僕がよんだことのない漱石はたしかにあった
「いつ帰ってこられますか」とSNSのメッセージの最後にそれが書いてあった。めったに母はメッセージを送ってこない。
これまでに起きたこと。
1.祖父が亡くなった。お葬式には帰るように母から言われていた。でも結局は帰ることはしなかった。
2.お葬式のときは大学の試験期間だった。実家はそんなに裕福ではないので往復の交通費もバカにはならない。それも理由。
3.祖父が苦手だった。幼稚園に通っていたころにはすでに父はいなかった。男の親といえば祖父だった。祖父は口より先に頭や尻をたたくものだから近づくのがいやだった。
そういうわけで、帰るのが余計におっくうになっていた。
「お葬式には出られなかったでしょ、お盆には帰ってきなさい」と電話があった。
最後には、
「大学のお金はおじいちゃんが出してくれたんだから、手を合わせにきなさい」と言われ、あきらめるしかなかった。
春の彼岸が過ぎ、夏休みも後半になって帰ることにした。
カバンにスマホの充電器、歯ブラシ、着替えを詰める。足りないものがあっても実家にあるだろうと、荷物は軽くすませた。古本屋で買ってまだ読んでいなかった文庫本をカバンに放り込んで、出かけることにした。
高速バスに乗る。交通費をなるべく安く抑えたかったのが一番だが、夜に乗れば朝には目的地についているから寝ていればいい。
席に座る。文庫本を開く。走りだしてから消灯するまでのあいだ読んでいた。でもあまりページは進まなかった。
消灯の時間。カーテンが閉まった車内が急に真っ暗。目を閉じろ、そして寝ろ、と言われている気分。無理にでも寝る。
――眠りからさめる。時計を見ても数時間しか経っていない。
トイレ休憩でバスを降りると完全に目がさめてもう寝られなくなる。スマホで音楽やpodcast聴いて時間を過ごす。
それも飽きてきたころ窓の外が明るくなる。窓を覗くように外を見る。
遠くの深く蒼ざめた空の色がすこしずつ薄れる。変化をぼーっと眺める。空が「明るい」から「まぶしい」になる。
これで本が読める。イヤホンをカバンにしまう。代わりに本を取りだして続きからだらだら読む。
バスが停まった。乗客が立ち上がり列をなす。ぞろぞろと降りる。背伸びをして自分も降りる。長く座ってたから脚が変な感じだ。軽く屈伸をする。
お昼にはまだ早いけど、おなかがすいたから立ち食いの店へ。朝から気温が上がっている。熱いものを食べたら汗をかく。それはいやだと冷たいものにしようかと迷う。食べたときのことを想像したらやっぱり冷たい麺やつゆより、温かいものがうまい、といつものごぼう天うどんに決める。
すぐに食べ終わる。店を出て水を買い今度は電車に乗る。そのまえに母にメッセージ。
僕:いまバスついた 家?
