花に嵐
次に出勤したとき、いつものように仕事をこなしながら、どこか頭の片隅で天明先生を意識している自分がいるのに気付いた。原因はわかっている。初めて夜勤を迎えた日、命拾いをした『あれ』だ。
いまでも、時々、悪夢を見る。といっても、一時期よりはだいぶマシだけれど。
転勤して新しい地で頑張っているまこちゃんを、今更頼るわけにはいかない。やっぱり凛子には自分がいなきゃダメだと、心配させたくもない。だけど自分でどうにもならないときは、天明先生を頼るようにしている。天明先生はわかってくれる。辛いときもそばにいてくれるから。
それと同時に、不思議と、彼に惹かれはじめている自分に気付いた。
天明先生は優しい人だ。それに情熱もある。仕事熱心で、子どもたちにも慕われている。もちろん看護師にも。
「巡回行くぞ」
だから、お昼の巡回で彼が現れたとき、心のどこかで動揺している自分がいたのだ。電子カルテのチェックをしていたはずが、間違えて一枠ズレて記入していた。だいぶ慣れてきて、もう完璧と思っていただけに恥ずかしい。
ふと横を見ると、師長もまた、珍しく慌てていた。床に散らばった書類の束を一生懸命かき集めている。わたしも手伝ったし、ほかの人も手伝ったけれど、どうしたんだろう。考えてみたら、最近の師長は随分とおかしかった。仕事をしているときもどこか上の空で、そわそわしている。
「まみちゃんが動揺するなんて珍しい。何かあったのかね」
主任はそう言ったけれど、師長は曖昧にうなずくだけだった。
変わったことと言えば、もうひとつ。
わたしは希未ちゃんから、露骨に避けられるようになった。たぶん、あの夜勤明けの日からだ。わたしが天明先生に介抱されて仮眠から戻ってきた日。希未ちゃんは奏絵さんと仲がいいから、きっと何か聞いたのかもしれない。それで、わたしが天明先生と『デキている』と誤解した。
希未ちゃんは天明先生が好きだ。
わたしも天明先生のことは好きだけれど、希未ちゃんの思うような事実はない。どうにか誤解を解きたいのだけれど、避けられているから、なかなか二人きりで話す機会ができずにいた。
そして――
ついに事件が起きてしまった。
その日は、夜勤だった。相棒は希未ちゃん。最近話す機会がなかっただけに、これはチャンスだ、とも思った。夜勤のルーティンをこなすうちに、なんとか、話す機会を作ろう。そして溜まりに溜まった誤解を解くのだ。
なのに、そういうときに限って、妙に忙しかった。ナースコールは頻繁に鳴る。何でもないときもあれば、本当に容態が急変した子もいる。油断できない。それとは別に、おむつ交換や資材整理もやらなくてはならなかった。
で……気付いてしまった。
――セイちゃんの点滴の量、違う?
セイちゃんはわたしの担当患者なのだから、わからないはずない。いつも使っているものより明らかに少ないのだ。担当医からは何か変更になるといったような指示は受けていないし、普段の様子も別段変わったところはないから、いままでどおりでいいはず。
なのに。なんだろう。妙な胸騒ぎがした。
「ねえ。セイちゃんの点滴投与について、何か聞いている?」
その場にいたヘルパーの子に訊く。すると彼女は、思い出したように言った。
「ああ……昨日、いや、もうおとといですね、おとといから、少し点滴を減らすよう変わったんですよ。日勤の看護師が先生と話してるのを聞きました」
「そう。ありがとう」
おとといはわたしも日勤だった。だが、点滴の話は聞かされていない。出勤しているのだから何かあれば知らせてくれてもいいはずなのに、何も、知らせられなかった。
そこでふと気づく。おとといといえば、たしか、希未ちゃんも一緒だった――。
「……もしやとは思うけど、その看護師の名前、覚えていたりする?」
わたしが訊くと、彼女は自信たっぷりに答えた。
「間違いありません。大野さんです」
やっぱりそうか……!!
思わず、希未ちゃんを呼んで叱りつけた。
「どうして教えてくれなかったの。セイちゃんの点滴が変わったこと。ヘルパーの子に訊かなかったら、わたし、一生知らないままだった。一歩間違えば、大事故になっていたかもしれないんだよ?」
なのに彼女は、どこか素知らぬ顔で、事の重大さにも気付いてないようだった。
「ああ……知ってると思ってました。凛子さん、知らなかったんですね」
それでもう、彼女とはやっていけない、と思ってしまった。
「……知らないよ。だって教えられてないから。なんで教えてくれないの。どうしてこんなことするの。わたしのことが嫌いなら、それでもいいよ。でも、患者さんに何かあったら、どうするつもりだった? あなた、責任取れるの?」
「あたしだって、ちゃんと伝えたつもりでしたよ。でも、それを聞いていなかったのはあんたのほうでしょ。あたしに八つ当たりしないでくださいよ」
八つ当たり……!?
