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花は咲く

 シフトを調整してもらったおかげで、あれ以来、目立ったトラブルにはならずに済んでいる。完全に仲直りしたわけではないけれど、ほかの人の目があるからか、希未ちゃんもいままでのように好戦的な態度は取ってこない。わたしだってそう、わざわざ喧嘩腰で話しかけたりしない。

 これも全部、騒ぎが大きくなる前に師長がなんとかしてくれたからだ。彼女には感謝してもしきれないなと思っていたら、ある日のお昼休み、まさしくその師長から食事に誘われた。

「リンちゃんって、家からお弁当持ってきてたりする?」

 それができたらいいのだろうけれど、あいにく、そんな時間はない。今日だって適当に階下のコンビニで済ますつもりだった。

「なら、わたしと一緒だね。よかった。じゃあ今から買いに行こ」

 二人で連れ立ってお昼ごはんを買いに行く。たまごサンドとハムサンドで迷っていたら、横から師長がやってきて「サンドイッチもおいしそうだね」とひとつ買っていった。それとアロエヨーグルトも。

「……決まった?」

「すみません。まだ少し迷っていて」

「早くしないと食べる時間なくなっちゃうよ?」

 それはそうだ。看護師の昼は忙しい。さっさと決めてしまわないと、本当に食べそこねてしまう。

「なになに、たまごサンドとハムサンド? どっちもおいしいもんね――そうだ! わたし、さっきたまごサンド買ったから、二人ではんぶんこしない? ね、そうしようよ!」

「……いいんですか?」

「いいよ、いいよ。わたしも2種類のサンドイッチ食べられるし、そのほうがお得じゃん! 友達とはんぶんこ、やってみたかったんだ」

 師長はわたしの『上司』であって『友達』ではないのだけれど、まあいいだろう。わたしからしたら、憧れの上司、それも『推しメン』と料理のシェアができるチャンスだ。この機会を逃すわけにはいくまい。

 わたしは師長の助言どおり、ハムサンドと、それに食後のデザートでミルクプリンを買って、人気(ひとけ)の少ない中庭までやってきた。二人でベンチに座り、お互いのサンドイッチを交換する。もらったたまごサンドを口に運びながら、ふと、師長のほうを窺った。師長は、なぜまた、わたしを食事に誘おうと思ったのだろう。

「……あれから、どう? 大野さんにも注意したけれど、いじわるとか、されていない?」

「あ、の……それは……たぶん、いまのところ、トラブルなくやっていけてる、と思います……。わたしもきつい言い方にならないように気をつけていますし、彼女のほうも、それは分かってくれているみたいなので」

「そう。ならよかった」

 そうだ、この人には感謝しなくてはならない。わたしたちがまた無用なトラブルを起こさないようにと、気遣っていろいろと手配してくれたのは紛れもなく師長なのだから。

「あの、その節はありがとうございました」

「いいのよ。看護師たちの対人関係のケアをして、お互いの働きやすい環境を作り出すことも、師長の大事な仕事だからね」

 わたしは『たくさんのこと』を見なくちゃいけないから、と彼女は言う。

(おおく)を見る、で万見子。それがわたしの名前なの」

 なるほど。名は(たい)を表すとはこのことかもしれない。

「それにね、わたし、あなたはよくやってると思うよ」

「そ、そうでしょうか……?」

 改めて言われると少し照れくさいけれど、どうなんだろう。わたし、自信持っていいんだろうか。

「そうだよ。努力家だし、いつも一生懸命で向上心があるよね。前にも言ったと思うけど、あなたのそのひたむきさには、わたしたちだっていい刺激をもらっているのよ。本当に、すごいと思う」

