婚約破棄された上流貴族の“悪役令嬢”と蔑まれた私が、隣国皇太子の寵姫となり、復讐も地位も愛もすべて手に入れて次期王妃の座を射止めた件について
リシェル・アーデルハイトは、生まれながらにして“持ちすぎて”いた。
侯爵家の次女。金糸のような髪に翡翠色の瞳、育ちの良さが滲み出る立ち居振る舞い。誰が見ても“理想の令嬢”であったが、彼女の存在は家の中では常に“邪魔”だった。
「リシェル、あなたは余計な存在なの」
母の冷たい声。無表情な父。姉・カトリーヌは常に完璧で、優秀で、美しかった。……いや、そう扱われていただけだ。
リシェルが褒められると、姉は部屋で髪を引きちぎり、顔を平手で叩いた。何か言えば、「下賤な女」と蔑まれた。
彼女が十歳のとき、初めて婚約が決まった。相手は王太子アレクシス。だがそれは、家の体面を保つための“道具”に過ぎなかった。
そして、十七歳の春。王宮の晩餐会に招かれた彼女に、突きつけられたのは――
「本日をもって、君との婚約を破棄する」
華やかな場で、静かに、冷たく、王太子アレクシスの声が響いた。
「理由は……リシェルには王妃としての資質がないからだ」
すぐ隣には姉・カトリーヌの姿があった。王太子の腕にすがり、恥じらいながら微笑んでいた。
(ああ、そういうこと)
何も言わず、リシェルは立ち去った。貴族の娘としてはあり得ない行動だったが、もうどうでもよかった。
──その夜。屋敷に戻った彼女は、自室の窓から逃げ出した。
数枚の金貨と簡素な旅装。家の者は誰も気づかず、いや、気づいても追いはしなかった。
リシェルが辿り着いたのは、隣国・ヴァルディア王国。
山を越え、国境を越え、倒れそうになったところを助けてくれたのは、一人の男だった。
銀髪に蒼眼、気品と威厳を纏いながらも、柔らかな物腰の青年。
「──君、名前は?」
「……関係ありません。すぐに去りますので」
「それは困る。僕が一目惚れした相手を、簡単に見逃すわけにはいかない」
軽く微笑みながら告げたその男こそ、ヴァルディア王国皇太子、ユリウス・アーヴィングだった。
最初は冗談だと思った。だが、彼は本気だった。
身元も不明、痩せ細った令嬢を丁重に保護し、自身の離宮に招いた。贅沢な衣服を与え、食事を整え、執拗なまでに彼女を労わった。
「……なぜそこまで?」
「君が誰に何をされたのか知らない。だが、君の瞳は、誰かに殺されかけた人間のものだ」
リシェルは言葉を失った。
自分のことを、こんなにも真剣に見てくれる人間が、この世に存在するのか──
それでも、彼女は拒み続けた。
「……私は、あなたにふさわしくありません。家族に捨てられ、婚約破棄され、愛された記憶もありません。そんな人間は、ただの汚れです」
「だったら、その汚れは僕がすべて洗い流してやる」
ユリウスの言葉は、あまりにも真っ直ぐで、熱を帯びていた。
だが、リシェルはそれを受け入れることができなかった。過去が重すぎたのだ。
ユリウスはそれ以上追わなかった。だが代わりに、静かに動き始めた。
リシェルの過去を調べ、アーデルハイト侯爵家の闇を暴いた。
姉のカトリーヌが侍女に暴力を振るっていた証言。母が領民を虐げ、父が税を私物化していた記録。
さらには王太子アレクシスとの姦通を裏付ける密会記録までも。
──それらは、数週間後にすべて公表された。
王家による正式な調査が入り、アーデルハイト家は爵位剥奪。父は国外追放、母と姉は幽閉。王太子アレクシスは婚約者の裏切りと不正の責任を問われ、王位継承権を剥奪された。
誰よりも静かに、冷酷に、ユリウスはリシェルの「敵」を潰したのだ。
「……復讐、してくれたんですね」
「君が手を汚す必要なんてない。僕が全部、やってあげる」
そう言って微笑んだユリウスに、リシェルは初めて、涙を見せた。
──このとき、彼女の心に小さな変化が生まれ始めていた。
ーーー
復讐が果たされても、リシェルの心はすぐには晴れなかった。
