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「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?

 幼馴染の『まこちゃん』こと拝田はいだ誠仁まことが駆けつけたときには、わたしは既に茫然自失になってその場にうずくまっていた。

「凛子、大丈夫か」

 まこちゃんは優しく声をかけたあと、()のほうにちらりと目をやって、それからわたしの肩を抱くと安心させるように言った。

「大丈夫だ、凛子。ヤツのことは僕がなんとかする。凛子は心配しなくていい。凛子は何も悪くないんだ」

「ま、まこちゃん……でも、わたし……」

 わたしは何か言葉にしようとしたけれど、言葉にならなくて、彼の腕の中で震えることしかできなかった。

「もう何も言わなくていい。何も言わなくていいから」

 まこちゃんは、わたしの就職先に例の大学病院を推薦してくれた人だ。病院長も務める優秀な内科医だった拝田先生の息子で、自身もリハビリ病棟の作業療法士として勤務している。

 そしてこの大学病院は、わたしが、元カレ――龍くんと出会った病院でもあった。龍くんは病院内でもかなりの有名人だ。いい意味でも、もちろん悪い意味でも。同じ病院に勤務していて、拝田先生の息子でもあるまこちゃんが知らないはずはない。

「あいつは、どうしようもない奴だった。最初から、こうなる運命だったんだよ」

 まこちゃんは龍くんの死体を見下ろしながら、ありったけの侮蔑をこめて言い放った。

「凛子は殺してなんかいない。ヤツは()()()()()()()()()()()()

 あとのことは覚えていない。覚えているのは、使い者にならなくなったわたしの代わりに、まこちゃんがほかのすべての後始末を請け負ってくれたことだけだった。



***


 ひとりにしておくのは心配だから、とまこちゃんの家で暮らしはじめたわたしは、彼の勧めで精神科の診断を受け、医者からPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断された。元カレの死を間近で目撃したことが、どうもわたしの脳内でトラウマになっているようだった。

 龍くんに()()()()まで、病院近くのアパートでひとり暮らしをしていたわたしに、親はいない。両親は幼い頃に離婚し、引き取ってくれた父親も、わたしが大学生のころ病気で亡くなってしまった。だから、わたしが頼れる人といえば、幼馴染のまこちゃんしかいなかった。まこちゃんはわたしよりも8歳年上で、近所に住む、優しいおにいちゃんだ。そして、何を隠そう、わたしの初恋相手でもあった。

 まこちゃんは優しい。今だって、わたしを気遣って自分から同居を申し出てくれたのだ。わたしも、まこちゃんがいなかったら、あのまま命を絶とうと考えていたかもしれない。

「……ありがとう、まこちゃん」

「何が?」

「わたしのことを守ってくれて、感謝してるよ。まこちゃんがいなかったら、わたし、きっと死んでたもん」

 きっと、まこちゃんはいい先生なのだと思う。作業療法士として、身体的に、ときに精神的に、病気を抱えて社会復帰を目指す人たちの心の支えになる。誰でもできることではない。それが、PTSDと診断されてはじめて、わたしも気づくきっかけになった。

「そんなの当たり前だろう。凛子は大切な幼馴染だ。その幼馴染が困っていると知ったら、どこまでだって飛んでいくさ」

 まこちゃんは、わたしに、いつでもこの家にいていいよ、と言った。いてくれるだけで構わない。仕事も家事も無理にやらなくていいからと。精神治療中なのだからしかたがない、とも言った。

 だけど、家に置かせてもらっておいて何もしないというのも悪いので、家事だけは毎日やっている。幸い、元カレのもとにいた時期も『家事だけは』毎日やっていた身だ。いきなり仕事に復帰するのは厳しいと思うけれど、これくらいは、わたしにだってできる。

 それに……いまは少しでも、まこちゃんの役に立ちたいから。

「……そうか。なら、凛子に任せるよ」

 でもくれぐれも無理はしないで、とまこちゃんは釘を刺した。わかってる。まこちゃんはわたしを心配してくれているんだよね。ごめんね。迷惑なんてかけたくないのに、わたしは彼を心配させてばかりいる。本当にダメな人間だ。