母:お母さんはこれから出かけて(意味不明の絵文字)おじいちゃんの家に行きます。(意味不明の絵文字)ケイくん、直接こられますか。(意味不明の絵文字)
僕:おけ
母からはすぐに返事がきた。実家へは行かずに祖父の家がある町へ向かう。
夏休みだからなのか昼だからなのか電車はすいていた。
車窓から見えていた景色はビルばかりから、すぐひらけた風景に変わる。それも変わりこんどは海。海岸線を走る。
本を読み終えたころに目的の駅につく。いいタイミング。
久しぶりの町。まえに来たときとなにも変わっていない。数年で変わるわけはない。意地になって間違い探し。答えは駅前にあったチェーン店のケーキ屋が無くなりシュークリームの専門店に変わっていた。
駅から数分歩いただけで辺り一面が緑色に変わる。ずっと先まで続く緑が地平線のところで空の青とぶつかる。ぶつかった横線へ垂直に交差する道をひたすら歩く。
体のあちこちから汗が噴きだす。じりじりとお日さまが僕を焼きにくる。暑い、ではない。熱い。トースターに入ったパンの気持ちがよくわかる。
祖父の家が見えてきた。がまだ遠い。歩く歩く。
祖父の家の庭先に黄色のド派手な母の車が駐まっていた。玄関を開ける。もちろん鍵などかかっていない。ずんずん家のなかに入る。直接、キッチンへ。
「あら、ケイちゃん、いらっしゃい」と声に振り向く。
「おばあちゃん、こんにちは、のどか湧いた、母さんは?」
「冷蔵庫に、麦茶が冷えているからお飲みなさい、お昼のごはんはお食べになったの?」
「食べたよ、ここへくる途中に、朝昼兼ねて」
「そうなの、いまね、整理していたところなの、ゴミばっかりで大変で、――」
祖母はずっと話し続けている。僕は「へえ」と適当に相づちをうちながらグラスに氷を入れて「へえ」と言いながら麦茶を注いだ。
祖母は話しはじめるとこちらの話しかけには応えずにずっと話し続ける。これは祖母だけではない。母もそうなのだからこれがこの家のルール。
この家ではそんな女ばかりの会話を祖父は腕を組み、目をつぶり、黙って聞いていた。
居間に向かうとそこは謎の国、骨董市のバザールだった。床には皿や器が適当に重ね置かれている。なにかのルールがあって並べられているようには見えない。
そこに母は店主のように座り、他に三人の女たちが客のように商品を囲むように対して座っていた。女たちの手は数時間まえには完全に停止し、笑いとおしゃべりがメインになったと考えられた。
民芸品の皿や器の他には祖父の着ていたスーツや着物。それが銀の月と擦れて退色した、汚れかススキか区別できないものが描かれた屏風にハンガーで掛けてあった。
「あなたも手伝って」と僕と目があった母はそう言って手招きした。
母の声で三人の女性たちもこちらを振り向いた。一人は伯母。横に座っているブロンドヘアの女と小さな子は誰?
「ケイ、ここ座って」とブロンドヘアの女が僕に笑顔を見せてぽんぽんと手で床をたたいた。
「ああ、おねえちゃん……」
「ケイ、久しぶりー、大きくなったね」
「おねえちゃんも」
「ぽっちゃりしたってこと?」
「すこしも言ってない」
「言ってる、ひどい、ひどい」
ひどいが口癖のおねえちゃん。こまやかな肉がついたが変わらない。おねえちゃんは伯母の娘で僕のたしか八歳年上だった。小さいころからおねえちゃんと呼んでいた。
「おねえちゃん、この小さい子は?」
「麗薙、娘よ、――いくつですか?」と女の子に話しかけると小さくかわいい指を三つ立てた。
「えー! 娘、いつ結婚したの」
「三年前」
「で、離婚していま戻ってきてるのよ」
と伯母さん。
「すんません」とおねえちゃん。
おねえちゃんはまだ僕が小学校に上がるころまでよく遊んでくれた。いわば町のガキ大将的存在だった。子どもたちからはボスと呼ばれていた。僕はボスの弟分という特権を得て、近所のおにいちゃんたちからは優しくされた。
