アナログテレビ
裕一がそのアナログの小型テレビの存在に気が付いたのは、新しいアパートに入居してひと月ほど経った頃だった。
築数十年の古めかしいアパートは、会社の寮として格安の家賃で提供された物件で、一人暮らしをするには上等だと思ったし、外観は多分に古めかしいその木造の建物であっても、中はリフォームされていて、随分綺麗でもあった。
何より、会社まで歩いて数十分の距離は、学生気分が抜けきれない遅刻間の裕一にとって、他の悪条件を覆す程に魅力的だったのだ。
しかしながら、やはり築年数の古さからか、寮とはいっても、満室という事はなく、実際の入居者は、裕一と後、数人だけだった。
社会人ルーキーの裕一にとって、慣れない会社での忙しい毎日は、緊張の連続も重なって、クタクタになる程、疲れるものだった。
故に、山のように積み上げられていた段ボールの整理をしたのは、入居して暫く経ってからで、土日の2日間で一気に片付ける事にしたのだ。
と言っても、取り敢えず必要な物が入った段ボールだけを開け、それ以外はそのまま、押し入れに押し込んでしまおうと“開かずの段ボール封印方式”を決行した時だった。
「ん? なんだこれ……」
押し入れのど真ん中にあったそれは、むき出しに置かれた小型のアナログテレビだった。
会社の寮に入居するという選択肢の少なさから、入居前の内覧などは省いて、いきなり住み始めた裕一は、実はその時に初めて押し入れを開けたのだった。
その小さなアナログテレビは、ところどころ赤い塗装が剥げ、埃の積もった厚みの分だけ、深い年月の歴史を醸し出している。
チャンネルや音量を調節するように、右と左にダイヤル式のボタンがついていた。
「……ぶ、ぶ、へっくしょん」
びっしり積もった厚みのある埃を見ただけで、思わずくしゃみをしてしまう裕一だった。
「今時アナログテレビなんて……」
小さな押し入れのスペースを開ける為に、テレビを引きずりながら部屋の下に下ろそうと、小型ながらもずっしりと重いそのテレビを持ち上げた瞬間、思わず尻餅をついて、ドスンという音が響いた。
「ハァ…… ったく重いな昔のテレビって」
後ひと月もしたら、東京タワーから電波の移動が行われて、通常の接続では、アナログテレビは見られなくなる。
専用のチューナーを使えば、旧式のテレビでも、映るらしいが、その専用の機械が既に売り切れて手に入らない状況である事も、ニュースで見て裕一は知っていた。
だからこそ裕一の部屋にも、引っ越しにあわせて購入したばかりの真新しいスマートなテレビが置いてあった。
アナログテレビの埃を、近くにあったタオルで拭う。
「参ったな、こんなのただの粗大ゴミじゃないか」
裕一はそう呟いて、テレビのスイッチを押したり、ダイヤル式のチャンネルをカチャカチャ回したりしてみた。
ザーザー……
「あれ? なんだこれ」
すると配線や接続など、何もしていないテレビの真っ暗な画面に、突然砂嵐が映った。
裕一が訝しく思いながら、その砂嵐を見つめ続けていると、急に画面が変わった。
「一体どうなってるんだこのテレビは?」
驚きの余り、思わず口に出して呟く。
テレビには、昔ながらの浴衣を着て、髭をはやした気難しそうな父親と、頭に三角布を巻いて、割烹着に身を包んだ優しそうな母親、小学校低学年の丸坊主の男の子、オカッパ頭に切り揃えられた幼少の女の子の姿があった。傍らに、穏やかな表情の祖父母らしき人たちもいる。
茶の間を囲んで座りながら、その家族は皆一様に、こちらを見ている。
そして嬉しそうにニコニコと微笑みつつ、談笑していた。
「…………?」
裕一は思わずテレビについているダイヤルに手を伸ばし、音量を弄った。しかし、どんなに音量を大きくしても、家族の声が聞こえてくる事はなかった。
暫く呆然と枠の中の家族を見ていた裕一は気がついた。
「そうか、向こうもこのテレビを見てるんだ!!」
それに気がついた時、裕一もいつの間にか、突然出会った、箱の中の見知らぬ家族の姿に、釘付けになっていた。
そしてその日から、裕一の生活の中に、アナログテレビのある光景が始まったのだった。
裕一は会社から帰ると、まず畳の部屋に直置きしたアナログテレビの電源を入れる。
すると画面には、いつもの家族の姿が映し出されるのだった。
時には、ちゃぶ台で夕食を囲みながら、全員で笑っている姿。
また別の日には、家族の中で、父親だけが映っており、手を拳にして必死に応援している姿なども映し出された。
おそらく、何かのスポーツを観戦しているのだろう。それは見ているこちらまで、何だか熱くなるような光景だった。
そして時々、家族の誰かが柔らかそうな布で、こちらを拭いている姿も映った。
それは主にその家の小学生の長男の役割らしく、テレビに白い息を吹き掛けながら、丁寧に丁寧に磨く姿が何とも微笑ましいものだった。
「昔の人って、こんなにテレビを楽しんで、大切にしていたんだな……」
現代のテレビのニュースでも、地デジの話題が連日のように取り上げられ、間近に迫った電波の交替についてカウントダウンが行われるようになっていた。
最近では、仕事で疲れて帰宅する裕一にとって、テレビの中の、暖かな昭和の家族の光景は、現代のどんなテレビ番組を見るよりも、面白く癒されるひとときとなっていた。
「あれ?」
しかし、その家族と別れる時がやって来た。
ある日突然、テレビの中の風景は、見慣れた茶の間から、別のアパートの一室に変わった。
「この部屋はもしかして!?」
新しくテレビの画面に写し出されている部屋は、リフォーム前の、現在裕一の住んでいるこの部屋ではないか。
六畳の和室の中は、綺麗に片付いていて、最小限の家具だけが置かれていた。 鏡台、テーブル、洋服をかける、布で出来た簡易なロッカー。
壁には、カレンダーが飾ってあるのが見えたが、文字が不鮮明でいつの時代かまでは分からなかった。
どうやらあの家族から、新しい持ち主の手に、テレビが譲り渡されたらしい。
そしてテレビの中の新しい主人公は、裕一と同じくらいの年頃の若い女性だった。
彼女は裕一と同じ会社員らしく、裕一が帰宅する頃に、いつも帰って来て、ブラウン管の中からこちらを見ていた。
画面に映し出される映像は、いつも向こうが何かのテレビ番組を見ている時に限られているようで、裕一は彼女の表情から、それがバラエティーなのか、ドキュメンタリーなのか、はたまた悲しいドラマなのか、推測する事が楽しみだった。
はっきりした時代は、分からないが、昭和の服装に身を包んだ彼女は、メイクも髪型も、当時の流行に彩られていて、裕一にとっては、逆にそのレトロさが新鮮だった。
毎日仕事から帰って来て、テレビをつけると彼女がいる。
時に真剣な眼差しで、こちらを見つめる彼女を見ている時、まるで向かい合って目があったように思えて、裕一は思わず、目線を逸らす事もあった。
ある日、テレビの中の彼女は泣いていた。
何か悲しい番組を見ているのだろうか?