 ダメな人間じゃないと、そう思ってはいけないと、主治医からも常々言われている。まこちゃんにも言われることがある。

 だけど、時々、どうしようもなく考えてしまうのだ。

 周りに迷惑をかけて、まこちゃんにも迷惑をかけて、わたしは一体なにをしているのだろう。わたしなんて生きている意味もないんじゃないか。看護師になってひと月も満たないうちに病院を辞めて、元カレに依存した生活を続けて、いまは、まこちゃんに依存しながら生きている。

 こんなわたしが、幸せになる資格なんて――きっと、ない。


 それからは、精神治療の一環で、まこちゃんの休日に二人で過ごすことが多くなった。

 テーブルゲームにパズルゲーム。二人でキッチンに立って料理をすることもあったし、近所のアミューズメント施設まで出かけて一日じゅう遊び回ったこともあった。ボウリングはボロ負けだったけれど、学生時代夢中になったテニスだけはわたしのほうが上手くて、二人で大笑いしたり。動物好きなわたしを気遣って、動物園まで連れて行ってくれたこともあったっけ。うさぎのエサやり体験をしようとしたら、途中でばらまいてしまって、うさぎちゃんたちに囲まれて大変なことになったのだ。念願の犬カフェにも行った。それに猫カフェも。

 気づいたら、わたしはまこちゃんといるときだけ、昔のように、自然と笑えるようになっていた。

 こうして自信をつけて、できることが増えていって、わたしひとりでも暮らせるようになれたなら、また、もとのように看護師として働ける日が来るのだろうか。看護師でなくても構わない。コンビニのバイトでも、スーパーのレジ打ちでも、それこそ清掃のオバチャンであったって、社会に出て働ける日が来るのなら、わたしはなんでもやるつもりだ。


 そう思い続けて――

 5年の歳月が過ぎた。長すぎる、と思うだろう。けれど、わたしが社会復帰するためにはそれまでの道のりは険しくて、一筋縄ではいかなかった。

 辛抱強く精神科に通い続け、まこちゃんの支えもあって、だいぶメンタルは回復しつつあったものの、まだ問題は残っていた。

 例のトラウマから来る、日常的な悪夢である。

 起きているときはいくら体調が良くても、一旦、深い眠りについてしまうと、そのあとのことは制御が利かない。わたしはあの事故があった日から、頻繁に悪夢を見るようになっていた。


 夕暮れどき、マンションの廊下。追いかけられるわたし。追ってくるのはもちろん彼だ。腕を捕まれ、もみ合いになって……思わず振りほどいた拍子に、階段を転げ落ちていく彼の姿が見えた。赤い血溜まり。仰向けに倒れる彼。わたしはあの日と同じように、何もできずに立ちすくんでいる。わたしは無力だ。


 目を覚ますと、わたしは全身汗びっしょりになって、自分のベッドに横たわっていた。心臓が早鐘を打ち、まぶたの裏には夢で見た光景が今もまだ焼き付いている。

「まこちゃん……まこちゃん、どこ?」

 不安で怖くてたまらない。そんなときは、家のどこかにいるはずの、幼馴染の姿を懸命に探した。呼び続けていると、まこちゃんはどこからともなくさっと飛んできて、わたしの手を握ってくれた。

「まこちゃん……」

「大丈夫……大丈夫だ、何も怖くないよ、僕がそばにいるから」

 薬を処方してもらって、悪夢は減った。でもまだ、時々見ることもある。そんなときは、必ずまこちゃんがそばにいてくれて、こうしてわたしの気の済むまで手を握ってくれていた。

 まこちゃんがいなければ、わたしはたぶん生きてゆけない。


 なのに、これはどういうことだ。


「なんて言ったの? まこちゃん、が、この家を出る……?」

 耳を疑った。

 でも、彼の表情は真剣そのもので、わざと冗談を言って困らせているようには見えない。そもそも、まこちゃんのような人が、冗談でもこんなことを言うとは思えなかった。

「いま言ったとおりだよ。僕はこの家を出る。引っ越しが決まったんだ」

「そん、な……っ、どうして、急に……」

 凛子のためならどこまでも行く、と言っていたのは嘘だったのか。わたしはどうなるの? もし、また悪夢を見るようなことがあったら、どうすればいい?