おねえちゃんは高校を卒業すると、なにか目的があるようなないような感じで町を出た。
大阪へ行ったと聞いていた。いろいろ転々としてるとも聞いていた。僕のおねえちゃん情報はそれっきりアップデートされずじまいだった。
小さなころはおねえちゃんはおねえちゃんだった。つまりすごく年上でしっかりして頼れる大人に見えた。足が速くスポーツはなんでもできた。昔から運動会のかけっこでは一番をとっていた気がする。
そしていまでは結婚して子どもができて離婚している。いい感じにポンコツな風采がただよった。
僕のおねえちゃん情報は最新のものへと更新されました。
「ケイとの最後って、まだ高校のときだった?」
「僕が小学校の五、六年のころかな、大阪へ行くって言ってた」
「そうそう、だけど最初は神戸に行って、――」と語りはじめる。
次から次へと話題は分岐する。それが連綿と続いていく。こうなると終わらない。
「これ、ケイちゃんが買ってきてくれたの、皆さんで頂きましょう」と祖母が僕が先ほど渡した東京土産を持ってきた。
「また変わったもの買って……どこで買ってきたの」と母さん。
「バスタで買った」
「あら、おいしそう、ごはん食べたのに食べちゃいそう」と伯母さん。
「これ、食べたかったんだ、東京にいたら東京土産なんて買って食べないし」
皆がお菓子に手を伸ばす。おねえちゃんの娘がお菓子を僕に手渡してくれた。かわいい。
「ありがとう」
受け取る。包装してあるフィルムをはがす。
おねえちゃんの娘が手をパーにして僕にちょうだいをする。ああ、包みをはがしたのをよこせ、ってことね。おねえちゃんの娘にお菓子を渡したら、もぎゅもぎゅと食べた。
バンバンと僕の肩をおねえちゃんがたたく。
「ねえ、わたしの話聞いてる?」
「聞いてるよ」と聞いていなかったので話題を変える。
「ほんとうにわからなかった、髪の色変わってたし」
「もうここずっとこの髪色だよ、それより変わったの、体のスタイルかな? アハハハ」
「変わってないよ」
「ひどい、ひどい」
正解はどう答えればよかったの? おねえちゃん。
お菓子を食べながら皿や器をお金になりそうなもの、ならなさそうなものに分ける。みんなの主観が入るのでなかなか終わらず。
「おじいさんったら怒られるってわかっているから、こっそりとお買になって……」
「ケイちゃん、これお金になるのかしら?」
「ケイ、お金になったら、わたし欲しいものがあるの」
「ケイくん、おじいちゃんの書斎に古本がたくさんあるけど、あなた本、詳しいでしょ、見て」
「ケイちゃん、あと葛籠が奥にあるのよ、なかのものを見てちょうだい」
「ああ、見るよ」
「ケイ、わたしの話聞いている?」
母たちはおしゃべりに夢中で、片付けは終わりそうにない。母は大きなため息をつき、それを自分で笑い、手をパンと鳴らして「お夕食の用意」と誰かに言うのでもなくそして立ち上がった。
母はあとのことを僕にまかせて、祖母と伯母を車に乗せて買い物に出かけてしまった。
僕は母たちを見送ると、祖父が書斎として使っていた部屋に入った。部屋は煙草とカビが合わさったような古本屋に似た匂いがした。
葛籠は奥の壁に、ぴたりとつけて置かれていた。蓋の上には白くほこりのたまった平積みの本の山。
本を床に動かす。軽いスクワット運動とエアコンのない部屋ではすぐに汗がでる。蓋は壁に立てかける。なかには木でできた箱がいくつか入っていた。
「お宝だわ!」
「まだ早いよ、おねえちゃん」
「ケイ、覚えている、おじいちゃんが言ってたお宝のこと」
「どんなこと?」
「『いいか、お金に困ったらときにはこれを売れ、それまではなにがあって手放すんぢゃない』って」
