番外 月のしずく(弓張師長視点)
もうひとつのシンデレラストーリー。
凛子が天明先生を意識し始めたころ、横で師長が急に慌てだした事件の裏には、実はこういう背景がありました…というおはなしです。
「結婚を前提に付き合ってくれないか」
そう言われたのは、彼と出会って12年が経った、42歳の秋のことだった。
42歳。もう若くはない。けどわたしなりに努力をして、看護師長にまで上り詰めて、ようやく仕事も楽しくなってきたころだ。後輩を『育てる』のは大変だけれど、そのぶん、やりがいもある。このまま、結婚や恋愛とは縁がなくても、自分ひとりで生きる術を身につけられたらそれでいいと思っていた。
「いきなりこんなことを言って、おかしなやつだと思われるのはわかってる。でも、好きなんだ。君以外には考えられない。僕がこんなふうに思うのは、まみちゃん、君しかいないんだよ」
30歳のときに初めて出会って、そのときはまだ、お互い、別の病棟に勤めていた。あの頃はわたしも婚約者を亡くした痛みが完全には癒えていなくて、仮眠室で悪夢にうなされていたところを、助けにきてくれたのが彼だったのだ。彼がいなかったら、わたしはどうなっていたことか。考えるだけでも恐ろしい。
「……わかってる。君に婚約者がいたことは、前にも聞いた。いまでも彼を忘れられずにいることも。だけど、僕では彼の代わりになれないだろうか? そばにいたいんだよ。僕がそばにいてほしいんだ」
カレの代わり? ――そんなの、考えたこともない。
でも、どうだろう。あの人はもういない。代わりにそばにいてくれるのは “さくちゃん” こと望月先生で。出会って12年。そのあいだ、何度も一緒に食事を重ねたけれど、わたしと彼が『恋人以上』の関係になったことはなかった。
「返事は、いますぐでなくて構わない。けど、考えみてくれないか」
家に帰って、ひとり、棚の上に置いたままの元婚約者の写真をじっと見つめる。カメラに向かって微笑む彼。その視線の先にいるのは、わたしだ。
優しい人だった。
そう。初めて会ったときも。同じ部署の、退職する男性ヘルパーへの餞別選びに悩んでいたわたしに、あれこれと相談に乗ってくれたのが彼だった。会って話を重ねるうちに、恋人のような関係になったのは至って自然な流れだったのだと思う。
そして、わたしは人生で初めてのプロポーズを受けた。
だけどその帰り……彼はトラックに轢かれて死んでしまった。なんとなくぼうっとしていたわたしを守るように、身代わりになってくれたのが彼だった。あとのことは覚えていない。駆けつけた救急隊員や近くの人たちに流されるようにして、気づいたら、病院にいたのだ。必死の処置も何も効果がなかった彼を前に、わたしはずっと立ちすくだままでいた。そばで支えてくれる従弟がいなかったら、わたしはきっとあのまま倒れて気を失っていただろう。
あなたのこと、忘れたくなんてないのに。
いまは一刻も早く忘れたいと思ってしまっているわたしがいる。
――わたし、このまま、さくちゃんと結婚してもいい?
――あなたのこと、忘れてもいいの?
わたしのなかで、『一番大切な人』の存在が、かつて結婚を誓った男から、さくちゃんの姿にすり替わっていることに気付いた。
だけど、胸の奥で、カレを忘れてはいけない、忘れたくないという思いが渦巻いている。わたしはどうしたらいいの?
プロポーズされたあの夜から、さくちゃんのことを、変に意識してしまっている自分がいる。いままでこんなことなかったのに、どういうわけだろう。
今朝も、そう。
ナースステーションの向こうに彼の姿を認めた瞬間、どうしてもあの夜のことを思い浮かべてしまうわたしがいた。そのせいで手元が狂って、床一面に書類をばらまいてしまったのはご想像のとおり。師長が慌てるなんて珍しいと、みんな一斉に寄ってきて片付けを手伝ってくれたけれど。
「まみちゃんが動揺するなんて珍しい。何かあったのかね」
主任が半ば呆れたように、残りの半分は心配するようにつぶやいた。
***
気付けば、さくちゃんの姿を避けるようになって、半年が過ぎている。
もちろん、仕事は仕事、ひとりの看護師として特定の医師だけを避けるような真似はしない。ただ、いままでのように、一緒に食事をしたり、二人だけで会ったりというようなことがなくなっていた。
……さくちゃんは、こんなわたしのことを、とっくに愛想尽かしているかもしれない。わたしのことなんて忘れて、今頃、ほかの女の人とデートしていたりして?
彼がほかの女の子と腕を組んで歩く姿を、ちょっと嫌だなと思ってしまったのはわがままかしら。そう思うのは、わたしが彼を好きだから? かつて婚約していたあの人よりも?
