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小児科病棟

 復帰後、わたしが配属になった先は、なんと小児科病棟だった。

 日中の外来診療だけを担当する外来看護師と、24時間体制で患者さんのケアをする病棟看護師というだけでも違うのに、まして、小児科。小児看護と成人看護でもだいぶ違う。本来の看護の知識に加えて、子どもとの接し方、すなわち幼児保育にも大いに関わってくる。それに、小児科といえば、子ども好きな看護師には配属の希望を出す者も多い人気の部署だ。そんな部署に、どうして? わたしは看護師経験もひと月ほどしかない。子どもを産んだこともなければ、保育の経験もない。

 疑問を浮かべたままで待ち合わせの場所に行くと、150cmくらいの小柄な女性が待ってくれていた――彼女が師長? だいぶ若く見える。まだ30代か、多く見積もっても40歳くらいだろうか。確か、師長になるには主任経験が5年程度必要で、主任には看護師としての実務経験が10年は必要だと聞いたことがある。とすると、この人は15年以上は勤めているのだ。ならいくつ? 新卒で入職(入社)したとして、若くても38歳くらい? それにしても若く見える。彼女は、なんというか、そう、小柄な身長のせいもあるのだろうけれど、年齢というものを感じさせなくて、どこかあどけない少女のようで、わたしはそんな彼女から目が離せなかった。

「オオウチ……凛子、さん?」

「あ、すみません。オオウチではなくて、大内(おおち)と読みます」

「ごめんなさい、オオチさんね。覚えたわ。わたしは小児科病棟の師長で、弓張(ゆみはり)万見子(まみこ)といいます。あなたのことは院長先生から聞いているわ。復職したばかりで不安だと思うけれど、しっかりサポートさせてもらうつもりでいるから、よろしくね」

 そう言って師長は、にこりと笑う。笑顔のかわいい人だ。それにとても優しそう。わたしはちょっとだけ安心した。上司となる人が怖い人だったらどうしようと思っていたけれど、どうやら、その心配はなさそうだ。

「更衣室の場所やクリーニングについては、知っているのよね。それとも、もう一度説明しておく?」

「いえ、大丈夫です」

 6年前勤めていたときにも、ここの女子更衣室は使ったことがある。クリーニングのシステムについても同じだ。

「そう。大内さんも知ってのとおり、このドアの向こうが女子更衣室になるわ。新しいロッカーは、ドアを入って右手の、3番目の通路を左へ行ったところよ。それから、これが新しい制服。着替えたらまた声をかけてね。病棟まで案内するわ」

「はい」

 真新しい制服スクラブを受け取って、更衣室に入る。この部屋に来るのも久しぶりだ。スクラブに袖を通すのも。なんだかくすぐったい感覚に陥るけれど、これから新しい人生がはじまるのだとワクワクしている自分がいた。

「すみません。お待たせしました」

 スクラブに着替えて、長い髪をまとめて部屋を出ると、弓張師長が、さっきまでと同じようにドアの前に立っていた。わたしの姿に気付いた瞬間、パッと顔を上げて目を輝かせる。

「わ、大内さん似合う……! すごくかわいいよ!!」

 師長の反応ときたら、まるで、推しを目にしたときのオタクそのものである。なにそれ。わたしからしたら、そんな師長のほうがかわいいんですけど……!!

「看護師のことを『白衣の天使』って呼ぶことがあるけれど、大内さんは、まさに『白衣の天使』だね」

 だ、か、ら……ッ!!!

 かわいいのは、わたしじゃなくて、師長のほうだっての!!

 いまのセリフだって「天使だね」じゃなくて「天使だね(はぁと)」だったもの。こんなかわいすぎる上司、反則でしょう!?!?