「なにその似てないモノマネシリーズ、聞いたことないなあ、あまりおじいちゃんと話した覚えないし」
「えー、そう? おじいちゃんとても優しかったよ、頼むとなんでも買ってくれたし」
「そうなの? 僕そんなことなかったよ」
おねえちゃんの娘が葛籠のなかを覗く。「あぶない、怪我するよ」と抱きかかえる。キャッキャ言って喜ぶ娘。
一つ一つ取りだして床に並べる。木箱にはそれぞれ筆文字で、宗達、応挙などと書いてある。
「本物かしら、売ったらいくらかしら、百万円くらいになる?」
「断言できる、こんな家に応挙があるわけがない、もし本物なら国宝だよ、その金額に丸が一個ついてもすまない」
「えー、国宝、どうしよう、まずスマホを新しいのに買い替えて……」
おねえちゃんは早くも胸勘定をはじめた。とにかくなかを改める。大きな箱を手にとる。
「それすごいやつ?」
「さあ、知らない」
箱には「土牛」と書かれていた。開ける。
額に入った絵だった。太くどっしりと大地に立つ幹には枝いっぱいにピンク色の花が咲いている。たぶん桜だろう、そんな絵だった。
僕たち二人はしばらくそれを眺めた。おねえちゃんの娘もしゃがんで眺める真似をしていた。
「ヘタ、ヘタだわ、それにこれ、桜よ、土はワンチャンあるけどウシじゃない」
「厳しいなあ」
「ケイ、本物かしら?」
「ぜったい、ニセモノ」
他の木箱も開けた。細長い木箱のなかには軸が入っていた。
長いあいだ仕舞ってあったからなのか広げて伸ばそうとしたら強い折り目がついていて、それでも無理に伸ばそうとすると、ぐにゃぐにゃについた折り目のついた紙は触れるだけで裂けそうだった。
「これもヘタね、そこが本物っぽい、マジヘタ」
「おじいちゃんディスってる?」
「これ、鑑定番組に出したらすごいことにならないかしら」
「おねえちゃんがテレビに出るのはいいけど僕はいやだよ、それ出すならおねえちゃん一人で出て恥かいて」
「ひどい、ひどい」
僕たちは本物風贋作芸術作品をじゅうぶん鑑賞したので、居間のガラクタ置き場へすべてを運んだ。
運び終わるとおねえちゃんは「あつーい」と言って両手を伸ばして寝転がった。娘も真似して寝た。大きな大の字の横に小さな大の字ができた。かわいい。
一人で書斎に戻り、葛籠のなかのものはすべて出して空になったと確認する。
まだ封筒が底に残っていたのに気がついた。手にとると茶色いシミがあり、それがいくらかときが経ったように見えた。裏と表を見たが、なにも書かれていない。
封筒を覗くと古い紙のカビた匂いがする。なかには数十枚の紙が入っていた。
出してみると原稿用紙だった。小学校のころに授業でいやいや作文を書かされたときのあの緑色の枠線が引かれたやつだった。
達筆でかなりの肉太の書体。万年筆だろうかインクがぽたぽたと落ちて手でこすったような跡がある。
一枚目には『こころ』と書いてあった。その下に二マス開けて『続篇』と書いてあった。
それを見てゾクッとした。
完全に忘れていた記憶が、祖父から聞かされた話の断片が徐々によみがえってきた。
古書や古美術が好きで店を巡るのが趣味だった祖父は、きっと店から見ても良いお客さんだったはずだ。
これは自分の勘違いな目利きで皿や器や絵画をコレクションをしていたときに手に入れたものの一つだろう。
明治から大正時代にかけて活躍した作家がいた。彼は多くの作品を残したが、そのなかにこのような物語がある。
主人公は海水浴に出かける。浜辺で見かけた男を先生と呼び、慕うようになった。家にまでおしかけて親しくなっていった。主人公が帰省していたある日、先生から手紙が届く。それは先生から手紙という形で送られた遺書だった。先生が自殺したことを確信した主人公は、その事実を確かめるべく汽車に乗った。そこでその物語は終わる。
しかし、その物語には続きがあった!
