一、夜明け前
ひそひそと小声で悪口を言う使用人たち、こちらに一瞥すら与えてくれない母の横顔、冷たくこちらを突き放す兄の言葉、何一つとして関与してこない見かけたこともない父。
誰も大切にしてくれない。誰も自分のことを無視して、自分には味方が一切いない。誰もが自分に背を向けている。
孤独と寂しさを感じているそのうちに自分の足元には闇が広がり、そしてその闇の中へと落ちていく。
誰も自分の悲鳴を聞いていない。いや、聞こえているのに聞こえないふりをしているのか。
左右前後も分からない中で、どんどんと体が闇に飲み込まれて無くなっていくーー。
そこで漸くぱちりと目が覚めた。最悪の目覚めだ。悪夢を見ることは少なくないが、ここまで悪趣味で恐ろしいものは初めて見た気がする。
冷や汗を掻き、はっはっと浅い呼吸をしながらも目線だけを動かしてぐるりと周囲を見渡した。
まだ夜明け前なのだろう薄暗い部屋はベッドへ入る前と変わらず、何の変哲もないように見える。
ふぅとため息をついて、エルイオナは目線を下に落とした。何も無いことが確認できて、一旦安心したのだ。
小さな両手、レースとリボンのついた白いネグリジェ、目にかかる濃紺の長い髪。髪の色は大好きな母との唯一のお揃いだ。
(大丈夫よ)
もう一度ふぅ、と深呼吸をして目を閉じ、ばくばくと早鐘を打つ心臓を落ち着かせる。
両膝を曲げて短い両腕で抱き込み、膝におでこをつける。そして自分に言い聞かせる。
誰から教わったともなく身につけた、自分を守る為の術だった。
(きっと、大丈夫。かあさまもにいさまも、私をみとめてくださるはず。だれもが私をうとんでいるのはわかってるわ。だから、今日もがんばるのよ)
私が頑張れば、良い子になれば、母も兄も、まだ一度も見たことがない父だって、自分のことを愛してくれる筈。
まだ少ししか理解のできない幼稚なエルイオナはそう信じて、ベッドから降りて窓際の机についた。
昨日読み終わらなかった学書を読み切らなければ。そうでないと、また家庭教師に呆れられてしまう。だから勉強は苦手だ。
だが今は恐ろしい悪夢から逃れさせてくれる。それだけでありがたいものだった。
辛い現実から目を逸らせてくれる絵本は、読んでいるとそれだけで出来が良くないだの恥に思うだのと言われてしまうので、数ヶ月前から読むことをやめた。
本当は読みたいのにも関わらず、本棚の隅に追いやらざるを得なかった。もしかしたら知らないうちに使用人が捨てたのかもしれない。
しかしながら、ただでさえ出来の良い兄と比べられるような立場にあるのだから、せめてもの努力をしないといけないことをエルイオナは分かっていた。
今の自分には、あまり好みではない勉強や所作などのマナーを学んでいくことしかできることがない。だから絵本だって読むべきではないのだ、と一人で結論づけてしまった。
絵本だけに限らない。子どもらしく木登りをしたり泥まみれの遊びをしたりするなど、そんなことはやってはいけないものだ、と小さい頭に記憶している。
今まで使用人から散々に怒られてきて、その度にジクジクと嫌味や母への脅しを言われてきた。そしてその度に悲しくなったことも覚えている。
小さなエルイオナの世界は、自分を無視する母と自分に対して冷たく当たってくる兄と、そして自分のことを良く思っていない使用人たちが大部分を占めていた。
母にも兄にもあまり会うことは出来ない。
それでもエルイオナは母と兄のことが好きだった。どんなに雑に扱われようとも、今のエルイオナの数少ない家族なのだ。
父に関しては会ったこともないので、母や兄に対する気持ちよりは幾分か思うことが少ないが、期待する気持ちがないとも言えなかった。
しかし、自分がどうしてこんなに周りから疎まれるのか、幼いエルイオナには見当がつかない。見当がつかなければ、仲直りのために何をすればいいのかも分からなかった。
何も分からない中でどうにか辿り着いた結果が現状だ。
“がんばっていいこにする”、これ以外にエルイオナにできることはなかった。
不遇なエルイオナは文字を追う目を休めるように、ぎゅっと瞬きをした。
窓の外、遠くに見える聳え立つ山脈の稜線はまだオレンジに染まらない。
エルイオナが捨てたものー 絵本




