フラッシュバック
あれはなんだ? ――マンション?
夕暮れどき、誰もいないマンションの廊下を、わたしは走っている。何者かに追われて、必死で逃げ惑っている。追いかけてくるのは誰だ?
……そうか、あの人だ。
もう名前すらも思い出したくない男。わたしを騙し、甘い言葉で誘って、小さな『家』のなかに閉じ込めた。気に入らないことがあれば殴り、平気で暴言を浴びせた。よそに女を作っていたこともある。
「リン!!」
彼がわたしの名を呼ぶ。やめて。気安く呼ばないで。わたしはもう、あなたの『モノ』じゃない。
「愛してるよ、リン」
……やめて。やめてやめてやめて!!!
思わず、腕を振りほどいた。
その瞬間、男が勢いよく階段を転げ落ちていく。
狭い踊り場に、赤い血溜まりが広がった。
どうしよう、と思った。
どうしよう……。
いま、この場所に誰かが来たら、絶対に、わたしが彼を殺したのだと思われるだろう。実際、腕を振りほどいた瞬間に転げ落ちたのだから、無関係とは言えまい。
わたしは人を殺してしまった。それも、昔愛していたはずの男を。
――わたしは、ひどい女だ。
***
「おい!!しっかりしろ!!」
身体ごと揺さぶられて、ハッと目を覚ます。ここは病院の仮眠室…?
そうか。わたし、夜勤で仮眠していて……。
久しぶりに見た。あの夢。最近は、だいぶ調子がいいと思っていたのに。なんだか、一瞬にして昔に逆戻りしてしまったみたいだ。
そんなわたしを、すぐ近くで天明先生が見守っている――天明先生?
「……うなされる声が外まで聞こえたよ。あんたには悪いと思ったけれど、どうも気になってな。それで、持っていたカードキーで開けさせてもらった――大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」
大丈夫なわけがないでしょう。まだ、心臓がドキドキしている。もし、天明先生が気付いて声をかけてくれなかったらと思うとぞっとした。もしかしたら、わたしは今頃、悪夢の真っただ中にいたかもしれないのだ。
「問題ないなら、俺は行くが」
「待って……いかないで。怖いの。ひとりでいたくない」
藁にもすがる思いで、彼の白衣の裾をつかむ。こんなときにまこちゃんがいれば。彼ならきっと、わたしを優しく抱きとめて、安心させてくれただろう。
でも、いま、わたしの目の前にいるのは天明先生で。どうしてまこちゃんじゃないの。天明先生が『優しく抱きとめる』なんてするはずがない。
「……わかった」
天明先生はうなずくと、ベッドに腰を下ろした。右手を伸ばして、そっと手を握ってくれる。
「天明、先生……?」
「そんなに驚くことないだろ。行くなと言うから、こうして行かないでやったのに。いいんだったら本当に行くぞ?」
怒ったように言って、立ち上がろうとするので、わたしは慌てて止めた。
「まって、行かないで。もう少しこのままでいて。わかんないけど、なぜか、こうしていると落ち着くの。気が済んだらいつでも行っていいから」
「……はぁ」
天明先生は溜息をつきながらも、ずっとそばにいてくれた。案外優しい人……なのか? もしかして、心配してくれたとか? まさか。
「悪い夢でも見たか? ひどくうなされていた――こういうことは毎日?」
「……いいえ。最近はずっと見ていなかったわ。でも、昔はしょっちゅう見ていた。だいぶ良くなったと思っていたのに」
初めて夜勤を迎えるということが、わたしの中で相当なストレスになっていたのかもしれない。わたしに夜勤はまだ早かったのかも、と思ってしまう。
「よく頑張ったな」
ぽつりと、彼が言う。え?いまなんて?
「おまえ、自分に夜勤は向いてないとか思ってるだろ」
どきりとした。
「たった1回だろ。1回きりだろ。何年も克服して、それなのに、たった1回悪夢見た程度で簡単に諦めていいのか。おまえはそれで納得できるのか?」
「わ、たし……は……」
納得。できるわけない。ずっと夢に見てきた仕事なのだ。夜勤だってちゃんとこなせる看護師になりたい。
「わたしは……諦めたくない。ずっと憧れてきた仕事だもの。外来だけじゃなくて、病棟も、もちろん夜勤だってこなせる看護師になりたい」
わたしが言うと、天明先生はちょっと驚いた様子でこちらを見た。
「……驚いた。あんた、そんな熱い一面もあったんだな」
「悪い?」
「いや、悪くはないよ。ただ、あんたは院長のコネで就職した、お気楽な看護師だと思っていたから」
「コネは事実だけれど、それは、院長先生自身がわたしを買っていてくれたからだよ。幼馴染のお父さんだから、わたしが看護師を目指すようになったことも、そのためにどれだけ勉強したかも知ってくれているの。でも、そうだよね、何も知らない人には、そう見えちゃうよね」
ちがう、そうじゃないのだと、彼は首を振る。
「コネがあるのが悪いわけじゃない。立派じゃないか。業界のすごい人たちと人脈が繋がっているんだから。俺が言っているのは、おまえ自身に『仕事に対する熱意』があったことだよ」
「わたしにだって、熱意くらい、あるわよ」
「そうだよな……ごめん。完全に誤解していた」
わたしもそう。完全に誤解していた。彼は、いやな人間だと。でもそうじゃなかったのだ。
「……凛子」
「は?」
「わたしの名前。大内凛子っていう名前がちゃんとあるんだけど? わたしは『あんた』でも『おまえ』でもない。できれば名前で呼んでほしいな」
「……大内、さん」
うん。それでいい。
「天明先生は?」
「は? だから『天明』だろ」
「そうじゃなくて、下の名前。ほかの先生方やうちの看護師たちは全員フルネームを知っているけど、天明先生だけ聞かされてない。そういえば年齢も知らないわ」
「……それ、いる?」
「いるよ。大事なことだもん」
天明先生はひときわ大きな溜息をついたあとで、教えてくれた。
天明辰之、辰年生まれの35歳。同じ辰年生まれの芥川龍之介にあやかって「辰」を入れた名前をつけられたらしい。ちなみに一つ下、巳年生まれの弟さんの名前は雅巳だとか。うん。素敵な名前だ。
「小児科医を目指したのも、この弟が、幼い頃、入退院を繰り返すことが多くてな。このときに、子どもの医者になりたいと思ったのがきっかけなんだ」
「じゃあ……救えなかった弟さんのかわりに……?」
何の疑いもなくそう訊くと、彼は少し怪訝そうな顔をした。
「弟、生きてるぞ」
「え? だって今……」
「弟が病気にかかったのは、子どものころの話だ。いまはとっくに快復して、元気にサラリーマンやってるよ」
なんだ。そうか。そうなのか。
「……そろそろ戻るか。もうじき巡回の時間だろ」
「ええ、あ、はい」
わたしたちは病棟へ戻ったけれど、そのあいだ、天明先生はずっとわたしの手を握っていてくれていた。巡回を終えて先生が帰ったあと、奏絵さんからうるさいほどに勘繰られたのは、ここだけの話である。