 二人で並んで小児科の病棟まで歩きながら、いろいろ話をした。小児科病棟のこと。患者さんのこと。ナースステーションで働くほかのスタッフのこと。その流れで師長の年齢の話になり、実は、彼女が今年で42歳だということを知った。

「えぇ!?」

「……そんなに驚く?」

「だ、だって、全然見えなくて……てっきり、まだ30代なのかと……」

 これはお世辞ではなくて、れっきとした本心だったのだけれど、少しでも若く見られたのが嬉しかったらしい。師長はふふっと微笑むと、そっか30代か、と呟いた。

「わたしは年相応だと思っていたけれど、実際にそう言われると、悪い気はしないわね。ふふ。お世辞でもありがとう。嬉しいわ」

 それから、話を進めていくうちに、今度はわたしの大学時代の話になる。

「幼馴染が医者の息子というものあって、もともと医療とか看護の道には興味があったんですけど、一番は、わたしが高校生のときに、父親が大病を患ったことが大きいと思うんです。わたしが看護していたわけじゃないんですけど、父の付き添いで病院に行くことも多くて。そのときに、看護師さんたちの働く姿を見て感動を覚えたというのが一番の理由ですかね。看護師になるために一生懸命勉強して、大学に受かったときは、真っ先に父に連絡しました」

「お父様、喜んだでしょうね」

「ええ。でも……」

 父は、わたしが大学に入学して1年後に、他界した。入学式での姿を見せられたのは、せめてもの救いだったと思う。けど、できることなら、卒業して、ちゃんと『看護師』として働いている姿を見せてあげたかった。いまさら言ってもどうしようもないけれど。

「あ、待って、大内さんの出身大学ってたしか……」

「はい。聖クリミア大学です」

 聖クリミア大学。かつて、クリミア戦争で活躍し、「クリミアの天使」とも呼ばれた近代看護の祖ナイチンゲールに由来する女子大だ。毎年、何十人という数の未来の看護師が誕生し、巣立って行く。わたしの自慢の母校でもある。

「やっぱり! そうだよね、聖クリミアだよね。嬉しいなあ。実は、わたしもなの。わたしも、その聖クリミア大学の卒業生なのよ」

「え……えぇっ!?」

 本日、2度目の驚き。

 まさか新しい職場の上司が、母校の大先輩だったなんて……!?



***


 病棟に着くと、ナースステーションの中には既に看護師たちが集まっていて、朝礼がはじまっていた。

「みんな、おはよう。新しい子、連れてきたよ」

 師長が言うと全員一斉に振り向く。こういう統制の取れたところは、さすが看護師だ。

「あら可愛い子ね。まだハタチくらい?」と答えたのは、中でも年配の女性、たぶん40代くらいか。若干パーマのかかったショートカットが特徴の、背の高い女性である。

「大内凛子です。28歳……、今年で29歳になります」

 わたしが言うと、ほかの看護師たちの「見えない」「若く見えるね」という声が口々に飛ぶ。師長も若く見えたけれど、わたしのそれはたぶん違う。わたしの場合『若く見える』というよりは、もともとの童顔と経験不足からなる『未熟さ』が際立っているのだと思う。つまりは子どもっぽい、大人になりきれていない、ということ。悔しいけど反論はしない。事実だから。

「凛子ちゃん……なら『リンちゃん』ね」

 さっきのオバチャン看護師が言う。彼女が言うと、ほかの周りの看護師が一斉に同意して、あっというまに、わたしの愛称は『リンちゃん』に決まってしまった。

 すごい影響力を持つこの人は、この小児科病棟の看護主任、つまりわたしの直属の上司にあたる人だった。名前は鈴木すずき光子みつこ、43歳。高3と高1、中3の3人の男の子のママでもある。なんというか、もう、絶対勝てる気のしない人だ。勝とうとも思わないけれど。

「俺は水野みずのわたる、35歳、独身! ちなみに彼女なし! 気軽に『わたるさん』って呼んでくれ!」

 そう明るく話しかけたのは、今日出勤しているなかで唯一の男性看護師、水野さんだ。ガタイの良いお兄さんで、スクラブからはみ出した腕が筋肉で隆起している。背も高くて、パッと見で180cm近くありそうだ。