アーデルハイト侯爵家の断罪は、隣国セランディアでも大きな話題となった。あれほどの上流貴族が没落するなど、前代未聞だったからだ。
けれど、その影に隠れるようにして──誰もが、リシェルの名を口にするようになっていた。
「侯爵令嬢だったあの子、婚約破棄されたらしいわよ」
「王太子も乗り換えたそうね。今は姉とくっついたとか」
「でも、あの子……今じゃヴァルディアの皇太子の庇護下にいるとか」
──風向きは変わった。
けれど、それは「自分の力」ではない。
ユリウスが、すべてを与えてくれているだけ。だからリシェルは、ずっと思っていた。
(私は、ただ守られているだけ。弱いまま……)
それでも、時間は確実に彼女を変えていった。
ユリウスの離宮で過ごす日々。誰も怒鳴らず、誰も叩かず、優しい使用人たちが微笑みを向けてくれる。
生まれて初めて、彼女は「人として扱われる」日常を知った。
そして──ある日。
「……陛下が、体調を崩されました」
ヴァルディア王国国王が病床に伏したという報せが届く。ユリウスはそのまま急遽、王宮へ戻ることになった。
「お前は、この離宮にいてもいい。……だが、僕としては、そろそろ決断してほしい」
「決断……ですか?」
「お前の人生を、誰のものにするのか。──過去に縛られたまま、ここで眠るのか。あるいは、僕の隣に立つのか」
真っ直ぐな目で見つめられて、リシェルは震えた。
「……私は」
自分が、本当に望むものは何か。それを知るのが、怖かった。
けれど──
(ユリウス様の隣に、立ちたい。誰かに与えられるだけの人生じゃなくて、自分の足で、もう一度歩きたい)
──リシェルは決断した。
◇
王都への旅路。馬車の中、ユリウスの瞳はずっと彼女を見つめていた。
「怖くはないか?」
「少し。でも、もう逃げません」
城に到着すると、そこは既に「歓迎の空気」に包まれていた。
というのも──
「セランディアの元王太子が、国外亡命を願い出たそうです」
「アーデルハイト家の屋敷は民衆によって焼かれました」
「貴族の腐敗を断じたヴァルディア皇太子のご意志に、民の声が追い風となっております」
──そう。リシェルは、民の中ではすでに「被害者」であり、「正義の象徴」だったのだ。
そして数日後、王宮で正式な式典が開かれた。
「リシェル・アーデルハイトよ」
王の代わりに玉座に立つユリウスが、荘厳に告げる。
「我が婚約者として、ヴァルディア王家の血統に連なる者とする」
金色のドレスに身を包んだリシェルは、一瞬、あの晩餐会を思い出した。
かつて婚約破棄を受け、侮辱されたあの場面。
でも今、彼女は違う。
まっすぐ前を向き、ユリウスに向かって歩き出した。
王冠の宝石が輝く。
人々の喝采が響く。
ユリウスがその手を取り、そっと唇を寄せる。
「遅くなったけど、これが正式なプロポーズだ」
「……それは、最初に言ってください」
リシェルは、少しだけ笑った。
かつて“悪役令嬢”と呼ばれた令嬢は、今や王国の未来を担う次期王妃となったのだ。
◇
──それから数日後。
彼女はふと、あの過去の屋敷を思い出した。
父と母の不在。姉の怒号。誰も愛してくれなかった部屋。
けれど、それも今ではただの“背景”にすぎない。
今の彼女には、愛する人がいて、自分の力で立つ足場がある。
かつての婚約者アレクシスと姉カトリーヌは、今や国外追放となり、どこかの国で細々と生きているという噂だけが流れていた。
「……ユリウス様」
「なんだい?」
「私、ようやく……自分の人生が、自分のものになった気がします」
「それはつまり──僕と結婚してくれるということかな?」
「──はい。ふさわしいかは分かりませんが、あなたの隣を歩いてみたい」
彼女は、もう“悪役令嬢”ではない。
運命に抗い、涙を呑み、這い上がり、愛を得た「誇り高き王妃候補」だ。
──そしてその物語は、ここからようやく始まるのだった。