第2話:名前を呼ばれる幸福
「田中さん、ですよね?」
その言葉が、頭の中で何度も反響していた。
名前を呼ばれる――
それは、私にとって“特別なこと”だった。
同僚に名前を呼ばれることなんて、ほとんどない。
初対面の人は名札を見るし、
慣れた人は話すことさえ忘れていく。
「ねえ」「あの」「すみません」
そうやって、存在をぼかされていく。
でも彼は、違った。
名札を見たわけじゃない。
誰かに聞いたわけでもない。
“覚えていたから”名前を呼んだ。
それが、どれほど私の心を動かしたか、
彼はたぶん、知らない。
次の日も、支店の空気は変わらなかった。
いつも通りの業務、いつも通りの沈黙。
誰の記憶にも、私は存在しない。
でも、私は心の奥で、小さな灯がともったような感覚がしていた。
「誰かに思い出してもらえる」
それが、こんなにも暖かいなんて。
午後、彼からメールが届いた。
支店の代表アドレスを通じてだったけど、明らかに個人的な文面だった。
よかったら、今度ごはんでもどうですか?
本社に戻る前に、少しだけ話がしたいです。
私はすぐに返信できなかった。
心の準備が、まるでできていなかった。
でも、夜になって、震える手でゆっくりと打ち込んだ。
……はい。ぜひ。
それだけの返事に、どれだけの時間がかかっただろう。
だけど、それは確かな一歩だった。
名前を呼ばれること。
ちゃんと覚えてもらえること。
そのすべてが、私にとっての“幸福”そのものだった。