第十七話 壁の中から現れた男
陽だまりがとても気持ちの良い午後――柔らかな口調と声音が薔薇園に響き渡る。コロコロと転がる鈴の音のような声は遠くで聞いている分には微笑ましいのに、中心部は見事に極寒の地となっていた。
先程のセシリアとテオドーラの言い合いは既に他の令嬢にもどん引きするほどのものだったらしく、次に自己紹介を始めた令嬢はとても可哀想なほど震えた声で告げた。
「えっと……怠惰大陸からやって来ました、パトリシアと言います。皆さん、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げるパトリシア。亜麻色の髪に絡ませた桃色のリボンが風に揺れている。引きつった笑みが見ていて痛々しかった。
気弱な性格なのか、それだけ告げると私にバトンタッチされてしまった。
心なしか潤んだ瞳がとても可愛らしかった。元の世界では中々見ることの出来ない程の美女ぶりに思わず里愛は感心する。てか、私か次の自己紹介は。
そんな事を思いながら里愛は緊張したように口を開いた。
「虚飾大陸からやって来ましたリディアです。趣味は――「虚飾大陸ですって?」……はい?」
自己紹介を遮られた里愛は瞳を瞬いた。自分はそんな特別な事を口にしたつもりはなかったのだが、テオドーラは柳眉をひそめながら此方を見つめてきた。
無遠慮な視線で里愛をジロジロ見下ろすと、唇を引き締めたまま何か考え込むように黙ってしまった。何だというのだ一体。何かやらかしてしまったのだろうか、自分は。
どうしたものかと考えあぐねていると、桃色の巻き毛の女性――アルテミシアが控えめに口を開いた。
「あの、虚飾大陸出身って……フェイタル様の推薦で来たんですか?」
「?いいえ、シリウスさんの推薦ですけど」
そもそも誰だ、フェイタルって。聞いたこともない名前に困惑する里愛を他所にアルテミシアは瞳を輝かせた。
白皙の頬を赤らめながら微かに身を乗り出す。遠巻きに見ていても可愛らしさが伝わってくる。ううう、それ以上可愛らしい顔されると口元がにやけるから止めて!
こんな場で一人にやにやしていたらすごく怪しいから。思わず視線を彷徨わせる里愛を他所にアルテミシアははしゃいだ声を出す。
まるで先程の自己紹介とは別人のような声だ。
「シリウス様の推薦!もしかしなくても、シリウス・ルシファー様のことですよね!?私、彼の大ファンなんです!もしかして宮殿に来ているんですか?」
「確か一度虚飾大陸の方に戻るって言っていましたけど……」
「そうなのですか。残念ですわ」
本当に残念そうに呟くものだから勘違いしそうになる。まさかシリウスの事が好きなんじゃないのだろうかと。そもそもアルヴィドの花嫁候補なんですよね、皆さん!
何故にシリウスの方にばかりそんな意識しているんですか。あんな変態の事などどうでもいいじゃないか。そんなことより私としてはフェイタルって人のことの方が気になるんだけど。
聞いたことのない名だったな、と考える里愛を他所に何処となくウットリするアルテミシアだったが、最後の令嬢によって遮られた。
「貴女、何の為にここにいるのかしら?アルヴィドの花嫁になるために来たんじゃないの?軽い気持ちで花嫁候補になるなんて言語道断じゃなくて」
「すみません、わたくし……」
「別に謝罪なんて欲しくないわ。でも、貴女はアルヴィドの花嫁には相応しくないわね」
そうハッキリと告げた女性にアルテミシアは唇を噛み締める。まあ、自分の尊敬する人が現れたら誰だって興奮するものだろう。私だって素敵なおじ様が現れたら黄色い悲鳴を上げるに違いない。
残念ながらこちらの世界でダンディーなおじ様に出会った事は未だにないのだが。実に残念だと思いながら改めて呆れたように溜息を零す令嬢に視線を向けた。
