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のら猫の話

「のら猫の話」


タヒツチカ


 のら猫の話。

 とある大学の構内に、のら猫が入り込んだ。それはちょうど、動物の生態について語っている教室であった。のら猫は外でわずかにしとしとと降り始めた雨を逃れるために、なくなく天敵であるひとの溢れる構内に忍び込んだのだ。

 こののら猫は黒猫だった。

 教室はとても広く、学生は後ろの席にまばらと居るばかりで、がらんどうだった。正面にはおおきなスライドを掲げた教授が、ふんぞり返って、半分眠りながら呟くように話していた。まるで学生の睡眠を妨げるのを恐れるかのようだった。

 のら猫が入り込んだのは、そんな教室の真ん中辺りの小さな風通し口からであった。細い道だったが、案外無理がきくことをのら猫は知っていた。

 のら猫は周囲の光景を見て、ひとがいることに気がついた。

 だが彼も都会にいきる猫の一匹である。ひとごときにおののくような猫ではなかったのだ。

 そこで、のら猫は、その背中にまばらについた水玉を、振るった。

 大学の構内はつるつるの、水を受けない床なのでその水玉は「り」を加え、水たまりになった(駄洒落)。のら猫はそこにうつる自分の姿を眺めた。

(ぼくだ)

 きっとそう思ったに違いない。

(黒い猫がぼくを見ている)

 しかしその水たまりは小さいので、黒い猫のきいろい目とぼやっとした黒のシルエットしかうつらない。パズルのピースのように、難解だった。

 なのでのら猫はすぐに興味を失ってしまった。

 得てして、猫はみなうつり気なのだ。

 この、のら猫の教室への素朴な侵入はまだだれにも見つかっていない。のら猫はのんびりと雨やどりを堪能している。あくびをして、背中をぐっとのばし、ちいさく「ふみゃ」と鳴いてみたりする。

 この声がまずかった。きじも鳴かずば撃たれまい。教室の外では雨がざらざらと音を立てているが、のら猫の高みのある、濡れた弦を弾いたような音は、ひとの耳を惹きつけた。

「ねこ?」

 はじめに気がついたのは、一番真ん中の席に座っている女の子だった。

 彼女は退屈な講義をきくふりをしながら携帯電話でメールをしていた。雑誌に載っていたあの服屋さんの話だとか、恋の話だとか、次のお昼に、どこで食べようか、だとか、そんな話をしていた。

 そんな折に、彼女はのら猫を見つけた。

 あくびをして、背筋を伸ばす、のんきな黒猫を、である。

 そして、すぐさまメールをうった。

『ねこが来てるよ!』

 そのメールを受け取ったのは、同じ教室のいちばんうしろに座っている女の子だった。彼女はボーイフレンドと一緒に講義を受けていた。くるりと巻いた髪をボーイフレンドに褒めてもらっている最中だった。当然だけれど、彼女も彼も講義を聞いてはいなかった。

 彼女もすぐにメールを返した。

『え? まじ? ほんと?』

『ほんとほんと、こっちおいで、見えるから』

 真ん中辺りの席の女の子が、うしろを向いて友達に手まねいた。友達にはそれがまねきねこのマネに見えて面白く思えてしまった。

 そこで友達は女の子の席まで歩いて行った。堂々と、背筋をぴんと張って、歩いた。

 そんな姿を教授はしかと目で捉えていたのだけれど、見えないふりをして、教科書を読み上げ続けることにした。

 本当のことを言うと、この教授ははじめから哀れな迷いのら猫も、メールをする女の子も、ボーイフレンドとイチャイチャする女の子も見えていた。でも彼はもう六十を過ぎていたし、学問への情熱も冷めやっていた。