「でたよー、水野ちゃんの女あさり! かわいい新人が入るとすーぐ、言うんだよねー。言うて彼女ができた試しがないんだけど……」

「おい大野おおの、それが先輩に対する口の利き方か!?」

「ひえっ。ごめんなさーい」

 水野さんがわざと怒ったふりをすると、大野と呼ばれた若い女性は大袈裟に驚いたふりをして隣の女性の後ろに隠れた。

 その女性のうしろからひょっこり顔を出して、彼女は続ける。

「あたしは大野希未(のぞみ)。24歳。こー見えて、看護師4年目なの。わからないことがあったら力になるから、なんでも聞いてね?」

「ノンちゃんは専門卒だからね」

 専門卒、というのはいわゆる4年制の看護系大学や3年制の短期大学などではなくて、3年制の看護専門学校を出ているという意味だ。ほかにも、中学を出てすぐに看護科のある高校に入るとか、准看護師になってから看護師の国家試験を受けるとかいろいろあるけれど……それはまた別の話。

「フンッだ。あたしはどーせ、ビンボーですよー。奨学金制度がなかったら看護師になれなかった身ですし? 未だに奨学金返せてませんし?? お給料だって安いですし??? あーあ。あたしも奏絵かなえさんみたく、お金持ちの家に生まれたかったなー」

 その奏絵さんは、さっき大野さんが影に隠れた、落ち着いた雰囲気の女性だった。

「あら。わたしだって、ノンちゃんの若さがうらやましいわよ。若くして業界に入って、しかも、仕事もできるなんて、文句なしでしょ。何が不満なのよ」

「奏絵さんはもう32ですもんね?」

「そうよ……、て、うるさい!! 32にもなってまだ結婚してないとか、彼氏すらいないとか、余計なお世話よ!!」

 おとなしい人かと思ったら、意外と、子どもっぽいところもある。かわいい人だ。

 そんな奏絵さん――中川なかがわ奏絵さんは看護師10年目。病棟では頼りになるお姉さん的存在らしい。まあ、ちょっぴり抜けた一面もあるようだけれど。

 最後はひとりだけスクラブの色が違う女の子、看護助手ヘルパー小林こばやしさんだ。

「あたしは小林珠恵(たまえ)。21歳。看護助手をしてるの。保育士の学校を出てて、保育士の資格もってます。この業界には入って2年目だから少しだけ先輩だけど、お互い、頑張っていきましょうね」

「あたしたちは『たまちゃん』って呼んでるよー」

 みんな、本当に仲が良い。新入りにもウェルカムという雰囲気で、ここなら馴染めそうだな、となんとなく思った。

「よ、よろしくお願いします……」

「そんなに硬くならないで? リラックスしていきましょう」

 師長が言うとみんながドッと笑い出して緊張がほぐれる。やっぱり、この人はすごい人だ。

 それから軽く申し送りを済ませて――


 朝の巡回に行く前に、師長と二人で入念な準備を行っていたところ、ナースステーションの向こうから歩いてくる人影に気付いた。

「あら、早かったわね」

 師長が振り向いたので、つられてわたしもそちらを見る。そこには、白衣を着た二人の男性――背の高い、体格のいい男性と、それよりも頭ひとつ分小さい小柄な男性――が立っていた。

「弓張さん、そいつが例の新しい奴?」

 小柄なほう――いささか目つきの悪い無愛想な男が、ぶっきらぼうに話しかける。

「そう。大内凛子さん。28歳の新人さんなの。わからないことも多いと思うから、いろいろ助けてあげてね」

「ふうん」

 男は、そう言って値踏みするようにわたしを見た。なに。なんなの。なんか嫌な奴。こんな男が医者? それも小児科の? 子どもは怖がって近づかないんじゃないかしら。どうして小児科医になんてなれたんだろう。

