第1話:支店で出会う、もう一度
エレベーターの扉が開いたとき、
その人は、ほんの少しだけ立ち止まった。
彼の目が、まっすぐ私を捉えた。
私は、何も言わずに軽く会釈しただけだったけれど、
その一瞬の視線に、覚えている人間の目を感じた。
こんなこと、ほとんど起きない。
私は「忘れられていく人間」だから。
自己紹介をしても、数日後には「どちら様でしたっけ」と言われる。
お礼を言っても、笑顔を見せても、相手の記憶から私はこぼれ落ちていく。
でも――
私を好きになった人だけは、私のことを覚えている。
彼の目は、その例外のひとつだった。
私は今、ある地方都市の支店で働いている。
異動希望を出したわけじゃない。
ある日、辞令が出た。
誰にとっても、私が“いなかった”ことになっていたからだろう。
本社では、もう誰も私を覚えていない。
席も、メールアドレスも、社内チャットの履歴も、全部消えていた。
でも――
彼だけは違った。
出張でやってきた彼は、支店の廊下ですれ違った私に目を留め、
名前を呼ぼうとして、言葉を飲み込んだ。
その一瞬で、私は確信した。
この人は、私のことを忘れていない。
忘れられた世界の中で、
自分という存在を知っている誰かがいる――
それだけで、呼吸が少し楽になる気がした。
その日、彼が会議を終えて帰ろうとしたとき。
私はほんの少しだけ勇気を出して、挨拶のように立ち上がった。
「お疲れさまでした」
彼は立ち止まり、そして言った。
「……田中さん、ですよね?」
私の心が、一瞬止まった。
声が震えそうになったけど、必死で笑った。
「……はい」
たった、それだけのやりとり。
でもそれは、私にとって――
この世界にもう一度“存在した”瞬間だった。