 なので決まりきったことを読み上げて、九十分を耐えることにしたのだ。

 これは彼の信念だったのだ。

 だが、二人の女子学生が教室に入り込んだ猫をなで、ついには嬌声をあげはじめたとき、彼のその信念もぐらぐらと揺るぎ始めていた。



 先ののら猫は、油断をしていた。

 ここは天敵であるひとの巣だ。だが周りには眠ったような若い未熟なひとしかいない。まさか襲撃をうけるなどと夢にも思ってはいなかった。なので、黒い、大きな影が落ちたとき、のら猫は夜が来たのだと思った。

 しかしそれは小さなのら猫の未熟なところで、落ちた影はひとで、しかもそれはふたつもあった。それはもちろん、先ほどの女生徒たちなのである。

「やー、かわいー」

「ねー。君はどこから来たの?」

 撫で付けられたのら猫は、恐怖を感じた。

 このひとが何か鳴いている、その意味がわからなかった。

 だが撫でられたのどもとが心地良い。

 背中をやさしくさすられるのも気持ちが良い。

 哀れな迷いのら猫は、その包まれるような感触につい喉を鳴らしてしまった。

「にゃぁ」

 もう一度、教訓として。

 きじも鳴かずば撃たれまい。

 のら猫の声は、やはりよく人の耳に聞こえるのだった。それはついに、教室の一番後ろのあのボーイフレンドの耳にまで届いてしまうほどにまでなった。

 そして壇上に居る教授にも、のら猫の声が聞こえた。そして教授はやっと、いらいらと、教科書に載っていない言葉を口にしたのだった。

「君たち、席に戻りなさい」

「えー、ねこちゃんいるのにー」

「ほら、ねこ! ねこいるんだよ!」

「いいから。戻りなさい」

 教室におきた喧騒を、すべての学生たちが見ていた。教授がつばを飛ばして女生徒と咎めている、そんな姿をにやにやとしながら眺めていた。

 なにか面白い事でもおきればいい、と彼らは日々思っているからだ。

 一方のら猫は、焦っていた。

(これは、たいへんだ)

(ひとが、みている) 

 撫でられて、声をあげた自分を呪った。

 視線が、集まってきている。教室中のひとの視線が自分に注がれているのをのら猫は全身で感じていた。全身の毛がぶわっと逆立ち、はりねずみのようになる。ひとに、囲まれているのだ。

 のら猫は、すぐさまもと来た風通し口を見やった。しかしその向こうは来た時よりもさらなる暴風雨の様子だった。のら猫は雨に弱い。

 雨に打たれるか、ひとにつかまるか、ふたつにひとつだった。

(ままよっ)

 のら猫は、教室のど真ん中へとかけ出していった。

 二人の女子学生はいきなりののら猫の動きに、つんのめって尻餅をついてしまった。

「えっ!」

「あっ!」

 大きな音を立てて倒れる影は、のら猫に落ちた夜を明けさせた。

 そんな二人を見て、のら猫はふふんと笑い、案外ひとってちょろいな、と思った。そしてそのまま教室を縦横無尽に駆け巡った。

(出口はどこだろう)

 のら猫はひとの居ないところへ行こうとした。

 だが彼の見渡す限り、それらしきものはどこにも無かった。目に映るのは、足の長い机と、それにひっついた椅子だけだった。のら猫は混乱し始めてきた。

(どこへ! どこへ!)

 持てるすべての足を全力で使った。しゃかりきに走った。

 倒れたふたつのひとがおそいかかってくる。それにくっついてさらに多くのひとが彼を捕まえようとしてくる。

「ねこだー!」

「ねこだ!」

「捕まえろっ」

 教室は、混乱のるつぼと化していた。

 この教室に居た二十人ほどの学生がみな、一匹ののら猫を捕まえようと走りまわっていたのだ。ある生徒は正面から、ある生徒は後ろから、のら猫は向かい来る足の間をぬって走りまわる。

「よっしゃ、つかまえた――っ!」

 ある学生がのら猫をつかまえるも、猫はするりとその手を抜けだしてその前に立つ学生の頭に乗っかる。乗っかられた学生は視界が黒猫で覆われるので、いかんしがたなく倒れてしまう。倒れた学生がそのまま寄りかかってくるので、他の学生も将棋倒しになってしまった。