「28で新人? 看護師だろ。いままで、何やってたわけ?」

「え、えっとぉ……」

 男の射るような視線に気圧けおされて、わたしはしどろもどろになる。だが、そんなところも彼にはお気に召さなかったらしい。

「……はぁ。大丈夫なのかよ、こいつ。そんなんで、この先、やっていけると思ってんの? 医療の現場はおまえが思っているよりも数倍、過酷だぜ? 仕事ナメんじゃねえよ」

「う……」

 痛いところを突かれた気分だった。ド正論すぎて、ぐうの音も出ない。新卒のとき、早々にリタイアして看護師を辞めたことがここまで響いてくるとは思わなかった。

「ちょっと、天明てんめい君! 大内さんはブランクがあって復職したばかりなんだから……」

 慌てて師長があいだに入ったけれど、無駄だった。

「関係ねえよ。要は本人の気持ちの問題だろ。俺は、生半可な気持ちで患者さんに向き合ってほしくないだけだ」

 つまり、天明先生は、医療に対してそれだけ本気で向き合っているということだろう。そういうところはわたしも見習わなくてはいけない。わたしも本気で社会復帰するつもりなら、それくらいの覚悟はしなければいけないということだ。

「まあ、天明先生はちょっと口は悪いかもしれないけれど、医者としては優秀な人だから」

 もうひとりの先生が言う。それに対して天明先生は「()()()()()()」は余計だ、と言ってそっぽを向いてしまった。

「僕は、望月もちづき朔太郎さくたろう。44歳。『朔太郎』という名前は、僕の父が詩人の萩原朔太郎のファンで、それにあやかって名付けたんだ。結構気に入ってるよ」

「さくちゃんは、中高と柔道部だったのよね?」

「そうそう。それで、大学はラグビー部な。おかげで肩幅と190cmの長身には恵まれたよ。筋トレの回数はあの頃より落ちたけれど、腹筋とプランクだけは毎日欠かさずやってるよ。この仕事は体力勝負だからな」

「……単に筋肉バカともいう」

 天明先生が横槍を入れる。

「おい! 誰が筋肉バカだって!?」

 言われた望月先生はわざと怒ったように言って、胸倉をつかんで殴るふりをした。天明先生がぎくりとした顔をする。師長はそれを見て笑っていた。なんだかんだで仲が良い二人なのだろう。うん、いいコンビだ。

「……望月先生は血の気が多すぎんだよ。だから15年も彼女がいなかったんじゃないの」

 乱れた襟を直しながら、天明先生は不満そうにつぶやく。それを見た望月先生がまたムッとしたように言った。

「血の気が多いのはおまえのほうだろう!? それに、血の気が多いことと、彼女がいないことはまったく関係がない!!」

「さぁどうだか」

「なにをぅ!? またやられたいのか!?」

 愉快な先生たちだ。気づけば、わたしも自然と笑顔になっていた。わたしがまこちゃん以外の人の前で笑顔を見せたのは、それこそ、看護学生だった7年前以来のことだった。

「どう? これからやっていけそう?」

 師長が訊く。わたしはその言葉に、力強くうなずいてみせた。

参考:


看護師向け 診療科の選び方解説 (ナース専科 就職ナビ)

https://recruit.nurse-senka.com/html/content/article/1571


看護主任・看護師長・看護部長の役割 (ジョブデポ)

https://j-depo.com/kanrisyoku.html


Yahoo!JAPANしごとカタログ「看護助手」

看護助手の仕事内容、夜勤の有無など (医療事務求人.com)

https://ijiwork.com/column/column-1604205


看護職になるには (日本看護協会)

https://www.nurse.or.jp/aim/become/


Toshin.com 職業案内サイト「未来の職業研究-医師」

https://www.toshin.com/mirai/joblab/job2/

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