宜しく言っておいてくださいませ。」

 アナベルの言葉に、承りました、と言うと、ベンノはくるりと背を向け、扉の方に向かう。と、彼はドアノブに手を掛けながら、首だけ後ろに向けながら、

「ああ、一つ忘れていました。ゲオルク様。」

 そう聞いた。

 はい?と彼は応え、給仕は続ける。

「アルフレート様が警察に送られる時、不思議がっておりましたよ。ゲオルク様に捕まった時投げ飛ばされたのだが、あの体で普通にやって、私を投げ飛ばせるとは思えない。東洋の格闘技でも習得しているのでは無いか、と。何かおやりになっていたのです?」

 皇州において、徒手空拳の格闘技は余り発展していない。単純明快な腕力や、より堅くて間合いも長い武具を用いた方が強いだろうと言う合理性が求められてきたからだ。身体的に劣っていると思われた相手に体よくやられて、アルフレートはさぞ驚いた事だろう。

 その事を思いつつ、ゲオルクは苦笑を浮かべて、

「あれは日本ヤーパン式の格闘技で、柔道ユードーと言う格闘技です。その中の、トモエナゲと言うもので。昔こちらに留学していた日本人に…えぇと、モリ、と言う名前だったかな…まぁ教わったのですよ。護身術、としてね。」

「成る程。機会があれば学んでみたいものですな……それでは。」

 彼の答えに満足したのか、ベンノは頷くと、ぐっとドアノブを回した。そして、一週間前とは打って変わった心地良い晴天の下に出て行った。

 ゲオルクはその背中に向けて、アハハと手を振っていたが、扉が閉まり、彼の姿が見えなくなると、ハァァァと言う重苦しい溜息を漏らしながら、ずるずると椅子にもたれかかった。

「……疲れた。」

 心の底から思っていた事を口にする。

 そんなゲオルクに向けて、意地の悪い笑みを浮かべながら、アナベルが言った。

「あら、でも報酬は良かったからいいじゃない。流石ね、名探偵さん?」

「よしてくれ。推理出来ない探偵なんているものか。僕はただの役者だよ。」

 ゲオルクは苦笑に応えるが、その口元は笑みに成り切れてなかった。何時もそうだ。この仕事の後は決まって疲れる。特に心が擦り切れ、磨耗するのだ。

 彼と彼女の仕事、それは一言で言えば、騙りである。

 つまりそう、ゲオルクは探偵等では無いのだ。

 そこにいるのは、普段は場末の劇場で平凡では無い演技力を無駄に浪費する気の弱い青年と、両親の遺産で金と暇だけはある気の強い商人の娘に過ぎない。彼自身言ったが、決してシャーロック・ホームズやオーギュスト・デュパンと肩を並べられる様な者では無いし、各国で事件を解決したと言うのも勿論嘘だ。

 では何故この様な事をしているのか。

 それは簡単に言えば囮の為だ。

 罪を犯そうと考えている人間がいて、彼の所に自分は名探偵だ、と言う人間が現れたら、彼等はどの様に思うだろう。名探偵を出し抜こうと考え、行動するだろうか。確かに、犯罪そのものに愉悦を感じる類の自己陶酔の激しい人間であれば、そうするかもしれないが、その様な人間は稀だ。犯そうとする犯罪が自分にとって重要であればある程、犯人は慎重になる。犯行を取りやめようと思うかもしれない。そうしてくれるのならばどれだけありがたいか解らないが、犯行の重要性が止めると言う選択に決める事を躊躇させる。だがそこに犯罪を行うのは探偵がいる為に危険、と言うジレンマが発生する。

 そんな時、彼等は一体どうすればいいか。

 答えは明白だ。

 邪魔な探偵を先に殺せばいいのだ。

 だがそこに罠がある。探偵、特に名探偵と呼ばれる人物は頭脳明晰であるのは間違いないが、身体能力はどうかと言うと、必ずしも高くは無い。勿論、中にはどちらにも秀でた…シャーロック・ホームズが世界最高の探偵と称されるのはこの辺りに起因するのだろう…探偵も存在するが、イメージとしては余り健康的でないと言うのが一般的である。犯人から見れば、犯行を行う為の一障害物以外の何者でもあるまい。それも容易に突破出来る程に、貧弱且つ貧相な。

 しかし先に言った様に、ゲオルクは探偵では無い。役者である。観客全てに聞こえる様な力強い発声。己の感情を体現する為の動作。喜怒哀楽を指し示す機敏な表情作り。役者には演技力云々の前に体力が必要なのだ。元より彼は、最初から犯人と直接戦うつもりで行動している。日本の格闘技にも精通している。そんな彼を簡単にどうにか出来ると侮った…勿論そうさせる様に見せたのだが…犯人が挑めばどうなるかは、先程アルフレートが身を持って示してくれたのである。