違う。決してそんなんじゃない。わたしは確かに『聞かされていなかった』。そして聞かせてくれなかったのは、紛れもなく、希未ちゃんだ。
「あなた、自分が何をしたか、わかってる? わたしのせいにしたところで、どうなるものでもないでしょう。ちょっと、看護師としての自覚が足りないんじゃないの」
言い過ぎた、と思った瞬間には遅かった。
「なによ! そんなこと、言われなくてもわかってる。こっちは4年も看護師やってんの。看護師経験もろくにないあんたに言われたくない!!」
「ごめ……」
「大体さ、ずうずうしいのよ。天明先生のこともさ。ちょっと優しくされたからって、いい気になっちゃって、バカみたい。あんたなんか相手にされるはずないのにね」
「……やめてよ」
いやだ。それ以上聞きたくない。わたしがひとりで舞い上がっていると、思い知らされてしまいそうだから。
「もしかして、本気で愛されてるとか思ってた?」
……やだ。やめてやめてやめて。それ以上言わないで!!
「思い上がるのもいい加減にしなよ。そういうの、ほんと迷惑。中途半端な気持ちが、天明先生にも迷惑かかってること、どうしてわかんないの?」
やめて!!!
「きゃっ!」
気づいたら、突き飛ばしていた。
あのときと同じだ。
わたしは、あのときと同じ過ちを繰り返そうとしている。それも希未ちゃんを相手に。
「あ……わ、わたし……」
「いったあ……」
希未ちゃんは頭をさすりながら、ゆっくりと立ち上がる。そして、わたしを睨みつけると、拳を振り上げて掴みかかってきた。
「何すんのよ……!」
「きゃあ!」
肩をくいっと押されて、思わずよろける。思わず押し返したら、今度は、希未ちゃんが大きくよろけた。
「なによ。そっちが先に仕掛けてきたんでしょう!?」
希未ちゃん、完全に頭に血が昇っている。どうしよう……。
「ご、ごめ……」
「おい」
ふいに、背後から声が聞こえた。
「巡回、行くんだろ」
この声は天明先生……?
わたしは振り向こうとしたが、確かめる間もなく、希未ちゃんの反応で気付いてしまった。
「あーん。もちろん行きますぅ」
わざとらしく猫なで声なんて出して。懐中電灯まで持って『わたしが行く』と言わんばかりに主張してくる。突っ立ったままでいたら、邪魔だと押しのけられてしまった。
「早くしろ」
「はぁい」
巡回には、希未ちゃんが行った。きっと今頃、天明先生と二人、仲良くやっているのだろう。
……悔しい。悔しい悔しい悔しい!!!
わたし、いま、希未ちゃんに嫉妬している。それは天明先生が好きだから? まこちゃんよりも? ……元カレよりも?
どこか心ここにあらずの状態のまま、わたしは電子カルテを眺めていた。チェックしているようで、チェックできていない。もう一度頭から見直すと、間違えている箇所がいくつもある。
……わたし、全然ダメじゃん。
……何やってんの。
こんなんだから天明先生にも希未ちゃんにもバカにされるんだよ、と自分に喝を入れようとしたところで、当の希未ちゃんが戻ってきた。なんか行く前よりもずっとぷりぷりしている。
希未ちゃんは膨れっ面のまま、ナースステーションの中まで入ってくると、わたしに向かって開口一番吐き捨てた。
「どうしてくれんのよ!? あんたのせいで、あたしまで怒られたじゃない!!」
は……?
「はー、今日の夜勤いいことないわ。誰かさんはあたしにミスを押しつけてくるし、そのせいで口論になったら、今度はあたしが天明先生に怒られるんだよ? ほんと、いい加減にしてほしい……」
なにそれ。完全に八つ当たりじゃない。
「ミスをしたのはあなたのほうでしょう。『報告』『連絡』『相談』――社会人の基本じゃない。そんなこともできないなんて、4年も看護師やってる割には大したことないわね」
「あー、もう。うるさいうるさい!! 新人のくせに生意気なのよ!!」
「なんですって!?」
また口論になりかけて、そこに戻ってきたヘルパーの女の子が慌てて止めに入る。同じ人間と一晩のうちに二度もトラブルになって、他の人にも迷惑をかけて、何やってるんだ。やっぱりダメだなあ、わたし。
そのあとは、お互いひとことも口を利かずに黙って仕事をこなした。
翌朝、日勤で師長が出勤してくると、とりあえず昨日のことを報告しようと腰を上げた瞬間に希未ちゃんに先を越された。
「あぁ~、師長、やっと来てくれたぁ。もう、聞いてくださいよぉ。大内さんたらひどいんですよ。おととい、セイちゃんの点滴の量が変更になったじゃないですか。それを大内さん、忘れてるみたいで……教えてもらえなかったのはあたしのせいだ、って責任を押しつけてくるんです。もう、師長からもなんとか言ってやってくださいよぉ」
まって。なにそれ。ちがう、ちがうよ、やめて、わたしの話も聞いて!!