 そっか。そう、思われてるんだ。病棟に復帰してから、毎日、生きることに必死で、自分がどれだけ『頑張っている』かなんて気にしたことがなかった。

「……リンちゃんは、たしか、28歳だったよね」

「はい。今年で29ですが」

「すごいな。わたしが同じ年のころなんて、毎日、ふさぎ込んでばかりだった。とてもじゃないけど、リンちゃんみたいに前向きにはなれなかったよ」

 そう言うと、師長は、ぽつりぽつりと話し始めた。


 師長の、昔の記憶。若かりし頃の忌まわしい思い出を――。


「わたしね、20代のころ、婚約者を亡くしているの」


 事故だった、という。交通事故だった。左折してきた大型トラックの死角に入っているとは気付かず、歩道の端を歩いていた彼女に、思わず突き飛ばして身を守ろうとしたのが、カレだった。でも、愛しい恋人を守ろうとして……トラックに巻き込まれたまま、帰らぬ人となってしまった。

「最初は何が起きたのかわからなかった。でも、運転手が降りてきて、近くの人も集まってきて、騒がしくなってきたところに救急車とパトカーがやってきて。それで、ようやく事故なんだ、と気付いた」

 おかしいよね、と彼女は自嘲ぎみに笑う。

「本当は、わたしが死ぬはずだったのに。わたしが、ぼんやり歩いてさえいなければ、もっと周りに気をつけて歩いていれば、彼は死なずに済んだ。()()()()()()()()()()()()()()

 一緒だ、と思った。

 この人とわたしは同じだ。

「その頃はまだ、老人ホームに勤めていたの。でも、彼が亡くなって、交際していたことがバレると、職場にも居づらくなって……仕事は辞めたわ。だけど、今更実家に戻ったりして、両親に迷惑をかけたくもなかった。幸い、近くにひとつ下の従弟がいたから、しばらくは、彼のもとに世話になっていたわ。彼はわたしを根気よく面倒見てくれた。どうしようもなくてイラついて、八つ当たりしたことだってあったはずなのに、それでも、そばにいてくれた。彼がいなかったら、今頃、わたしは死んでいたでしょうね」

 同じ。

 わたしも、まこちゃんがいなかったら、生きてゆけなかった。あのとき、彼がそばにいて支えてくれていなかったと思うと、ぞっとする。

「でも、ある日、彼にかわいい恋人ができたのを知った。恋人ができたら、きっと、これから家に呼ぶこともあるだろう。そのときに、精神病を患った従姉が居座っていたら、おそらく彼女は不快に思うはず……いや、思わないかもしれないけれど、とにかく、これは家を出る絶好のチャンスだと思った。精神を患っていると言ったって、事故直後よりは、だいぶマシになってきている。いつまでも従弟の世話になるわけにはいかないのだから、そろそろ、自分の足で歩いたっていいんじゃないか。そう思った」

 それが、30歳……従弟との同居を解消し、新たにアパートを借りてひとり暮らしをはじめた頃のことだ。今の職場、この大学病院の病棟看護師として復帰し、翌年には、普段の仕事ぶりが評価されて小児科病棟に異動した。

 実務経験が10年を迎えた35歳のとき、看護主任に就任。そして、40歳になると、看護師長に昇進した。

 ――前言撤回。

 やっぱ、全然似てないじゃん。わたしはそんなに積極的じゃない。看護師長に昇進するほど優秀でもない。

「今のわたしがあるのは、あのとき支え続けてくれた従弟と……、さくちゃん、望月先生のおかげよ。望月先生には本当に迷惑をかけたわ。わたしがこの病院に復帰してはじめて夜勤を迎えた夜も、ずっと、そばにいてくれた。当時は違う病棟で面識もなかったはずなのにね。あとから聞いた話では、仮眠室でうなされていたわたしの声が廊下の外まで響いていたんですって。それでどうにも気になって声をかけてくれたみたい。ちょっと恥ずかしいわね」

 師長はそう言ってふふっと笑う。まさか、そんなことが……。

 ひょっとして、望月先生が片想いしている人って、師長のことだったりして? うん。あり得る。十分にあり得る。

「好きなんですか、望月先生のこと」

 だから、不遜ながらも聞いてみた。なんか本格的に友達同士みたいになってきた。お昼休みに恋バナなんて、まさしく、仲のいい友達同士のそれじゃないか。

「え!? い、いや、その……そんなことは……やだ、リンちゃんたら! なんてこと聞いてくるのよ!」

 珍しく師長が慌てている。そういえば、前にもこんなことがあったっけ。

「あれ、違いました?」

「そう……いや、違わないけど、でも、好きだなんて、恋人だなんて、そんな」

 顔を真っ赤にしてジタバタと慌てる師長が本当にかわいい。もう、最高の推しじゃん!!!