サラサラの銀髪に緋色の瞳が印象的な女性は温くなった紅茶を飲み干すと、そっとソーサーにティーカップを置いた。
「私はフランチェスカよ。憤怒大陸出身で、アルヴィドの幼馴染と言えば解り易いかしら?」
「なっ……」
「幼馴染、ですか」
確かにこれはある意味最強の花嫁候補が現れたものだと里愛は思う。むしろ何故幼馴染が花嫁候補になっているのかは謎だが、ここにいる誰よりも有力なのは間違いないだろう。
それなのに態々皇妃が茶会を開いた意味が分からない。何か裏がある筈だ。一体何を企んでいるのやら。怪しむ里愛を他所に他の令嬢達は突然の幼馴染発言に虚を突かれた様子だった。
セシリアとテオドーラなど唇を震わせながらフランチェスカを見つめる事しか出来ない。皇妃がいる手前、下手に手出し出来ない状態であった。
皇妃がいなければ何をしでかしたのやら。目の前の二人なら絶対何かやらかしただろうな、と思いながら里愛は遠い目をした。
様々な反応を示す花嫁候補を眺めながら強烈な一撃を決めたフランチェスカは艶やかに微笑んだ。
「ええ、アルヴィドは私の事をファニーと呼んでくれるわ」
「……っ!」
一歩所か十歩くらい他の花嫁候補よりリードしているフランチェスカはとても楽しそうだ。やっている事は結構あくどいのに美人だから何をしてもそれほど気にならないのが不思議である。
まあ、私としては誰でもいいからアルヴィドとくっ付いてくれれば問題ないです。そして元の世界に戻れれば万々歳。
もちろん帰ると決まったらシリウスに復讐はしっかりしますけどね。心の中で恐ろしい事を考えながらほのぼのとした様子で眺めていると、ふいに緋色の瞳が里愛を見つめた。
鋭い瞳はまるで里愛の内面を見透かすように澄んでいる。悪い人ではないのだと思う。ただ、思いっきりガン見されるのに慣れていない里愛は困ったように見つめ返した。
「虚飾大陸出身って言ったわね、貴女」
「はい」
「でも、推薦したのは管轄者のフェイタル様ではなくシリウス様というのが腑に落ちないわ。貴女、シリウス様とはどういう繋がりなのかしら?」
「遠い親戚でして……」
「まあ、遠い親戚……では家名はルキフェルということ?」
「はい」
「ルキフェルとは随分珍しいわね。本家はシリウス様以外全滅したらしいから分家、ということになるし。それにしても変わった子を連れて来たものね、シリウス様も」
まあ、彼女がそういいたくなる気持ちも分かる。何せ私は毛がはえた程度の子供ですから。婚約者なんて年齢じゃないのは百も承知ですよ。むしろなる気なんてさらさらないから。
とは心の中で思っていても、流石に皇妃様の手前……そんな恐ろしいことは死んでも口に出来ない。のらりくらりとフランチェスカの追求を交わし、漸くしんど過ぎる自己紹介が終わった。
もう二度とお茶会なんて参加したくないよ!大変としか言葉出てこないし。そんな事を思いながら里愛はこっそり溜息を零したときだった。
ピシャ、と顔に思いっきり何かを掛けられた里愛は驚いたように瞳を見開いた。結構な量の紅茶を掛けられたのか、髪の毛から滴れる滴がドレスを盛大に濡らす。
ああ、このドレス高そうなのに紅茶なんてぶっ掛けてくれちゃって……どうするのさ。染み落ちなかったら私はショックだよっ!
そんな事を思いながら紅茶をぶっ掛けた張本人である皇妃を見つめると、鈴の転がるような声を発した。
「ごめんなさいね。手が滑ってしまったわ」
「……」
正直に言わせてもらいますが、手が滑ったレベルの濡れ方じゃないと思うのは私だけだろうか。天然ですか?それとも確信犯なんですか?その発言は。
相手は皇妃なので何と言って良いのかわからず困惑する理愛を他所にフランチェスカが眉をつり上げるのが見えた。
あからさまに不機嫌そうな顔をするフランチェスカに里愛は思い出したように椅子から立ち上がった。そうか、これはこの場を退出するチャンスですね!
