プロローグ
はじめからモテる人だった。
うちの病院の医師たちの中でも一、二を争う美形で、外科医としての腕も評判がいい。そんな彼のまわりには、自然と、たくさんの女の子たちが集まってくる。看護師だけじゃない。看護助手も、受付の女の子も、時には患者さんまで。若くて独身の女の子たちに偏っているのは、少なからず、恋愛目線で彼を見ている子たちがいるという何よりの証拠だろう。
だからこそ、はじめて声をかけられたとき、ちょっと浮ついてしまったのだ。
わたしはそのころ、大学を出たばかりの新人の看護師だった。
幼いころからあこがれていた看護師。大学の講義も実習も一生懸命がんばって、むずかしい国家試験だって受けて、ようやく手にした夢の仕事。だけど、幼馴染のツテで大学病院への就職が決まって、いざ、配属になってみると、現実は思ったよりも厳しくて……。とにかく忙しい。やることが多すぎる。家に帰れば、ゆっくりと休む暇もないくらい、ぐったりと疲れてベッドに倒れ込んでしまう日々。もしかしたらわたしには向いてなかったんじゃないかって、つらくなる日もあった。
声をかけられたのは、そんなつらい日々が続いた最中のことだった。
だから、つい、くらっときてしまった。
――大丈夫?
――相談、乗ろうか。
あとから聞いた話では、彼は一度目をつけた女の子には決まって言う文句があるらしい。それが『相談乗ろうか』だった。親身になって相談に乗るふりをして、それで、相手がこちらに夢中になったところを、何もかも奪っていく。貢がせて従わせて、そうして何もなくなったところをあっさりと切り捨てるのだ。まったくひどい男だと思う。
だけど、愚かなわたしは、それも全部彼のためになるなら、と信じて疑わなかった。
「仕事が辛いんだって? なら、俺のところに来たらいいよ。君の面倒はすべて俺が見る。決して苦労はさせないから」
彼からそう言われたとき、はじめ、彼はわたしを今の配属先から異動させてくれるのだとばかり思っていた。信じられない。彼にそんな権限なんてあるわけがないのに。
でもわたしは頷いてしまった。
それ以上に、わたしはもう、この人に恋をしてしまっていたのだと思う。
一番辛いときに、声をかけてくれた人。イケメンで腕も良くて、病棟のほかの看護師が全員好きになるような人気者。そんな人が「君の面倒はすべて見る」と言ってくれているのだ。
わたしは誰かに甘えたかった。
思いっきり甘えて、もう大丈夫だよ、って言ってほしかった。
仕事を辞めたのは彼の希望だ。
「俺が養うから、家のことはすべて君がやってほしい」と言われて、それってなんだか奥さんみたいだと笑っていたのは初めだけのこと。
実際に暮らしてみたら二人で過ごす時間なんてのはまるでなくて、彼はほとんど仕事でいないか、オフの日だとしてもひとりどこかへ出かけて遊び惚けている。帰りが遅くなる日も多くなった。それは単純に当直や残業の回数が増えただけなのかもしれないけれど、わたしの知らないところで知らないことが行われている可能性もある。もしかしたら、彼は最初からわたしと付き合うつもりなんてなくて、ただ単に、体のいい家政婦がほしかっただけなのかもしれないと、最近は思うようになっていた。
そんな風に半ば事実婚みたいな状態が続いて――、早1年。
もう、限界だった。
これ以上、彼とは暮らせない。
そう思って話を切り出すと、案の定、彼は不機嫌そうに舌打ちをしてわたしを責めた。
「出て行ってどうすんの? おまえみたいな女が、ひとりで暮らして生きていけるとでも? 俺が養ってやらなかったら、餓死だよ、餓死! わかってんの!?」
初めて会ったとき優しかったはずの彼は、この1年で嘘みたいにボロボロと仮面がはがして、あっというまに本性をあらわにした。たぶんこっちが本当の彼なのだろう。女を使い捨ての道具にしか思っていない。相手が自分と同等の人間であるなんて、これっぽっちも思っていないみたいだった。
「……わかってるよ。龍くんには感謝してる。でも、わたしひとりで暮らしていけるってことを証明したいの」
言った瞬間に、髪の毛をつかまれて激しく振り回された。
「ふざけんなよッッ」
「きゃぁ!」
これも、この1年で変わったこと。一緒に暮らすようになってはじめて、彼は、わたしに手を上げるようになった。味噌汁の温度がぬるいと、お椀をひっくり返して中身の汁を浴びせる。掃除が行き届いてないと言って何回も拭き掃除をさせる。洗濯物のたたみかたが甘いと言って何度も畳み直させるといったこともあった。ほかにも、気に入らないことがあるとすぐに暴力をふるった。仕事で嫌なことがあった日は特に顕著だ。いつしか、わたしは彼の恰好のサンドバッグになっていた。
「ごめんなさいごめんなさい……もう言わない、だから許して……」
「謝れば済むと思ってんのか!?」
「ごめんなさいごめんなさい……謝るから……おねがいもうやめて……」
泣いて懇願すると、ようやく、彼は手を離してくれた。
「……まったく。仕事のできないおまえを引き取って養ってやっているのに、飼い犬に手を噛まれたような気分だよ」
わたしは看護師に向いていなかった。こうして彼に拾われなかったら、あのまま過労で死んでいたかもしれないのだ。その点は感謝している。
でも。
「どうせ、顔しかとりえがないんだから、黙って従ってろよ」
彼のもとに囲われていなかったら娼婦にでもなるしかないと言われて、言い返せなかった。大学時代も勉強しかしてこなかったわたしは、そもそも、バイトというものを経験したことがない。いまさら転職したところでうまくいくはずがないのなら、このまま彼のもとにいたほうがいいというのは賢明な判断だった。
でもね、わたし、知ってるんだよ。
龍くんには、ほかにも付き合っている人がいるってこと。
見てしまったの。
ほんの2日前、買い物しようと寄ったスーパーでの帰り道、腕を組んで歩いている彼と若い女の子の姿を。
――あの子、誰?