 ゲオルクは犯人がこの様な心境に至り、自分を殺しに掛かってくれる様演技する。それをアナベルが助長する。彼はさも素晴らしい探偵であり、どんな事件であれたちどころに解決して来たのだ、と吹聴するのだ。

 彼等はこんな三文オペラ的行為を、依頼されて行う。顧客は自らが恨まれている、狙われていると思って止まない金持ち連中だ。その多くは、ただの被害妄想であるのだが、そうでない場合も少なくない。

 また顧客は、劇の進行を滞りなく行う為のサクラでもあった。ゲオルクと言う探偵を引き入れ、探偵に話題を集め、探偵が如何に凄いかを言う助手の言葉、その一言にいちいち感歎する為の舞台の外の役。

 今回の場合、この役目はエーリカが受け持った。本人は隠しているつもりでも、ベルンシュタイン家当主であり自身の弟であるクラウスに対するアルフレートの感情、即ち嫉妬と憎悪はありありと見て取れる程に放出されていた。そこで彼女は、ゲオルクとアナベルに話を持ち掛け、今回の芝居を行ったのである。それは見事に成功し、邪魔者は消えた。

 ゲオルクは彼女の笑みを思い出した。明るく、余りに明るいが故に何も考えていない様に見える笑み。だがその裏で邪な人間を燻り出す為、犯罪へと走る様貶める計略を考えている笑み。

 今後、ベルンシュタイン家が他のユンカー達同様に没落したとしても、彼女が居る限り当分の間は大丈夫だろう。そんな気が、彼にはした。似た様な人間をよく知っていたからだ。しかも直ぐ側に居る。

 ゲオルクはもう彼への興味を失って、紙幣と貨幣をテーブルにぶちまけ、その数を数えるアナベルを見た。

 この探偵演技を最初に考案したのは彼女だった。

 最初こそ失敗もしたが、最近は順調に軌道に乗り始めている。ゲオルクは、これを思いついたアナベルの非凡さに良い意味で呆れていた。自業自得なのだが、まだ罪を犯していない者を罠に嵌める様な行為に少々の罪悪感を覚えるとは言え。

「……うん。素敵ね、ベルンシュタイン家、かなりの額を余分に入れてくれてるわ。また来ないかしらね、あのゲルトって親父も怪しいと睨んでるのだけど。」

 数え終わったのか、紙幣と貨幣を纏めながらアナベルが剣呑な事を言った。商人の娘らしい冗談、のつもりかもしれないがはっきり言って冗談になっていない。最初はどうあれ、今はすっかり商売としているその態度に、ゲオルクは苦笑いを浮かべるしかなかった。

「さて、それじゃ折角ですし、街でも見てきましょうか。美味しいもの食べて、新しい服も買って……ほら、何してるのゲオルク。早く行くわよ。」

 そうしている間にも彼を置いて彼女は行こうとする。

「……はいはい、直ぐ行くよ。」

 苦笑いを浮かべたままで、ゲオルクは立ち上がった。

 それは彼女にと言うよりも自分に向けたものだった。

 自分がやっている事は、結局アナベルが書いた筋書きに従ったものである。それは顧客と言う名の観客、或いはパトロンの意向によって多少変わる事はあろうが、自分がそれに対して、どう思うと、何を考えようと、変更される事は無い。

 ゲオルクは、ただただ探偵と言う役を演じる他無い。その点で言えば、選択肢を失い、犯人として行動しなくてはならなかったアルフレートと大差無いだろう。強いて言えば、筋書きを知っているかどうか、だろう。ある意味では互いに哀れと言う他無い。探偵と犯人が本質的に一緒と言うのだから。

 だが、それでも止めないのは、アナベルがかつてこの行為を始める時に語った思想故か。或いは、もっと純粋なものだろうか。二十歳を超えた彼女は、ずっと見てきた自分でも凄く魅力的に見えた。勿論口に出しては言わなかったが。

 既にアナベルは外に出ていた。急かす様、手を振っている。手を振り返しながらゲオルクは立ち上がった。

 思う所はあったが、今考えるのは止めた。閉幕のベルはとうの昔に鳴り終えている。今の自分は偽りの名探偵では無い。舞台を降りた、ただの役者なのだ。

 ゲオルクは再度急かすアナベルに向けて手を振り、足早に店を出ると、彼女の元へと歩んでいった。

『完全犯罪』の対極にある『完全推理』とは如何なるものか。

その一つの解答として、今作を書きました。

果たしてその内容は推理なのか、と自問する次第ではありますが。

まぁ探偵モノではあると言う事でどうか一つ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 素晴らしいですね。 ヴィルヘルム・グルムバッハの機巧時代から先に読ませていただきましたが、文章表現は素人レベルではないですね。 作品に用いられてる欧州の造旨も深く、それが作品とマッチしていま…
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