事情は知らないが原稿はボツになって行方不明になった。それが廻り廻って祖父のところへやってきた。
もしこれが本物なら誰にも知られていない新作ということになる。そんな話を自慢げに話していた祖父の顔が、頭のなかで再生された。
僕がまだ幼いころその話を聞いた。読んでみたいと思っていた。
これは鍵だ。これは僕がこころの奥底にアーカイブしてしまった祖父の古い記録を解凍するための鍵だったのだ。興奮してなにを言っているのかはっきりしないが、思い出したことは確かだ。
祖父はこれを読むことを固く禁じていた。この原稿用紙はなにかと尋ねたら、祖父は意味ありげな笑い顔でそれを隠してしまった。
なんてことだ。なにかあったような気がずっとしていた。それがいま、薄霧に包まれた祖父に関する何年もまえの会話が、情景が早送りで再生された。
居間へ戻るとその封筒をカバンのなかにこっそりとしまった。いま思えばなぜそんなことをしたのかわからなかったが、これは僕と祖父の二人だけの秘密のような気がした。
誰かに話をしたら僕だけに残してくれたものを取られるような間違った脅迫感にそのときは支配されていた。
これは祖父が僕だけに残したものだという思い込みがあったからなのだが、あとから冷静に考えてみれば、どうかしているだけだった。
それから数日間は、高校のころよく立ち寄った場所へ行った。あまりに変わらないので感傷的にはならなかった。約束をしていた友だちとも会った。
「久しぶりに太平燕を食べたい」と提案したら、
「俺は久しぶりじゃない」と言われた。
そこは無理を言ってつき合わせる。友だちとは近況を話し合い、東京でまた逢おうと確定ではない軽くぼやっとした約束をして別れた。
別の日はお坊さんがやってきた。
お坊さんは遺影をまえにして座った。それを先頭にして、僕たちは雁行のように並んで正座した。
お坊さんはシンバルのような鐘をシャワンシャワンとリズミカルに鳴らしながらお経を唱えはじめた。
それがありがたいのは知っている。声をだして笑わないように努力はする。
がこれはダメだ、ククッと声を漏らしてしまう。これは笑ってはいけないゲームだ。
笑いをこらえて肩を揺らしていたら、おねえちゃんが僕の脚をつねってきた。「失礼でしょ」とおねえちゃんが小声で言うが、先に笑いだしたのはおねえちゃんのほうだった。
お坊さんはグルーブに乗ってきたのかシンバルのビートはさらに速くなる。シャワンシャワンがシャワシャワシャワンに変わり、おねえちゃんの笑い声はククッからヒヒヒに変わった。
僕は笑いを抑えながらおねえちゃんの脚をつねり返した。
「痛いじゃない、ケイ」
「失礼だよ」
お坊さんが帰ったあと祖母から「あなたたちは、――」とごもっともな苦言を呈された。
法事を済ませた翌日、僕は朝早く東京へ戻ることにした。バイトがあるからというのが言い訳だったが、もういいかなと思ったのも間違いではなかった。
「ケイくん、これ持って帰りなさい」
「いらない、――じゃあこれだけ」
「バイト先でお世話になっているのだから、あげればいいでしょ」
母はたくさんのお土産を持たせようとしたので僕は全力で拒否った。置いて帰りたかった。我慢してすこしだけ持って帰ることにした。祖母、伯母に別れの挨拶をした。おねえちゃんとその娘はまだ寝ていた。
記念は本を何冊かと、書斎に置いてあった茶碗をもらうことにした。茶碗は祖父が筆記用具入れ代わりにしていた青紫の釉薬がきれいなもの。
それと読みたい本を選んで段ボール箱に詰めた。残った本の処分はおねえちゃんに頼んでおいた。よく使うネットの古本屋サイトへ段ボール箱詰めて送るだけだと教えたら「楽勝」と言っていた。
おねえちゃんのことだから心配だ。間違って僕の箱まで送りそう。母にも念を押して祖父の家を出た。
帰りは新幹線で帰ることに。バスで帰ると言ったら祖母がお小遣いを結構くれたのだ。おかげで帰りは楽ができる。
サンドイッチと甘くない紅茶を買って指定席に座る。カバンから封筒を出してなかの紙の束を手にした。