聞こうと思ったけど、聞けなかった。だから代わりに聞いてみた。
「わたしのこと、愛してる?」
「なんだよ急に」
「大事なことなの。お願い答えて。わたしのこと、まだ愛してる?」
「……何をいまさら。そんなの当たり前じゃないか。もちろん愛してるよ」
あの日と同じ笑顔で、彼は笑う。それで、気付いてしまった。彼は、わたしが思っているほど、わたしを愛していないのだと。
わたしだって、そう、愛してはいない。もう二度と愛することもない。
お互いに仮面をかぶったままの関係で、最初から、うまくいくはずなんてなかったのだ。わたしは大馬鹿者だった。
「……ちょっと出かけてくる。すぐに戻るから」
わたしはスマホと財布だけが入ったポシェットを手に取ると玄関に向かった。すぐに戻るなんて嘘だ。わたしはこのまま、家を出てどこか遠くまで行こうとしている。彼の手の届かないところへ。体力とお金が尽きる限り、どこまでも行こうと考えていた。自分ひとりで生きたこともないのに無謀すぎると笑われるかもしれないけど、それでも良かった。
「おい、待てよ!」
何かに勘づいたらしい彼が慌てて追いかけてきたけれど、もう遅い。ここはマンションの廊下だ。わたしが一言大声で叫べば、たちまち誰かが聞きつけて出てきてくれるだろう。そしたら彼もおしまいね。表では『女性に優しい』はずの彼が、裏では女を追い回して暴力をふるっていると知れたら――。
「もう決めたの。わたしは龍くんのところには戻らない。戻るつもりもないから」
「おまえ、誰に向かって……」
「さよなら龍くん。いままでありがとう。愛してたよ」
最後に振り向いたとき、できるだけ笑顔を取り繕うとしたけれど、うまく笑えていただろうか。
「じゃあね」
もう一度振り返って、足を踏み出そうとした、そのときだった。腕をつかまれて引き戻された。
「リン」
やめて。その名前で呼ばないで。
毎晩、耳元でささやいてきた甘い声。優しい手つきでわたしを抱いた彼の姿を思い出してしまう。忘れたいのに、忘れたくない瞬間が、目に焼き付いて離れなかった。
「行くなよ、リン。悪かった。だからやり直そう。俺にはおまえしかいないんだよ」
……本当?
本当の、本当に、信じてもいいの?
「愛してるよ、リン」
ちがう。いや。こんなの嘘。やめてよ。じゃなきゃわたし、一生、彼から離れられない。
「やめて……」
腕を離そうとしたけれど、思いのほか、強い力でつかまれていて、うまく振りほどけなかった。
「お願い。離して。わたし、自由になりたいの」
そう言っているあいだも、わたしは、なんとかして拘束から逃れることができないかともがいていた。
もがくうちにちょっとずつ足元がずれて、いつのまにか階段の近くに来ていたけれど、関係ない。むしろ逃げようとしているわたしには好都合だ。よし、このまま腕を振りほどくことができたら、そのまま階段を駆け下りて……。
きっと、火事場の馬鹿力とはこういうのを言うのだろう。懇親の力を振り絞って、とうとう、わたしは腕を振りほどいた。
と、その瞬間に、勢いよく駆け下りていく彼の姿が見えた。足で、ではない、身体全体で、である。
つまり、階段を転げ落ちていく彼の姿が、そこにはあった。
転げ落ちて、踊り場まで落ちていった彼の身体は仰向けに倒れて、頭からは真っ赤な血がどくどくと流れていた。
「……龍くん?」
返事はない。
慌てて駆け寄ったけれど既に意識はなくて、彼は口をあんぐりと開けたまま、目を見開いて空を見上げている。
それで、もう、パニックになってしまった。
すぐに救急車を呼べばいいのに、わたしの震えた指は、唯一信頼できる幼馴染のカレに電話していた。
〔凛子? どうしたんだ?〕
ハスキーがかった、低く、落ち着いた声。この声を聞くと不思議と安心する。
「どうしよう、まこちゃん……わたし……わたし……」
〔落ち着いて。まずは何があったのか教えてくれ〕
そう言われても、目の前に死体があったのでは、落ち着けるはずがない。わたしの頭は完全にパニックになっていた。
「まこちゃん、わたし……人を殺してしまったかもしれないの……」
人生の終わりを告げる鐘が、ずっと、頭の中で鳴り響いていた。