 ああ。こんなかわいい人が上司で、わたしは今、最高に幸せだ。


「あ」


 ふいに、師長が顔を上げてある一点を見つめる。彼女の視線の先には、病院が管理している大きな花壇があり、そこには一面の白い小さな花が咲いていた。


「この花……カモミールだね」

 師長が言う。

「それって、ハーブティーとかに使われる、あのカモミールですか?」

「そう。リンゴに似た爽やかな香りがするのが特徴的で、安眠や発汗、消化促進、リラックス効果があるの」

 言われてみれば、この香り、なんとなく落ち着く。今のわたしの状況にものすごくピッタリだ。

「カモミールは、踏まれれば踏まれるほど丈夫に咲く花。花言葉は『逆境に耐える』……だったかな」

 逆境に――

 だったらますます、わたしにはお似合いの花じゃないか。幼くして母親と生き別れ、大学時代には最愛の父親とも死に別れて、ようやく手にした看護師の仕事も忙しい日々に追われてうまくいかず、そんなときに人気の外科医に声をかけられてちやほやされたと思ったら、家の中に閉じ込められて暴力をふるわれた。こんな生活から逃げ出したくて家を飛び出したのに、彼が死んでしまって――()()()()()()()死んでしまって、いまも、亡霊に怯え続けながら生きている。だけど、まこちゃんに支えられて、それから師長や小児科病棟のみんなにも支えられて、少しずつ、前を向いて歩き出せるようになってきた。

「なんだか、わたしたちみたいな花だね」

 踏まれれば踏まれるほど、辛いことが続けば続くほど、丈夫に、たくましく育っていく。逆境に耐えて生きていける。

「リンちゃんは『凛とした子』でリンちゃんだよね」

 凛子。大好きな父親がつけてくれた、大好きな名前。わたしは、そんな父親が願った名前のとおりに生きてゆけているだろうか。

「ねえ、リンちゃん。来年の春から、外来で働いてみない? 一般内科の外来から話が来ているの。小児看護と成人看護では学ぶことも違ってくるし、キャリアの幅を広げるには十分なんじゃないかな。リンちゃんなら、きっと内科にも向いているって、そう思っているのだけれど」

 確かに学ぶことも増えるだろうが、外来なら、病棟と違って夜勤もない。日勤と夜勤の繰り返しで生活リズムが崩れることもなくなるだろう。夜だって、安心できる自宅のベッドでぐっすり眠れるはずだ。

「やります。やらせてください」

 わたしは自信を持って答えた。環境が変わるのは不安なはずなのに、なぜだろう、いまは新しい環境が楽しみでしかたがない自分がいる。

 そうか、3月、もうそんな時期なのか。

 気づいたら、わたしが看護師として復帰しはじめてから、1年の月日が経っていた。

「よかった。わたしも、リンちゃんが新しい職場で元気にやっていくことを応援してるね」

 師長とは離れ離れになってしまうのが少し寂しくもあるけれど、むしろ、1年間、こんなわたしをよく『育てて』くれたと思う。わたしはもう、まこちゃんや師長がいなくても大丈夫。ひとりでだって生きてゆける。

「ああ、そうそう、内科には天明君もいるから、安心していいよ」

 え。

「……好きなんでしょう? 天明君のこと」

 師長が、わたしの顔を覗き込んでなぜかニヤニヤしている。これと同じ展開をさっきも見たような。なんだか急に形勢逆転してしまったみたいだ。

「まあ、それは冗談としても、天明君がいれば、わたしも安心だな。リンちゃんだって新しい職場に知り合いがいたほうがきっと心強いでしょう」

 それはそうだ。それに、天明先生は、まこちゃんを失ってどうしようもなくなったわたしを救ってくれた人でもある。

「――よかった。これでわたしも安心して辞められる」

 これはまだオフレコなんだけど、と師長は続ける。

「わたし、今年の3月末で退職するの。こんなわたしでも、ずうっとそばにいてくれた人がいて、この人となら結婚してもいいかもって思えるようになったから、思い切って籍を入れようと思って。しばらくは家事に専念するつもり。そして、また、落ち着いてきたら、いつかどこかの病院で看護師として復帰できたらと思ってる」