東京までは約五時間。たっぷりと時間がある。僕はこれから誰からも邪魔されないときを楽しむ。
本を読むまえに必ずやること。
まずペットボトルを開けて紅茶をひと口。ゆっくりと息を吐き、キャップを閉めて手の届くところに紅茶を置く。
スナック菓子も置く。でも菓子を触った手で紙に触れると汚れそうだから食べるのはやめにする。
それから原稿用紙の文字をゆっくりと眼で追う。――
『こころ 続篇』
私はあわてて汽車に飛び乗り東京へ向かった。先生からこのような手紙を受け取ったからには向かわずにいられなかった。
冷静に考えれば、すでに亡くなったかもしれない者と、まだ病気で不安の残る父を同じように考えることは、トロリー問題のようで唯一の答えが出せるものではなかった。
それにもかかわらず東京へ戻る行動をとってしまったのは思慮に欠けた行動だと自覚していても、その選択は誰にも否定されるものではないと理屈を付けた。
先生が亡くなってしまった。
嘘であって欲しい。あわてる心が明察する頭の働きを止めた。それでも送られてきた手紙から先生の心を語っているのは理解できた。
それは告白であった。先生は長いあいだ誰にも悟られたくない、とくにあの美しい奥さんには決して知られたくない秘密を私にだけ打ち明けてくださったのだ。
これは私に助けを求めるメッセージなのだ。ならば急いで駆けつけなければならない。という使命感のようなものが湧き上がってきた。
だがこれは使命感ではなく悔恨であった。父より先生を選んでしまった態度を美しく装飾し目を背けた弱い自分への言い訳である。
きっと手遅れだろうと考えた。かすかな可能性にすがりたいと思った。どうにもならない感情は肥大化し、心の弱さが焦れた態度をとらせた。
それが脚を小刻みに揺すらせる。さらに意味のない言葉を大声で発するだろう。そして車内での迷惑行為となるだろう。最後には私は乗客の皆さまに非礼を謝らなければならなくなるだろう。
東京駅につくと、急いで次の電車の停留所まで駆けた。電車に乗っても焦りが電車の進みを遅く感じさせた。車内ではいらいらとつき合った。やっと先生の家のある駅で降りられたときにはへとへとになっていた。
脚を動かした。先生の家へ通じる道は落ちこんだ気持ちのせいで、どこまでも途切れない道を歩く修行だった。
いつもなら先生との議論の内容を考えながらワクワクした心持ちで通ったこの道も、いまは息が切れ汗がでて口のなかはミイラのようである。つい道沿いの牛肉店に上がって麦酒を飲もうかと考えてしまった。
先生が悪いのだ、とだんだん考えるようになり、それがまた自分の狭き料簡を知らされ不甲斐なさを感じるのだった。足取りは重くなり歩幅も狭くなりゆっくりとゆっくりと目を伏せて歩いた。
先生の家についたときには、足のうらが地面に貼りつき膝から下に重しをつけられたかのように感ぜられた。玄関までのほんの一メートル程度の距離を牛歩で進んだ。
戸をたたこうと手を握りしめる。握った手をとめて深く深呼吸する。この戸をたたくのは何度もした。戸を開いてもらうということは事実に向かうことだ、とその行為はまるで自分をたたくような気にさせ私自身を苦しめた。
ずりっと砂を足で蹴る音が無意識にすり足で後ろへ下がったことを知らせる。もうこのまま帰ってしまおうかと吟味しはじめた。
がそれは悪だとロジックを正した。ここで帰ったとて起きてしまった事件の原因と結末に変化がおきることはない。と論理的に思考、ロンリーでいこう、と考えが追いつかずに変な韻を踏んでしまう。
ここに来るまで悪いイメージが頭に浮かんでいた。科学的に根拠のある話ではない。しかし昔からある話だった。これが蟲の知らせというものなのかはわからないが、不確かに内なる直感が心と肉をもやもやとさせるのだった。
ここまで来てしまった。帰ってはいけない。最悪の結末だったとしても見て確認にし、現実として確定しなければならない。私は先生から託されたのだ、これは使命なのだ、と自らを鼓舞し出せる力で戸をたたく。
ドン、ドン、――返事がない。
呼吸を整え、もう一度戸をたたいた。
「はあーい」と可愛らしい高い声が聞こえた。