「あら……そう。それは大変だったわね。大内さんにもよく言っておくわ。お疲れ様。今日はゆっくり休んでね」
なのに師長は、そう言ってあっさり希未ちゃんを家に帰してしまった。
……最悪。
わたしの印象、絶対悪くなったよね? 軽蔑なんてされたくないのに、わたしのこと『若い子に自分の罪をなすりつける嫌な子』だと思われている。
「……大内さん」
ほらね、結局どうなっても叱られるのはわたしなんだ。報告を怠ったはずの希未ちゃんじゃなく。
「大丈夫?」
「大丈夫って、何がですか」
ここに来て、わたしが積み上げてきたもの、全部無駄になっちゃった。うまくやってきたと思っていたのに。やっぱりわたしには社会復帰なんて早すぎたのかもしれない。いっそ、看護師の仕事も、綺麗さっぱり諦めようか。
「大野さんとのこと。何かあったのでしょう?」
「そ、それは……」
「聞かせてちょうだい。あなたの口から聞かないと、平等じゃないわ。あなただって納得はしていないのでしょう?」
師長は、すべてを見透かしたように、そう言った。それでわたしも観念して話し始めた。
ゆうべのこと。資材整理の途中で、セイちゃんの点滴がいつもと違うことに気付いたこと。近くにいたヘルパーの子に尋ねたら、おとといの日勤で希未ちゃんが担当医から直接指示を受けていたと知った。でもわたしは知らされていなくて。セイちゃんはわたしの担当患者なのに。希未ちゃんはどうして教えてくれなかったのだろう。もしかして、わたしが時々悪夢を見ると天明先生を頼ってしまうから、それを快く思っていないんじゃないだろうか。希未ちゃんは『天明先生派』なのだから、十分にありえる話だ。でも、それはあくまでプライベートな話で、仕事は仕事なのだから、そこはきっちり分けてもらわないと……。
「……うん。わかったわ。あなたも大変だったね。今後、大野さんとは二人勤務にならないように配慮させてもらうから、安心して。今日は疲れたでしょう。帰ったらゆっくり休んでね」
「責めないんですか、わたしのこと」
看護師経験が少ないとはいえ、わたしのほうが4つも年上だ。年下の若い子を責めるような真似をして恥ずかしくないのかとか、年上のくせに、自分が忘れといて他人のせいにするなとか、もっと責められると思っていた。
「大内さんは責めてほしいの? 案外、マゾヒストだね」
「そうじゃなくて……、だって、わたし……」
「大野さんと大内さん、二人いて、そのうちで大野さんだけに話を聞いて、一方的に決めつけるなんてしないよ。大内さんだって言いたいことはあるでしょう?よく我慢したね」
それで……もう、ダメだった。
わたしは年甲斐もなく、師長の腕の中で、子どもみたいに泣いてしまった。
「……よしよし。リンちゃんはいい子だね」
師長の腕の中で優しく頭を撫でられながら、ふと、幼い頃に生き別れたお母さんのことを思い出した。
**おまけの女子会②
小林: ・・・で、結果として二人とも撃沈したの?
(二人、うなずく)
大野: て、天明先生はきっと恥ずかしがり屋なのよ! あたしと二人きりでいるところを、病院の関係者に見られでもしたら大ごとになってしまうから、それで誘えないだけなんだわ。うん。きっとそうよ!
中川: 望月先生の予定はこの先1ヶ月もずっとスケジュールがいっぱいで、わたしと食事をしている暇なんてなかったの。 もう! だったら、いつになったら彼のスケジュールは空くの? まさか、わたしを避けているんじゃないわよね?
小林: まぁそんな日もあるわよ。おっと、うちの彼氏からデートのお誘いメールだわ。じゃ、お先に~~。
大野: うう…他人事だと思って…。
中川: さすが、彼氏もちは余裕があるわね…。