それとも彼女の日常の中で、泣きたくなるような何かがあったのだろうか?
大きな眼差しから、ポロポロと涙がこぼれ落ち、悲しそうな顔で、こちらを見ていた。
裕一は心が締め付けられる感覚に襲われて、つい手を伸ばして、テレビの画面に触れた。
それは硬くて冷たいブラウン管の感触で、いつの間にか、画面は砂嵐に変わっていたが、裕一は暫くそこから目を離す事が出来なかった。
慣れない生活の中で、裕一にとって、彼女はいつの間にか、心の恋人のような存在に変わっていった。
裕一が生きる現代では、もうすぐアナログ放送が終了し、完全に地デジへ変わろうとしていた。
しかしその時代の流れと逆行するように、裕一の気持ちは完全にアナログテレビの中の懐かしい彼女に、奪われていった。
2011年7月24日。
『地上アナログテレビ放送は本日正午を持って、停波されます。テレビをご覧の皆様は既に地デジ化をされていると思いますが……』
朝からそんなニュースで持ちきりだった日曜日。
裕一は正午前に起き出して、いつものように「アナログテレビ」をつけた。
間を置かずに、彼女の姿が映し出される。
頬杖をついて、それを見ていた。
すると画面の上下から黒い幕が現れ、その幕に挟まれるように、段々と彼女の姿が見えなくなっていった。
「え、なんだよこれ?」
裕一は驚いて、両手でアナログテレビをガッシリと掴んだ。
「ちょっと待ってくれ!!」
必死になって叫ぶ。それは直感で彼女に二度と会えない予感が働いたからだった。
しかし上下から広がった黒い幕は、止まることもなく、無情にもあっという間に真ん中で細い一本の線に変わり、プツッという小さな音を立てて、その役目を終えた。
「………………」
裕一は無言で、何度もテレビのスイッチを押し続けた。
テレビについている全てのスイッチを押しても、ダイヤルを回しても、何も反応がない。
裕一は二度とテレビの中の彼女に会えない事を悟った。
数日後。
不思議な出会いと突然の別れの失望から抜け出せないまま、仕事をこなしていた裕一は、会社の帰り道、目を疑う光景に出くわした。
交差点で信号待ちをしている時に、前方に立っている若い女性が、あの彼女にそっくりだったのだ。
思わず目を見張って、凝視してしまう。
裕一の鼓動は一瞬で高鳴りを激しくしていた。
(そんな、まさか……)
すると人混みに紛れて隠れていた初老の女性が、隣から彼女に話し掛けている姿が見えた。
「………………!!」
真っ白な髪に包まれて、にこやかに語りかけている初老の女性。遠目にも、深く刻まれたシワが目立つ。
それは間違いなく、あの彼女だった。
年齢を重ねた分、慈愛に満ちた雰囲気を醸し出していて、彼女の穏やかな笑顔は、彼女の現在が幸せである事を物語っていた。
傍らには、かつての彼女とよく似た美しい女性がいる。
(娘さんだろうか? いや、お孫さんだろう)
信号が青に変わり、周りの人々が歩き出しても、裕一は、その場所から動けずにいた。
彼女が近づいてくる。
その時、忙しない人混みに紛れて、突っ立ったままの裕一は、誰かに激しくぶつかってよろめいた。
『あら、大丈夫ですか?』
そう言って、咄嗟に彼女が裕一を支えてくれた。
「えっ……、ああ大丈夫です」
(優しい声をしているんだな)
微笑んだ彼女に、軽く会釈をして、裕一は歩き出した。
そしてそのまま、振り返らずに、真っ直ぐ歩いて部屋に帰った。
家に着くと裕一は、アナログテレビの前に座り込み、それを撫でた。
「お疲れ様」
しんとした部屋の中で、ただひと言、労いの声を掛けて、裕一は静かにそっと涙を流した。
もう何も映し出す事のないアナログテレビの黒い画面には、そんな裕一の顔がぼんやりと浮かんでいた。
完