 引っ越すつもりがあるのなら前もってそう言ってほしかった。そしたら、わたしだって覚悟ができたかもしれないのに。まこちゃんは勝手だ。

「ひどいよ。わたしはどうなるの? わたしのこと、見捨てるつもり? もしかして、嫌いになった? それで出て行くの?」

「……違うよ。でも、ごめん。凛子にはちゃんと話すべきだった」

 まこちゃんは(こうべ)を垂れたあとで、ゆっくりと話してくれた。

 少し前から、関連病院への転勤の話が来ていたこと。それがいまの家からはちょっと遠くて、通うには1時間近くかかること。もし転勤を受け入れるならば、ここから通うより、新しく転勤先の病院の近くに家を借りてしまったほうが早いこと。

「もっと早くに話すべきだった。でも、このことは自分でもまだ決めかねていて、なかなか言い出せずにいたんだ」

「わたしのせい? わたしがいたから、言い出せなかったの?」

 だとしたら、とんだ疫病神ではないか。彼の人生を奪って、台無しにしようとしている。そんなわたしに、彼を引き止める資格なんて、ある?

「そう……、いや、ちがう、そうじゃない。凛子は悪くないよ。優柔不断すぎる僕がいけないんだ」

 嘘つき。いま、一瞬、頷きかけたくせに。

「まこちゃんはどうしたいの? 行きたいの、行きたくないの? もし行くつもりがあるのなら、わたしはどこまでもついていくよ」

 完全に、ついていくつもりで答えていた。

 けどそれが間違いだった。

「……凛子、悪いけれど、君は連れていけない。職場が変われば忙しくなるし、君の面倒を見るのも難しくなる。君だって、見知らぬ土地で慣れない環境で暮らすのは嫌だろう。向こうからじゃ通院するのも厳しくなるだろうし、主治医も変わることになるかもしれないからね」

 つまり、それは。

「まこちゃんだけ行って、わたしはここに置いてけぼりってこと?」

 たったひとり残されて、これから、どうやって生きていけばいいというのだろう。仕事は? 生活は? もし、また悪夢を見ることがあったら、ひとりでどうやって耐えればいいの?

「……ひどい。まこちゃん、ひどいよ」

 堪えていた涙が、ぽつり、ひざに落ちた。

「凛子は大丈夫。もう、十分にひとりでやっていけているから」

 まこちゃんは、安心させるように、そう言って笑ってみせる。だからなんだと言うの。ひとりでやっていけているから、もう、自分がいなくても大丈夫だと?

「勝手だよ。わたしのこと、守ってくれるんじゃなかったの? どうして、わたしが安心して社会復帰できるようになるまで、そばにいてくれないの?」

「……大丈夫。大丈夫だから」

 大丈夫じゃないよ。わたしが聞きたいのはそんな安っぽい言葉なんかじゃない!!

「父さんのツテで、凛子がまたうちの病院に復帰できるように話はつけてある。新しい職場の師長にはその辺りの事情も説明してあるから、心配はいらないよ。優秀な人だから、きっと君の力になってくれるはずだ」

 その言葉を最後に、まこちゃんは、転勤先の病院へ移っていってしまった。


 まこちゃんのバカ。

 わたし、まこちゃんが思うほど、強くも偉くもないよ。ひとりでなんて生きてゆけない。わたしの人生には、まこちゃんがいなきゃダメなの。

 置いていかないで――そう、泣いてすがればよかったのだろうか。

 でも、わたしのわがままで、これ以上、彼の人生を邪魔したくはなかった。


 それが、28歳の春。療養生活6年目の出来事だった。

 わたしは意図せずして、大学病院への復職を余儀なくされたのだ。

犬カフェ…愛犬を連れて入店できる「ドッグカフェ」とは異なり、お店の犬と触れ合うためのお店。猫カフェの犬版。ちなみにキャッツカフェは愛知の喫茶チェーンで、猫がいるカフェではない。



参考:


PTSDとは? (eヘルスネット)

https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/dictionary/heart/yk-076.html


抗うつ薬の種類や効果など (NHK健康ch)

https://www.nhk.or.jp/kenko/atc_204.html


家族や友人がPTSDになったら (厚生労働省)

https://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_ptsd_sub2.html

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