EP 5
忍び寄る悪意
タロウ国の外れ、少し小高い丘の上に『ひだまり孤児院』はある。
ここは、戦争や事故で親を失った子供たちが暮らす施設だ。
午後三時。
龍魔呂は、店の仕込みの合間を縫って、その丘へ続く坂道を歩いていた。
手には大きな紙袋。中身は、リベラから「余ったから」と押し付けられた高級菓子と、自身で作った大量の唐揚げだ。
(……あいつらは食い盛りだ。これくらいじゃ足りないかもしれんが)
龍魔呂は、決して子供たちの前に姿を現さない。
自分が関われば、また昔のように子供が人質に取られるかもしれない――その恐怖が、彼を「足長おじさん」という匿名に留めさせていた。
今日も門の前に荷物を置いて、ベルを鳴らして立ち去るつもりだった。
だが。
風に乗って漂ってきたのは、唐揚げの匂いではなく、鼻を刺す焦げ臭い匂いだった。
「……火事か?」
龍魔呂の表情が変わる。
彼は紙袋を抱えたまま、地面を蹴った。闘気を使わずとも、その脚力は常人を遥かに凌駕する。
数秒で坂を駆け上がり、孤児院の門前に到達した彼が見たものは――。
無惨に破壊された遊具。
燻る花壇。
そして、庭を占拠する数人の男たちと、彼らが使役するおぞましい魔獣の姿だった。
「ヒャハハハ! 逃げろ逃げろぉ! スキルを持たぬ『選別落ち』のガキどもが!」
黒いローブを纏った男たち――犯罪者集団『ナンバーズ』の下部組織、違法召喚士たちだ。
彼らの足元には、体長二メートルはある『ポイズン・スパイダー』や、牙を剥き出しにした『オーク』が侍っている。
「やめて! この子たちに手を出さないで!」
シスターが必死に子供たちを背に庇い、立ちはだかっていた。
だが、子供たちは恐怖で顔を歪め、震えている。
「うるせぇアマだ。……おい、蜘蛛。その女を食っちまえ」
リーダー格の男が杖を振るう。
巨大な蜘蛛が、鎌のような脚を振り上げ、シスターへ襲いかかろうとした。
「――失せろ」
ドォォォン!!
蜘蛛の横っ腹に、龍魔呂が投げた「紙袋(唐揚げ入り)」が直撃した。
ただの紙袋だが、闘気を纏ったそれは鉄球のような威力を持ち、蜘蛛を数メートル吹き飛ばして転がらせる。
中から唐揚げが散乱した。
「あぁ!? なんだテメェ!」
「……俺の唐揚げを粗末にしやがって。万死に値するぞ」
龍魔呂はゆらりと歩み寄る。
その全身から立ち上る殺気は、召喚された魔獣たちが本能的に後ずさりするほど濃密だった。
召喚士たちは怯みながらも、ニヤリと笑う。
「へぇ、強そうなのが釣れたじゃねぇか。こいつも『選別』の対象か?」
「殺せ! 俺たちの魔獣の餌食にしてやれ!」
男たちが一斉に魔獣をけしかけようとした、その時だった。
「うわぁぁぁぁぁん!! こわいよぉぉぉ!!」
シスターの背後から、幼い子供の泣き声が響いた。
恐怖と絶望に染まった、悲痛な叫び声。
ピタリ。
龍魔呂の足が止まった。
――視界が明滅する。
目の前の光景が、セピア色の記憶と重なった。
『兄ちゃん、助けて……! 痛いよ、怖いよぉ……!』
十年前。地下格闘技場。
人質に取られ、見せしめに暴行を受ける弟・ユウの泣き声。
無力だった自分。守れなかった約束。冷たくなっていく弟の手。
「あ……ぅ……」
龍魔呂の顔から血の気が引いた。
呼吸が過呼吸のように荒くなり、心臓が早鐘を打つ。
圧倒的強者だったはずの彼の膝が、ガクリと折れた。
「は……?」
召喚士たちは目を丸くした。
殺意の塊のような男が、子供の泣き声を聞いた途端、地面に膝をつき、ガタガタと震え出したのだから。
「ユウ……すまない……俺が……俺が弱いから……」
龍魔呂は頭を抱え、うずくまる。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)。
最強の鬼神が抱える、唯一にして最大の欠陥。子供の涙は、彼を無力な少年に引き戻す呪いだった。
「……なんだこいつ。見掛け倒しかよ!」
「ギャハハハ! オイ見ろよ、ビビって震えてやがるぜ!」
召喚士たちは嘲笑った。
勝てる。こいつはただの雑魚だ。
「おい、蜘蛛! まずはその震えてるマヌケから始末しろ! その後にガキどもをゆっくり食わせてやる!」
リーダーの号令で、体勢を立て直したポイズン・スパイダーが、震える龍魔呂へ迫る。
毒液の滴る牙が、無防備な首筋へと振り下ろされた。
「龍魔呂さん! 逃げて!!」
シスターの悲鳴が響く。
子供たちの泣き声が、さらに大きくなる。
――泣き声。
絶望の音。
だが。
その音が「極限」を超えた時。
龍魔呂の中で、何かのスイッチが切り替わった。
ピタリ。
震えが止まる。
振り下ろされた蜘蛛の牙が、龍魔呂の首に届く寸前。
彼は顔を上げることなく、ただ無造作に左手を振り上げた。
パァンッ!!
乾いた破裂音。
巨大なポイズン・スパイダーの頭部が、内側から爆ぜたように消し飛んだ。
肉片ではなく、黒い魔力の霧となって霧散していく。
「……え?」
召喚士たちの笑い声が凍りついた。
頭を失った巨大な蜘蛛の胴体が、ドサリと崩れ落ちる。
龍魔呂はゆっくりと立ち上がった。
その瞳には、先ほどまでの怯えも、悲しみもない。
あるのは、全ての生命活動を停止させるような、底なしの「虚無」。
「……笑ったな?」
地獄の底から響くような声。
彼は懐から角砂糖を取り出すと、包装紙ごと口に放り込み、ガリリと噛み砕いた。
「子供を泣かせて……俺の弟を笑って……楽しそうだな、貴様ら」
ブワッ!!
龍魔呂の全身から、赤黒い闘気が噴出した。
それは炎のように揺らめき、周囲の空間を歪ませる。
召喚されていたオークたちが、本能的な恐怖で悲鳴を上げて逃げ出そうとする。
「逃がすかよ」
龍魔呂が一歩踏み出す。
ただそれだけで、地面が蜘蛛の巣状にひび割れた。
「『掃除』の時間だ。……泣いて詫びても、肉片一つ残さんぞ」
鬼神が、覚醒した。
孤児院の丘に、処刑人の審判が下されようとしていた。




