番外 いのちの歌(弓張師長視点)
さくちゃんと結婚してからのわたしは、仕事を辞め、家庭に入って主婦業を中心に生きていた。
師長にまでなったんだから、何も辞める必要はなかったんじゃないかと言う人もいるかもしれない。けど、あいにく、わたしは仕事と家事を両立できるほど器用な人間ではないし、職場や嫁ぎ先との兼ね合いもあった。だったら、いっそのこと、しばらくは家事に専念させてもらって、それが落ち着いてきたら、パートでも何でも始めようかということにしたのだ。これはわたしひとりの意見ではなくて、ちゃんと、夫――さくちゃんとも相談して決めたことである。
家事をこなすのは苦ではない。
独身時代だって散々やってきているし、従弟の家にいたころは、それこそ、家政婦のように尽くしていたこともある。わたしには案外、主婦が向いているのかもしれないと、最近では思うようになっていた。
そんな、ある日のこと。
ふと気付いた。
もう、生理が3ヶ月も来ていない……。
若い頃はストレスやら何やらで生理不順になることも多くあった。無月経になったときも。だけど最近では、年を取った分、体調も落ち着いてきて、順調に生理も来ていたはずだった。
まさか更年期? 閉経?
ありえなくはない。わたしだって、もう、40代だ。更年期なんてまさにその時期だし、早ければ、閉経の準備が始まっていたっておかしくはない。
考えてみたら、最近、妙に眠くなることが多かった。身体のだるさに家事が追いつかなかった日も。食欲がなくて、ごはんがひとくちも入らない日もあった。
でも、3ヶ月はさすがに長すぎないか……?
もしかしたら、単なる更年期と思わせて、婦人科系の病気だった、ということもある。一応、結婚が決まったときにブライダルチェックは済ませているけれど、あとから発症した可能性だってあり得る。
そうと決まれば早いほうがいい。わたしはスマホを手に取ると、夫の妹、義妹の真佐美ちゃんに電話をかけた。
真佐美ちゃんは産婦人科医だ。兄のさくちゃんが勤めている――そして、わたしもかつて勤めていた――あの大学病院に勤めている。二人とも『望月先生』ではややこしいので、兄のほうは望月先生または朔太郎先生、妹のほうを真佐美先生と呼び分けることもある。
子ども好きのさくちゃんは小児科を、そして元運動部経験からスポーツ医学を学んで整形外科を専門としているが、妹の真佐美ちゃんは産婦人科。これは、亡くなった二人のお母様が、女性特有のがんを患っていたことが大きなきっかけであるらしい。母親は治せなかったけれど、母と同じように悩む人たちの心に寄り添って、願わくば、病気を取り除いてやりたいという熱い想いを持っている。
そんなしっかり者の真佐美ちゃんだけれど、末っ子ゆえの甘えたな面もあり、研修医だったころは兄のさくちゃんと同居していて、毎日の弁当作りも朝起こしてもらうのもお兄ちゃん頼みだったというから驚きだ。40歳を過ぎた今は、さすがに自分の家から通っているけれど。さくちゃんが『モテない』と嘆いていたのも、ひょっとしたら、真佐美ちゃんの影響も少なからずあるんじゃないかしら。
元バレーボール部の真佐美ちゃんは、兄に負けじと長身で、女性にしてはかなり大きめの180cmだ。そして小顔で美人。さくちゃんと並んだら、長身の美男美女、端から見ればお似合いのカップルに見える。同居していた研修医時代は特に、兄と連れ立って出かけることも多かったというから尚更だ――もしかしたら、さくちゃん、あなた『モテない』んじゃなくて『手が届かない』と思われていただけかもよ?