ガラガラと引き戸が音を立てて開く。先生の奥さんが笑顔で出迎えてくれた。魚でも焼いたのだろうか、遅れてとても好い匂いがした。
「あら、もうお父さまはよろしくて」
「ええ、それより……」
私は声が詰まってしまった。奥さんは私の態度を見かねてか、
「そんなところで立っていないで、さあどうぞ」と家へと招き入れてくださった。
玄関はがらりとして静寂であった。間取りは熟知していた。私は恐る恐る居間へ向かった。
そこには二人の男があった。
どうやら食事をしているようだ。好い匂いがするわけである。そして自分も腹が空いてきたと感じていた。ぐううと私の腹が大きな音を立てた。
その音に気がついたのか、背を向けて座っていた男が振り向いた。左手に茶碗、右手に箸、口いっぱいに飯をほおばった顔で私を見て云った。
「ぼばあがっだだ」
「先生、口をモガモガさせて話さない、まず口のなかを空にしてください」
先生は云われなくとも、という感じで箸を持った手を軽く上げ、もぐもぐと口を動かしたあと汁で口のなかのものを流し込んだ。
先生はひと呼吸置き、
「早かったね」と云って、とても嬉しそうににシワをつくった。私の脳は眼のまえの事件が現実とは理解できなかった。
「先生、死んでなかったのですね」
「死んでないよ」
「どこかお体がお悪いのですか?」
「悪くないよ」
「どうして……、どうして……」
私は先生になんと尋ねたら好いのか思いあぐねていた。それぎり黙り込んでしまった。すると先生が話しかけてきた。
「あれを読んでくれたか、読んでくれたから来たのだろう、出来はどうであった」
「心配しました」
「それだけ?」
「なにか迫るものが……」
「うんうん、それで」
「なんでしょう、この人はあぶない、頭がどうかしてると」
「どうかしてるとは失礼だな」
先生は不機嫌そうな顔をした。どうも私から期待した反応が得られなかったのが不満らしい。しかしどう答えれば好かったのだろう。
「どうしてこのような悪戯をなさったのですか」
「どうしてって、おもしろいからに決まっておる、いまにも死にそうな人間があんなに長い文を書くと君は思うのかね」
「あああ……」
先生はこれが単なる思いつきではじめたことではない、と明かしてくれた。
私が先生の宅へ通いはじめたころ先生はよく一人で墓地を散歩していた。墓地はあまり人が来ず、ものを考えるにはとても適したところだった。
そこへたまたま私が前触れなく現れたとき先生は大変驚かれた。と同時に、このアイディアが浮かんだらしい。
それからは先生は私には決して策を悟られないように、ことあるごとに淡く含みを持たせた発言をするようになった。先生は無意識に最悪の事件を想像するような言葉を会話のなかに仕込んで私の思考を誘導していったのだった。
奥さんへの秘密、友人との関係、心に秘めたこと、あなたは特別だ、あなたにだけ話す、とそれらしく語り信頼させられた。
そうして私は友人の死から先生の死を想像してしまった。先生の策にまんまとはまっていることに気づかなかった。そして無駄に焦ったのだった。冷静になればつっこみどころの多い設定のはずなのにである。
もちろん友人は死んではいなかった。よく先生の宅へごはんを食べにくる男、買ってあった高い酒から飲んでいくと先生が愚痴っていた男、いま眼のまえで飯を喰っている男こそが友人のケイ氏ではないのか。そうであれば先生との関係も理にかなう。
悪戯をされたと先生を怨む気にならなかったのは、自分の愚かさを自覚したからだ。
私はまんまと先生に釣られたのだ。
私が黙り込んでいると、そのケイと思しい男が、
「この男はぼくにも悪洒落をしたことがある」と食事が終わり茶をすすりながら話しはじめた。
「美しい女の人が映った写真をぼくに見せて、
『このまえ知り合ったモデルの女の子なんだけど、すごく好かったから紹介するよ』って、
すべてての段取りは自分がするから任せてくれと云われてね、
ぼくは決められた日時にホテルへ嬉しい顔をして向かったよ、
事前に教えられたホテルの部屋のまえまでいくとドアには鍵がかけてなくてね、
