第七話 そして私は覚悟を決めた
不思議そうに首を傾いだ里愛に女性は微笑んだまま数秒黙り込み、そして再び足元で寝そべっていたシリウスを踏みつけた。
容赦なくぐりぐりと踵を軸に動かす。まるで鬼のようだ。笑顔を浮かべているのに行動が全く伴わない。
下から悲痛な叫び声が聞こえるが、顔色一つ変えずに女性は踏み続ける。
「如何いうことかしら?この子はリディア様じゃないの?」
「いだだだだっ!ちょ、落ち着いてココ!」
「ええ、私はいたって落ち着いているわ。お前が私を騙そうとするからいけないのでしょ」
「騙してないから!『里愛』は真名なんだ!だから僕が付けた新たな名――『リディア』で呼ばないと……」
「あのねぇ……初対面の相手に真名を名乗るような頭の弱い令嬢がこの離宮に存在すると思っているの?ここはアルヴィトの花嫁候補が集まる場所なのよ。真名を他者に名乗ればどうなるかなんて赤子でも知っている常識よ!」
橙色の瞳をつり上げながらそう語る女性は正しいのだろう。何も考えずに自分の名前を口にしまったが、どうやら駄目だったらしい。
教えたらどうなるのかなど知らないが、どうせろくな事が起きないに違いない。
魔法がある世界なのだ。何だってあるに決まっている。
それにしても凄く貶されているのが分かった。腕輪をはめたお陰か、女性の早口でも普通に聞き取れるし、理解できた。
それだけに彼女の言葉は中々鋭いものがある。相変わらず抱っこされている状態なのだが、物凄く悲しくなってきた。
勝手に花嫁候補として選ばれた上、これでは赤子より無知と言われているようなものだ。
思わず顔を俯かせると、容赦なくシリウスを踏みつけていた女性が驚いたように顔を覗きこんでくる。
透き通るような橙色の瞳に情けない里愛の顔が映った。
「わ、私とした事が……大丈夫ですか?リディア様。不安にさせてしまい申し訳ありません。侍女失格ですわ」
頭を優しく撫でながら女性はそう呟くと、漸く起き上がったシリウスを見下ろしながら朗らかな口調で聞いた。
但し、言っている内容は恐ろしいものだった。
「何処からこんな可愛らしい深層の令嬢を拉致してきたのかしら?もしかしてルシーダの隠し子?それともナディアの血縁者?……貴方の親戚ではないわよねぇ。瞳の色は同じだけど、顔立ちは似てないし……。ほら、白状しないと最終手段のを使うわよ!」
「拉致だなんてとんでもない!誤解だよ、ココ!」
必死に弁解しているが、何処が誤解なのだろうか。無理やり里愛をこの世界に連れて来た男がよくもまあそんな事を口に出来たものだと感心すらしてしまう。
思わず睨みつければ、口元を綻ばせ「可愛いリディア」なんてほざくものだから蹴り倒したくなった。
まあ、真名を人前で名乗ってはいけないらしいからこの際『リディア』という名前でも構わないが、あまりしっくりこない。
自分の名前を呼ばれているという感覚があまり無いのだ。まあ、外国人みたいな名前だし、日本人の名に慣れている自分にはあまりも浮いたもののように感じられた。
まるでコントのような二人の姿を眺めていると、自分の悩みなどちっぽけな物のように思えるのだから不思議だ。
それにこの侍女に頭を撫でてもらうと酷くほっとする。何でこんなに安堵出来るのか謎だが。
侍女の腕を引っ張れば気づいたように視線をこちらに向ける。降りたいと頼めば、ゆっくりとした動作で下ろしてくれた。
元の世界に戻るためとはいえ、随分屈辱的な姿にされた里愛は苛立ちの篭った眼差しをシリウスに向ける。
相変わらず何を考えているのか分からない表情だが、自分の負の感情を一心に受け止めようとしているのは分かった。
これで一生帰れないと言われたら何度殴っても気が晴れなかっただろう。でも、この世界に馴染む努力はしたに違いない。
だが私は帰ることが出来るのだ。だったら絶対帰る。何が何でも元の世界に――帰るんだ。
「別に呼び名なんて何でも良いわ。貴方が決めたリディアでもいい。姿も、髪の色も、瞳の色さえ変えてしまうのならそれはもう――私じゃないもの」
だから別に里愛と呼ばれなくても大丈夫。この銀髪に蒲葡色の瞳をした少女はリディアだ。
自分でも驚くほど静かな声音にシリウスは眩しい物を見たかのように瞳を細めた。
「やはり強いね、リディア」
「強くないわ。私は魔力の魔の字も使えないただの小娘だもの」
「そんなこと無いさ。十分強いよ、リディアは」
「何処がどのように強いのよ。詭弁は止して」
