第6話:記憶の境界線、ふたりで越える
「今日は、どこか歩きませんか?」
待ち合わせの駅で、私は彼にそう言った。
店ではなく、場所でもなく、ただ歩きたかった。
伝えたいことがあった。
でも、言葉にするには、風が欲しかった。
並んで歩く。
会話は少なかったけど、それがちょうどよかった。
私の足取りは少しだけ重かった。
言いたいことが胸の中で、くるくると回っていた。
やがて、公園の小さなベンチに腰を下ろした。
私は、そっと息を吸い込んで、言った。
「……私、怖いんです」
「何が?」
「あなたの中から、私が消えてしまうことが」
彼は、黙って私の顔を見つめた。
「あなたが私を覚えていてくれたこと、
あのとき、私の名前を呼んでくれたこと、
あれが、私の人生で初めてだったんです。
“存在していい”って思えたのは」
私は、涙をこらえながら続けた。
「でも、もしあなたまで、私を忘れてしまったら……
私は、もうどこにもいられない。
誰の中にも、残れないんです」
彼はしばらく黙っていた。
それから、そっと私の手を取った。
「じゃあ、俺が全部、覚えておきます」
「……え?」
「何があっても、また思い出すから。
何度でも、名前を呼ぶよ。
忘れてしまっても、また好きになればいい。
だから、君はここにいていい」
それは約束でも誓いでもなくて、
ただの、静かな決意だった。
でも、その言葉のひとつひとつが、
私の中の何かを、そっと包み込んでくれた。
私は、彼の手を握り返した。
風が吹いていた。
少し冷たかったけれど、心はとてもあたたかかった。
私は、ちゃんとこの世界にいる。
誰かの記憶の中に、存在している。
それだけで、十分だった。