 その結婚する相手って、まさか……。

「リンちゃんも、いままでありがとうね。リンちゃんは気づいていないかもしれないけれど、わたし、リンちゃんのそのひたむきさには本当に勇気をもらっていたんだよ」

 やだ。なんか涙が出てきた。師長の前ではもう泣き顔なんて見せたくないのに、どんどん涙があふれだしていく。

「よしよし、リンちゃんはいい子だね」

 師長の腕の中で泣くのは二度目だ。だけど、今回のほうが、不思議とあったかい心地がした。



 3月末。

 本格的な人事異動を前に、わたしと師長、その他の退職・異動メンバーの送別会が行われた。もちろん先生方、望月先生や天明先生も一緒だ。

 空席となる小児科病棟の師長の後任には主任さんが昇格することになり、師長と望月先生の結婚も発表されて、さらには水野さんとたまちゃんの交際まで明らかになって大盛り上がりで幕を閉じた。

 店を出て、タクシーを待っていた天明先生に会う。なんだか気恥ずかしく感じるのは、きっとお酒が入って気分が高揚しているせいかしら。

「あ、あの!」

 ちょうどやってきたタクシーに乗り込もうとする彼を呼び止めて、わたしは言った。

「あの……、な、内科でも、よろしくお願いします!!」

「うん。まあ。よろしく」

 それだけ言ってタクシーに乗り込む。ま、そうか。そりゃそうだよね。

 天明先生を乗せたタクシーは、そのまま、どこか遠くのほうへ見えなくなってしまった。わたしはそのタクシーの消えていった方角を、いつまでも、いつまでも見つめ続けていた。

**おまけの女子会③


小林: まさか、師長が退職するなんて……しかも結婚ですって! お相手はもちろん望月先生! お二人の仲は病棟内でもずっと持ち切りだったのよね。て、かなえさん、知らなかったんですか!?

中川: 知らなかったわよ……。もしかして、わたし以外は全員、気付いてたの?

大野: えへへ、気付いてました~。

中川: 悔しい~~~!! わたし、とんだピエロじゃない。道理でデートのお誘いにも応じてくれないはずよ。だって、彼にはもう、心に決めた相手がいたのですもの。

大野: でも、まさか、たまちゃんまで、水野ちゃんとデキてるとは思わなかったな~。

小林: 元カレとケンカ別れしたタイミングだったんです。水野さんに慰められて、気付いたら、好きになってました♡

大野: いいな~。あたしも恋がしたい!!

中川: あら。天明先生はもういいの?

大野: あんなやつ、もう知らないです。だって、あたしに内緒で、大内さんと二人でこっそり会ってたんですよ!? 信じられない!! あたしにはあんなに冷たくあしらったくせに!! あたしは勝算のない恋はしません。次こそ、絶対あいつより素敵な彼氏をつかまえてやるんだから!!

中川: ノンちゃん偉い! わたしも頑張るわ!


小林 (はぁ…この二人…いつまでやるんだろ…)



参考:


カモミールの育て方 (LOVEGREEN 植物図鑑)

https://lovegreen.net/library/herb/p88886/


カモミールの花言葉、由来、効能、効果など (花言葉ー由来)

https://hananokotoba.com/chamomile/

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― 新着の感想 ―
[一言] 素敵なタイトルに惹かれて読ませて頂いたのですが、魅力的なキャラクターが沢山出てきて、とても楽しませて頂きました。 天明先生が最後そっけないところも、何だか彼らしくていいなぁと。 凛子の頑張り…
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