煽てたって無駄なんだから。そんな事を思いながら唇を尖らせた時だった。
黙って話を聞いていた侍女が不思議そうに首を傾いだ。
「あら、別にシリウスは詭弁なんて申していませんよ?リディア様。だって十分特殊な魔力持っていらっしゃるじゃないですか」
「へ?」
「珍しい魔力ですね。無色なんて初めて見ましたわ。多少なりとも魔力は色を帯びるものですから」
「えっと……それは、魔力が無い……という意味では……?」
「それはありませんわ。それに魔力のない者はこの宮殿に入れませんわ。そういう仕組みになっていますもの。だから多少なりともリディア様は魔力を持っています」
「は、はあ……」
つまり、この場所自体が特殊な所だから多少なりとも魔力を持っていると。でもどうなのだろう。
別に今まで魔法を使える気配など全くなかったのに、あるといわれても信じがたいものがある。
だが、侍女はにっこりと微笑んだまま更に言葉を続けた。
「色々とご事情がお有りなのは分かりました。ですが此方も予定がつまっておりまして……とりあえず、ドレスに着替えてもらいたいのですが宜しいでしょうか?」
「ド、ドレス?」
「はい。既に選んでありますので、どうぞ此方へ。女性の準備は時間が掛かりますから、どこかで時間を潰していなさい」
テキパキとした動作で部屋の中に連れ込むと、侍女は見たこともない立派な衣装箪笥からドレスを取り出した。
淡い紫色のドレスはフリルがふんだんに使われており、とても着るのに勇気が必要なデザインだ。
確かに可愛い。可愛らしい女の子が着ていたらさぞかし眼福だったに違いない。
でも、着るのは私だ。凄く、すっごく抵抗感を覚えるドレスに里愛は視線をさまよわせた。着たくない。でも、着るしかないのだろう。
目の前の侍女はにこにこ微笑みながら近づいてくる。
「さ、リディア様。謁見の時間は刻々と近づいておりますよ。アルヴィト様が見惚れるくらい美しく着飾りましょうね。他の花嫁候補などに絶対負けられませんもの」
「……」
い、いや……むしろ他の花嫁候補に負けたいくらいです。しかも鏡に映る姿は何処からどうみても子供にしか見えない。
……もしかして、その魔術師とやらはロリコンなのだろうか?でなければシリウスが態々子供の姿に変える必要がないと思ったのだ。
思わず現実逃避をしながらそんな事を考える里愛。だが、本当の地獄はこれから始まったばかりだったのだ。
生まれてこの方初めてコルセットを装着したが、内臓が飛び出るほどきつく締められた。
情けない泣き声のような声が漏れてしまったのは仕方があるまい。無理だ、無理。声を漏らすな、なんて本気で不可能である。
やっとの思いで着たドレスは動きづらくて仕方がなかった。
どういう仕組みか分からないがドレスの裾が大きく広がっているし、袖もレースがいっぱいで動き辛いことこの上ない。
椅子に座っているから今のところ問題ないが、立っていたら足腰に負担がかかりそうな気がする。
装飾品があちこちに付いているため、かなり重量感があるのだ。
これから謁見とか何か言っているし、出来れば逃げ出したくて仕方がない。
何時の間に宮殿に連れてこられたのか全く分からないが、寝ている間にシリウスが連れてきたのだろう。
全く……用意周到な男である。自分が嫌がるのを想定しての行動に舌を巻く思いだ。
ふと、鏡越しに見える侍女を見れば何やら難しそうな編み込みをしている最中だった。
長い髪の毛とはいえ、こんな風に飾るのは初めてだ。
滅多に見られる光景ではないので、里愛は細い指先が動く姿を観察しながら先程から疑問だった質問をした。
「そういえばさっきから所々で呼ばれているアルヴィト様って誰ですか?」
「ふふふ、リディア様ったら本当に何も知らないのですね」
「すみません、無知で」
「いいえ。知らないのは仕方がないことですわ。それだけ結婚相手に興味がないということでしょう?ただ、無知と自覚した後も知ろうとしない者は無知以下の愚図ですが」
うわー。結構この侍女さん、容赦ないなぁ。笑顔でさらりと辛辣なことを口にする。
だが、彼女の言っていることは正しいし、間違ってなどいない。知ろうとしていないのは自分の方だ。
必要最低限のことは知った方がいいだろう。しかし、今の意味を考えるにアルヴィドというのが例の魔術師らしい。
もうじき四百歳の魔術師か。
……出来ればダンディなおじ様だったらいいなぁ、と遠くを見つめながらそんなことを考えるのであった。
お待たせしました。次回、お相手の魔術師出てきます。