あとがき:名前を呼ぶよ
リビングの棚の奥に、小さなノートがある。
表紙は少し色あせていて、角が丸くなっていた。
何年も誰かの手の中で、大事にされてきた証のようだった。
ある日、それを見つけた小さな女の子が、ソファにちょこんと座ってページをめくっていた。
「ねえ、これなに?」
彼はキッチンから振り返って、ページを覗き込む。
そこには、たった一行だけ、こう書かれていた。
「田中さんは美人だ」
彼は静かに笑って、娘の隣に腰を下ろした。
「それはね、何でも思い出せる魔法のノートなんだよ」
「ほんとに?」
「うん。忘れちゃいけないことを、ちゃんと覚えておける。
名前とか、声とか、大事だった気持ちとか……全部、そこに書いてある」
女の子は目をまるくして、そのノートをぎゅっと抱きしめた。
彼は少し黙って、それから娘の名前を呼んだ。
「……スミレ、君も書いてごらん」
スミレはうれしそうに頷いて、ペンを握った。
ノートの次のページに、少しだけ震える文字で、自分の名前をゆっくりと書いた。
そのあと、そっと彼の方を見上げる。
「これで、もう忘れない?」
彼は、やさしく笑った。
「うん。誰も、もう忘れないよ」
そのページの隣には、
**“シオン”**という名前が、きれいな字で残っていた。
ページが風にめくられそうになったとき、
スミレがそっと手を添えて押さえた。
名前を呼ぶことは、誰かを想うこと。
想うことは、忘れないってこと。
その夜、ノートはまた元の場所に戻された。
そして、ページの中には――
今、ここにいる人たちの名前が、
たしかに、やさしく並んでいた。