慌てたように近づいて来るココを手で制しながら里愛は出来るだけていねいなお辞儀を心がける。とはいっても他の令嬢の足元にも及ばないが、やらないよりはマシだろう。
「本日は素敵な茶会にお招き頂きありがとうございました。ドレスが汚れてしまったのでお先に失礼させていただきます」
軽く会釈をし、足早に薔薇園を後にする。風に乗って笑い声も聞こえてきたような気がしたが別に気にならない。むしろ皇妃に嫌われれば嫌われるほど花嫁として遠退くのだから嬉しくてたまらなかった。
思わずスキップしそうになるのを堪えながら人気のない通路を歩いていく。直ぐに薔薇園を抜けてきたのか、後から付いてきたココが不機嫌そうに眉をつり上げながらハンカチを取り出した。里愛を呼び止めると、通路の端により濡れた顔を拭う。
「ああ、こんなにお濡れになられて……可哀想なリディア様。やっぱりとんでもない性悪女ですわ」
一国の皇妃に向かってそんな口の利き方しても良いのだろうか?むしろ雇われている側じゃないのだろうか、ココは。この国の侍女だというのに手厳しい口調で皇妃を罵りながら頬を拭き終わったココは里愛の髪を拭いていく。
紅茶で濡れた髪はべとべとしており、後で風呂に入らないと気持ちが悪い事になるだろう。ドレスなど二の次で自身を拭いてくれるココに感謝しながらも、やはり高そうなドレスの事が心配になってしまう里愛。
濡れたドレスの裾を持ち上げながら溜息混じりに聞いた。
「この染み落ちるかな?」
「ドレスなんて幾らでも作ればいいのですから気にしないで下さい。それよりも風邪を引いたりしたら大変ですわ」
急いで部屋に戻りましょう。と呟くココに頷き返しながら再び歩き出した時だった。突然何もない壁から人が飛び出してきたのだ。
ぶつかった反動で勢い良く転がる里愛。小さな身体のせいか非常に転がりやすい状態に加え、更にドレスの重さも加わってコロコロと通路を回転しながら倒れた。
痛さで思わず涙が浮かぶ。幾らぶつかったとはいえ、尻餅程度で終わると思ったのだがこんなに転がるとは思わなかった。
うつ伏せに倒れたまま動けずにいる里愛にココの悲鳴が聞こえる。呻き声を漏らしていると、ココが急いで抱き上げてくれた。
「大丈夫ですか、リディア様!?」
「いひゃい……」
「きゃあああっ!額が真っ赤に腫れ上がってしまっているわ!何てことしてくれたのよ、この朴念仁がぁ!」
痛さのあまり目を開けることも出来ない里愛は鼓膜を破らんばかりに大きな声を張り上げるココの罵倒を聞く事しか出来ない。きっと鬼のような形相を浮かべているに違いない。綺麗な顔をしているだけに怒っているココの顔は中々に恐いものがあるのだ。
ぶつかった相手も同じ事を思ったのか、低姿勢で「すまなかった」と謝罪する声が聞こえる。……男性の声だ。しかも何処かで聞いた事があるような声。
何処だっただろうか……?そんな事を思いながら里愛は薄っすらと瞳を開く。日の光が差し込む回廊の中、不機嫌面丸出しの男を直視した瞬間意識が打っ飛びそうになった。
驚きのあまり声を出せずにいる里愛を他所に相変わらず不機嫌そうな表情を浮かべた男が頭を垂れている。そんな相手を指差しながら怒鳴っているのはココだ。
春風に揺られ紅蓮色の髪に飾られた装飾品が綺麗な音を奏でる。謁見の時とは違い、飾りを減らした服装は質素だが彼の魅力を損ねる事はなかった。
濡れ鼠のような姿の自分とは天と地ほどの差がある事だけは十分に分かる。というより、恐怖で声が出ない状態だ。むしろこのまま意識を飛ばした方がマシな状況なのではないだろうか。
何も見なかったように再び瞼を閉じようとした瞬間、運悪く里愛は男と視線が合ってしまった。氷のように冷たい視線に晒され、自然と身体が恐怖に震える。ココが「リディア様!?」と声を上げた瞬間、男の手が此方に向かって伸びてきた。
かつて殺されかけた記憶が甦り、恐怖で顔が強張る。反射的にギュッと瞳を閉じた里愛だったが、突然襲われた浮遊感に慌てたように手足をバタつかせた。
何事かと思い、瞳を開けば目の前に美しい顔がある事に気づき、思わず仰け反る。あくまで見惚れたわけではなく、恐怖に慄いただけだ。その事に気づいているのか、男は「動くな」と短く言い放つ。
それだけで里愛は押し黙る事しか出来なかった。つーか、何故こんな事になっているんでしょうか。未来の旦那さま(仮)に抱っこされた状態である里愛は簡単に意識を手放した。
痛みと恐怖がごちゃ混ぜの状況下で気絶するなんて色々と不味い気もしたが、流石に図太い私の精神も持たなかったらしい。視界が暗転する中、心配するココと不機嫌そうなアルヴィドの表情が見えたような気がした。