診察室でわたしの話を聞いた真佐美ちゃんは、開口一番に、まずは妊娠の検査をしよう、と言った。
「……妊娠? でもわたし、妊娠は」
「病気の検査をするにしても、まずは、妊娠の有無を確かめておかないと。まぁ、ちょっと義理の姉に対して聞きづらい質問ではあるけれど……まみちゃん、直近の3ヶ月でお兄ちゃんと『そういうこと』があった?」
結論から言うと……『あった』。
でも既に40代を迎えているし、早々に妊娠するとも思っていない。わたしはそれよりも、更年期症状、あるいは婦人科系の病気の可能性のほうが高いと踏んでいた。
「まみちゃんは元看護師だけど、わたしは婦人科専門の『医師』だから」
医者より先に自分で症状を判断しないで、と言われて、それもそうかと納得する。
「それに、まみちゃん、ここ最近でちょっとふっくらしたでしょう。もともとが痩せ型だったから、余計にわかるよ。あとね、身体のだるさやストレスはいいとしても、胸の張りだとか、吐き気、におい、味覚の変化なんてのは更年期症状にはないものだよ。食欲不振もつわりだと考えれば説明がつく。まして、行為があったのなら、尚更ね。悪いけど検査はさせてもらうよ」
そして、結果は――
『陽性』だった。
「おめでとう。妊娠4ヶ月だね」
エコー画像に映し出された子宮内部の写真には、小さな赤ん坊の姿が写っていた。まだほんの小さな赤ん坊。詳しくない人には何のこっちゃと思われるような写真だけれど、わたしには、ちゃんとわかる。目があって口があって……ああ、そうだ、確かにこの子はわたしの子どもだ。
「高齢出産になるけど、しっかりサポートはさせてもらうから」
元気な赤ちゃん産んでね、と真佐美ちゃんは笑う。
「わたし叔母ちゃんになるんだぁ」
なんだか妊婦本人のわたしよりも喜んでいる気がするのは気のせいかしら。
でも、そうか。真佐美ちゃんにとっても、この子は甥か姪になるんだものね。
最後に、あとで母子手帳を交付してもらうようにと、診断書を書いてくれた。もう性別もわかるよと教えてくれたけれど、それはまだ聞いていない。なんだかわたしだけ聞いてしまうのは申し訳ない気がして、もったいないような気がして、聞けなかった。
その夜、さくちゃんが帰ってくるのを待って、妊娠を打ち明けた。
「高齢出産だけど、わたし、産もうと思うの」
目の前で、彼がハッと息をのむ。
「信じられない…まさか…」
そうだよね。信じられないよね。でも、いるんだよ。確かに、わたしのお腹のなかに。わたしたちの赤ちゃんが。
「僕がパパに…なる、のか!?」
うなずくと、駆け寄ってきてぎゅっと抱きしめてくれる。あったかくて、やさしい。わたし、やっぱりこの人が大好きだ。
「嬉しいよ。僕たちの子どもが、いま、君のお腹のなかにいるんだな。男の子だろうか、それとも女の子? 会えるのが待ち遠しくてならないよ。出産を決意してくれてありがとう」
ひととおり抱きしめ合って、じゃあごはんにしようか、とキッチンへ足を向けかけたとき、ふいに電話が鳴った。
「もしもし?」
〔ああ、まみちゃん……ちょっとお兄ちゃんに代わってくれる?〕
真佐美ちゃんだった。
さくちゃんに受話器を渡すと、いきなり、耳をつんざくくらいの大声が受話器のこちら側にまで聞こえてきた。
〔まみちゃんのこと、しっかり支えるんだよ!わかった!?〕
「あ、ああ……もちろんわかってるよ……」
電話越しに何度も頷く頼もしい背中に、胸がぎゅんとなる。ああ、わたし、この人と結婚して良かったと改めて思った。
そして、数ヶ月後――。
わたしは、無事に女の子を出産した。
名前は、花が咲く、と書いて『咲花』。咲という字には『わらう』『笑む』という意味がある。花が咲くように、明るく笑う、美しく笑う子になってほしいという願いもこめて、わたしとさくちゃんで決めた名前だ。
ベッドに横になって、隣で静かに眠る娘の顔を見ていると、この子を産んでよかった、と思う。
生きていてよかった。
事故のあの日に後追いしていたら、この子とも会えなかったのだから。もちろん、夫とも出会うこともなかった。神様がわたしを生かしておいてくれたおかげで、わたしは、こうして愛しい人たちに巡り会うことができたのだ。
今日も、笑顔の花は咲く。
咲花。わたしたちの愛しい子。
参考:
妊娠週数の数え方と出産予定日の計算 (新型出生前診断 NIPT JAPAN)
https://niptjapan.com/column/expected-date-of-birth/
妊娠スケジュール早見表 (たまひよ)
https://st.benesse.ne.jp/ninshin/schedule/
妊娠カレンダー (ココロートPark)
https://coco.rohto.com/article/kiji/healthcare/140/
40代からの月経不順は○○のサイン? (ネクストライフ)
http://www.nextlife.info/column/article/21