第3話:わたしは、シオンです
彼と会うのは、仕事の帰りだった。
駅前の居酒屋。予約もいらないような、ごく普通の店。
待ち合わせ場所に現れた彼は、少し緊張していた。
でも、それは私も同じだった。
乾いたグラスと、取り留めのない会話。
それだけなのに、心がふわふわと浮いていく。
彼は、ちゃんと私を見ていた。
目を逸らさず、思い出を辿るように話す。
「……あのとき、エレベーターで見かけて、すごく印象に残って。
その後、何度か話そうと思ったけど、きっかけがなかったんです」
私は笑った。
そのときのことを、私はちゃんと覚えていた。
「私の名前、どうして覚えてくれてたんですか?」
そう尋ねると、彼は少しだけ目を細めた。
「わからないけど、消えなかったんです。
周りが忘れてるってわかっても、自分の中には残ってた。
だから……忘れたくなかったんだと思います」
私はその言葉を、深く、深く受け取った。
そして、もうひとつの言葉を、自分の口から差し出した。
「……シオン、です。
田中シオン。紫苑の花って、知ってますか?」
彼は一瞬驚いた顔をして、それから優しく笑った。
「“君を忘れない”、ですよね」
私は、こくりと頷いた。
「誰にも覚えてもらえない私の名前が、“忘れない”って意味なんて、皮肉ですよね」
「でも俺は、忘れませんよ。
たぶん、これから何度でも思い出します。
思い出せなくなっても、また好きになれば、また思い出すから」
それは、誓いではなかった。
でも、確かに私をここに存在させる力があった。
その夜、家に帰ってから、私は名前を何度も口に出してみた。
「シオン」
それは、ようやく“誰かに届いた”名前だった。