第8話 挨拶
少年は食べる前に手を合わせてこう言った。
「いただきます」
「それはこの地域の風習ですか?」
竜胆が聞いた。
「ん? ああそうだよ。食べ物、そしてそれらに関わった全てのモノに感謝するんだ。毎回やってる人は少ない気もするけど」
「私の地域にそのような風習ありませんでした─素敵ですね」
「竜胆も使ってみたら?」
「いただきます。……合ってます?」
竜胆は少年にならって、そっと手を合わせて言った。
「うん! 言ったら食べ始めるんだ!」
そう言うと銀色の大きなスプーンでカレーをすくって、勢いよく食べ始めた。私も銀色のスプーンで、カレーを一口、口に入れた。
「……美味しい」
「それは良かった」
「手料理なんていつぶりだろう」
「自分で作るのも悪くないでしょ?」
「そうですね」
夕食後、私達は食休みにお茶を飲んでいた。
「竜胆って少食なんだね、そのくらいの年の子はみんな食べると思ってた」
「……個人差がありますので」
私は茶を口に含んだ。
「ところでさ竜胆。寝るところどうする? あの船じゃキツイでしょ。布団出しとくよ!」
「すまない、今日ばかりは甘えさせてもらうよ。明日には─」
「でさでさ! 竜胆がよかったらこの神社で働かない!?」
座布団に正座していた少年は膝立ちになって、対面にいる竜胆の方へ乗り出した。
「─今なんて?」
突拍子も無い言葉に、竜胆は思わず茶を吹き出しそうになった。
「この神社で働かない?」
「いやどうしていきなりそうなるんだ!」
私はテーブルを掌で叩く。
「だぁってさー、神社の掃除して、学校行って、宿題に家事に参拝者の対応にって忙しいんだもん! どうせ竜胆無一文でしょぉー? この地域のこと教えたげるしさぁ」
座り直した少年は、まるで子供が我儘を言う時のように、手足をバタつかせた。
「んー……私にとっても悪い話ではないか……?」
「じゃ決まりね! いやぁ便利な駒が……ごほん! 来週からやってもらおうかな。家事は僕がやるから、神社のことは全部竜胆に任せるよ」
「駒と聞こえたが、私の聞き間違いかな?」
「そうだね竜胆の聞き間違いさ! やだなぁ竜胆ぉ。あ僕布団の用意してくるねぇーお風呂お先にどうぞー!」
少年はそそくさと部屋から消えていった。飲み干した茶の入っていたコップを片付け、私も部屋を後にした。廊下は特に、隙間風の影響で冷え込む。広い家で、初見は下手をすると迷うだろう。風呂場の道中、少年に出くわすことは無かった。風呂場の灯りを点けると、脱衣所の籠にタオルと浴衣が入っていた。恐らく私用の、灰色の浴衣に深緑の帯だった。
風呂上がりの濡れ髪をそのままにして、居間へ戻った。少年はキッチンで皿洗いをしていた。
「ただいま」
「おお! 浴衣似合うねぇ。顔が良いから絵になるなぁ〜帯は君の目と同じ色にしてみたんだけど─」
「……」
「え照れてんの? 顔赤いよ?」
「っ! 風呂、まだですよね? 変わるんで入ってきてください」
「あー濁したー! ……じゃあ食器洗いお願いねー」
半ば強引に少年を追い出した。皿を洗って気を落ち着かせよう、とシンクと向き合った。
「竜胆、寝る前にちょっと」
それぞれが部屋に入る前のことである。(少年は自身の隣の部屋に私の布団を用意したようだ。)少年が手招きしてから続ける。
「明日は学校ないから、この地域のこと教えてあげる。神社のことも説明するから早く起きてね」
「わざわざすみません」
「じゃおやすみ」
「おやすみなさい」
記録─部屋は畳式の6畳程の広さだった。少年の部屋も同じ造りだろう。机と座布団、布団を敷くと既に部屋にゆとりが無かった。一つの部屋としては狭いが、このような個室が幾つもあるので家全体としてはとても広い。部屋の見分け方としては、引き戸に描かれている花で見分けるのが良いと言われた。私の部屋は蓮の花が描かれていた。あの少年は謎が多すぎる。なぜ私に構うのかも不明だ。私の正体を探られるのなら……隙を見て逃げることも、視野に入れなければならない─竜胆