「きゃっ!」

 すると窓ぎわに立っている女子生徒がカーテンの紐を引きちぎってしまい、四方六メートルはあろうかという布ががばさっと学生たちに覆いかぶさってしまう。

 なにやかにやがあって、そこにできあがるのは、ちょっとした風呂敷包みだった。がやがやとうごめく、不可解な団子。そこからは視界をなくした学生たちのうめき声が響く。

 それはそれは酷く滑稽な光景だったのだけれど、それを笑えない人物がひとりいた。

「君……た……ちぃ……」

 憤怒の閻魔がそこにいた。穏便を信条とする教授の姿はどこへやら、教授は顔を熟れた柿みたいに火照らせ、爆ぜた栗のように暴れんばかりの形相で、秋の味覚たっぷりな勢いで、団子の風呂敷包みとなった学生たちを怒鳴りとばさんとしていたのだ。

「この教室から出て行け!!」

 破裂した風船のように、教授は爆発した。

 あんまりに大きな声を出したので、マイクが音を拾えず、野外コンサートのような爆音になってしまった。お中元みたいになっている学生たちはそれで肝をひやした。もぞもぞと風呂敷から這い出る学生たちは、タンスの隅からわくゴキブリのようでもあった。

 教授はそんな学生たちを見下ろして、ああ、こいつらはこんなにか弱いものなのだ、と間違った解釈をしていた。だが、臆病な彼の姿はすでに消え去っていた。

 ――こうして安穏と怠惰を生業とするひとりの老教授があらたな成長を遂げたことを祝おうではないか。堕落した学生に辟易するだけの鬱屈とした日々を飛び出した教授に乾杯! 彼の成長の物語はここで幕を下ろすのであった。

  


 ……のら猫は、どこへいったのであろうか。

 学生たちが教室でなんやかんや騒いでいる間、それに交わらない女学生がひとりいた。彼女はもくもくとスライドに書かれた文章を写し、教科書を熟読しながら早弁をしていた。今日の弁当は唐揚げがたくさん入っていて、待ちきれなかったのだ。たとえ周囲がのら猫を追い回し、将棋倒しになったとしてもそれは変わらなかった。

 彼女が口いっぱいに唐揚げをほおばり、ふと顔を上げると、教室には誰も居なかった。

 いや、壇上には潰れたトマトみたいになった教授がいた。そして周囲にはおおきなもぞもぞと動く謎の布。

 彼女はそれにさしも気を止めず、窓の外を見つめた。カーテンが取り払われた窓からは、鮮やかな日差しを教室に送り込んでいた。

「雨……止んでる」

 きらきらとした雨上がりの日差しが、事態の収束をやわらかく照らしていた。

 のら猫は、旅立っていた。

 雨露に濡れたキャンパス内を一匹で歩いていた。彼は混乱のるつぼからまんまと抜け出し、先の風通し口から抜けたのだった。結局、事態はなにも変わっていなかった。

(どこへいこうかな)

 彼も教授と同じく、ひとに勝ったと思っていた。実際負けていないのだから、仕方もないけれど。

 そして彼は流浪の生活をはじめることとなる。都会ののら猫は厳しい。ひとにつかまれば、そのまま保健所に送られてしまう。彼はそんな修羅の道に行くことを選んだ。

 だが、しかし。

 ぽつ、ぽつとやんだはずの雨音が再び聞こえ始めてくる。乾きつつあるアスファルトが黒く染まろうとしていた。のら猫は冷や汗が出てくるのを感じていた。

 雨がまた、降ろうとしている。

(南無三!)

 彼は再び、大学の構内へ飛び込んでいった。

 学生たちの嬌声が轟く。

 教授の怒声が響き渡る。

 のら猫は唐揚げにありついた。

 ……。

 秋の始まり。

 台風十四、十五、十六号が、東日本に上陸しようとしていた。

 退屈な日々に、騒がしい雨が降る。



おわり


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