もう大興奮で部屋に入ると、
このヒゲ顔の男が女装してベッドで横になり、
『あら、早かったわね』って挨拶したんだ」
「私も君に釣られて結婚することになったのだから同等ではないか」と先生が反論にならないことを云った。
「私は手紙から、先生にお子様がいらっしゃらない理由は、ケイ氏に気兼ねされていたからでは……」
「嬢に棹させば……とにかく人の世は難しい」
「自分で云って赤くなるくらいなら、云うのはやめてください、見ているこっちが恥ずかしいです」
先生は過去の悪戯の数々を老騎士の武勇伝のように語り、ケイ氏はその従者のようにつっこみを入れた。二人の悪戯にまつわる談義は夜が明けるまで永遠と終わらなかったが、私はうまい酒が飲めたのだから文句など云わない。
「あの男は君が悪戯に気づかなくても、君の愚かさを吹聴することは決してしない」とケイ氏は私に云った。
黙って頷いた。知っていた。だからはじめて悪戯を目にしたときから「先生」と呼ぶことにしたのだ。――
『おねえちゃんから聞いた話』
美術品の買い取り業者を呼んで査定してもらったが、絵画はやはり贋作で皿や器を合わせても査定額はたいした額にはならなかったらしい。
売るのはやめにした、と言っていた。新型スマホは結局買えずに旧型を使い続けている。
古本の数はそれなりにあったから結構いい値段になったようだ。が新型スマホにはとうてい足りなかった。どうやらおねえちゃんは本気でテレビの鑑定番組に出るつもりだ。
『母から聞いた話』
お皿や器は近くの小学校のバザーに出しているらしい。
祖父の着ていたスーツはいるかと訊かれたが、小さいから着られないと応えた。お皿いる? とも訊かれた。いらないと応えておいた。
『祖母から聞いた祖父との出会いの話』
祖父のことを訊くと、祖母はまだ女学生だったころの話を語ってくれた。いつもそうだが祖母は昔のことを昨日のように話す。
祖母の実家は大所帯でそれなりに広い家だった。兄弟姉妹がそれぞれ結婚し仕事の都合で家を出ると、部屋の空きが目立つようになった。
祖母の父が病気で亡くなると家はがらんとして淋しくなり、祖母の母は空いた部屋を書生に貸しだすことにした。いまの学生寮みたいな感じなのだろう。
書生たちに食事を作ってあげると大変喜んで食べたそうだ。「あるものでお作りしていただけなので、ほんとうにたいしたものではないのよ」と謙遜していた。が祖母のおかずはおいしい。
書生たちは祖母の母をゴッドマザーと呼んで慕っていた。ゴッドマザーはいたずら好きな性格でいろいろやらかす人だった。
書生の一人が夏休みに故郷へ帰ったときのこと。ゴッドマザーは暑中見舞いのつもりだった。昔読んだ小説をまねて遺書めいたものを書生ヘ送った。もちろん冗談だったが、それを読んだ書生は慌てて故郷から戻ってきた。その書生が祖父だった。
祖父は学生時代に仲間と小説の同人誌を作ったことがあった。祖母は昔それを見せてもらったことがあるそうだ。おもしろかったか訊いたけど要領の得ない答えが返ってくるだけだった。見つけた小説もそのたぐいのものだろう。
祖母は女学校を卒業したあとは家事を手伝い、祖父は卒業後の進路を決めかねていた。二人ともまんざらでもなくいい感じだったが、祖父はいまひとつはっきりしない。
そこでゴッドマザーが一計を案じる。
書生のなかに祖父の親友がいた。ゴッドマザーは祖母と祖父との関係を進展させたかった。好いなかにできないだろうか、とその親友に相談すると「友とゴッドマザーのためなら」と快諾した。
親友は祖父に、
「実は自分はお嬢さんのことを愛している、君はお嬢さんのことをどう思っているのか」と祖母のことを尋ねた。
祖父はふだんとはあきらかに違う態度を示したが、
「お嬢さんは素敵な方だ、友の愛を応援する」とそのときは応えた。
しかし祖父はすぐに行動にでた。親友が告白するまえに、祖父が先に祖母に告白してしまったのだ。
これに祖母はとても喜び、ゴッドマザーもこの結末を自賛したらしい。もちろん祖父が釣られたのを知ったのは結婚したあとのこと。