それから、年度末も近くなって、ある若い看護師たちの対人トラブルを聞かされたとき、これはまた忙しくなるなと頭をフル回転させて問題解決に臨んだ。
何十人もの看護師がいるなかで、対人関係のトラブルはつきものだ。人間にだっていろんなタイプがあり、どうしても、合う、合わない、という問題は出てくる。
少しでもトラブルをなくすためには『絶対に合わない』人間を二人きりにはしないこと。そこに仲介役の人間がひとり入るだけで世界はがらりと変わる。あとはそれぞれの看護師のケア。両者の話を聞いて、どちら側の視点からも考えて物事を見る。どちらか一方だけに話を聞くとか、独りよがりな判断はしない。あくまでも中立な立場を保つ。だって、わたしは『師長』だから。
「……頑張ってるんだな」
わたしの話を聞いたさくちゃんが、ぽつりと言った。
そもそも、わたしに「看護師たちのあいだでトラブルがあるらしい」と教えてくれたのはさくちゃんだ。そのさくちゃんにトラブルの件を知らせてくれたのは天明先生だが。天明先生もまた、看護師二人が起こしたトラブルのことを気にかけてくれていたらしい。ああ見えて、結構根は優しい子なのだ。
「わたしは看護師長だから。ただ、師長として、当たり前のことをしているだけで……何も特別なことはしていないわ」
「だから、それを、頑張ってるっていうんだよ」
言われた瞬間、ふっと涙がこみあげてくるのを感じた。
そっか。わたし、頑張ってるんだ――。
気付いたら涙が止まらなくて、さくちゃんの前だというのに、ぽろぽろと涙を流してしまった。間の悪いことにそこに子どもたちがやってきたものだから、涙するわたしを見て「望月先生が泣かせたー」とからかう。さくちゃんはそれを見て慌てていた。子どもたちのことは主任が飛んできて叱りつけてくれたけれど、今度は、主任自身がさくちゃんを責め立てた。
「で、あんた何やったんだい?まみちゃんが泣くなんてよっぽどじゃないか」
どうも、わたしが泣いているのがさくちゃんのせいであると勘違いしているらしい。慌てるさくちゃんを見るのは新鮮で、少しおかしくもあったけれど、さすがに可哀そうなので訂正してやる。
「ちがうんです、主任、わたし嬉しくて」
涙を拭いながらこれまでの経緯を主任に説明していると、さくちゃんもそれを見届けてくれていて、それで、やっと自分の本当の気持ちに気づいた。
わたしは、さくちゃんが好きなのだ、と。
日勤の業務を終えて、いつものレストランでさくちゃんと待ち合わせる。
向かい合って座りながら、ふと、これまでのことを思い返してみた。
もう、数えきれないくらいのデートを重ねてきた。すべてがデートと言っていいのかわからないけれど、二人きりで食事をして、二人で待ち合わせて勉強会に行った日もあったし、休日に二人で映画を見たりもした。たまたまチケットが手に入ったからと、二人でテーマパークに行ったこともある。
だけど、こんな気分になったのは初めてのことだった。
「わたし、あなたと結婚します」
「え・・・っ」
勇気を振り絞って告げたのに、彼ときたら、口をあんぐりと開けて目をまんまるにしている。
「そんなに驚く?」
そもそもプロポーズしてきたのは彼のほうだというのに、まったく、ひどい人である。
「だ、だって、まさかOKしてもらえるなんて思わなかったから……」
慌てるさくちゃんも可愛いけれど、そこは、違うよね?
「わたしに『うん』と言わせるつもりで、プロポーズしてくれたんじゃないの?」
「うん、そうだけど……それは、そうなんだけど……」
なによ、もう。はっきりしないなあ。
「いつも、肝心なところで失敗するんだよ……殊に恋愛に関しては。いつだったか、天明の奴に『15年彼女がいない』とからかわれたのだって、僕が恋愛経験の少なさゆえに恋愛下手で生きてきたせいなんだ。思えば医大生のときも、そうだ、研修医だったあのころだって、いつも僕は『いい人』止まりで、恋愛には発展しないと言われてきたんだよ」
大きな体で肩を縮めて話すさくちゃんが、なぜだか、妙に小さく見えた。
「……わたしは、さくちゃんが『いい人』だから、結婚を決めたんじゃないんだよ?」
出会って12年。そのあいだ、恋人のような関係だったかと聞かれたら決してそうではないけれど、二人で積み上げてきたものはたくさんある。わたしの、この恋心も。
「あなたが、現在も、この先将来も、わたしにとってかけがえのない人だと思ったから。ずっとそばにいてほしいのは、あなただけだよ、さくちゃん」
愛しているの――。
極めつけのひとことは、さすがに効いたらしい。聞いた瞬間に耳まで真っ赤にして、テーブル越しにわたしのことを抱きしめて言った。
「僕も……、僕も、まみちゃん、君を世界で一番愛している!」
***
――こうして『弓張万見子』は『望月万見子』になった。
『弓張』は弓張り月。つまり、上弦の月(または下弦の月)の別名だ。
そして、『望月』は満月のこと。
夜空に浮かんだ月が満ちるとき、欠けていたものを補うように、まあるく、美しい形になっていく。
わたしもそう。
『弓張』のわたしが、『望月』の名をもつさくちゃんと結ばれたことで、わたしのなかで欠けていた何かが、ゆっくりと満たされていく気持ちになっていた。
わたしたちの愛は、たとえるなら、まあるい満月のように、丸く、満ち満ちている。
そんなわたしたちの結婚指輪は、揃いの真珠の指輪だ。まるい形は愛の象徴。まるい満月を表す『望月』の名にはぴったりじゃないか。
これはあとからわかったことだけれど、真珠には、邪気を払って持ち主を守る、強い守護力があるらしい――だったら、いままでわたしを縛っていた過去の鎖からも守ってもらえるかしら?
真珠の輝きは、月のしずく。
わたしがひとり流してきた悲しみの涙も、これからは、彼とふたり、喜びの涙に変わるのだ。
時間軸は、本編にもある、「まみちゃんが動揺するなんて珍しい」という主任のセリフを軸に、
・万見子(師長)と望月先生のデート (=凛子、初めての夜勤。天明先生に助けられる)
・望月先生の言葉で涙する。子どもたちにからかわれ、主任にも責められる (=凛子と希未の夜勤トラブルがあった翌朝)
という形でつながっています。
※真珠は結婚指輪や婚約指輪としても人気が高い宝石ですが、水や薬品には弱いため、水仕事の際は取り外すなど、扱いには注意したほうがいいとのことです。