海になった奈波
どれほどの距離を泳いだだろうか。
バチバチと強く打ち付ける雨にも、ワタシたちをすっぽりと吞み込んでしまう大波にも文句を言わず、奈波はただじっとしている。
ワタシの背中に胸を押し当てて、ただじっとその時を待っている。
背中に感じる奈波の鼓動が心なしか弱くなって気がした。
目的の場所まではあとどのくらいだろうか。
早くしないと。人間の身体ではこの冷たい海に耐えられないのかもしれない。
いつもは海底の景色を頼りに泳いでいたけれど、今日は奈波を乗せているからそれができない。
特にこれといった目印もない、荒れた海の上では自分が本当に目的の場所に近付けているのか確証が持てなかった。
しかし、今は信じて泳ぐしかない。
その時、グンと身体を強く引き寄せられる感覚があった。
――これだ!
ついにワタシが探していた海流に辿り着くことができたようだ。
奈波もそれに気付いたのかわずかに顔を上げる。
――もうすぐだよ。
声が出せない代わりに、表情と身振り手振りで奈波に知らせる。
奈波もこくりと頷いてくれた。
「ありがとーね」
今までに聞いたことのない奈波の弱々しい声。
奈波は確実に体力を消耗している。
そして、ワタシも。
ここまで波が荒れ狂っている時に泳ぐのも、誰かを背負って泳ぐのも初めてだった。
でも、ここで力尽きるわけにはいかない。
目的の場所に向けてひたすら水をかき続ける。
本当は腕も尾ひれももう動かせないほど重い。
感覚なんてとうの昔になくなってしまった。
それでも泳ぎ続けられるのはワタシを信じて身を任せてくれる奈波がいるからだ。
今に島が見えるよ。
だから奈波もあと少しだけ頑張って。
そう伝えようと上半身をねじった時だった。
ざぶん、と水しぶきを上げて奈波が海に落ちた。
ワタシは慌てて奈波に手を差し伸べる。
その手は空を切り、奈波の身体は海に呑み込まれた。
――奈波!!
ワタシは声にならない叫びを上げながら奈波を追って海に潜る。
もう泳げないと悲鳴を上げる身体に鞭打って奈波を追いかけるけれど、水中の潮の流れは複雑で、手が届きそうで届かない。
――奈波っ!!
ワタシの想いが届いたのか、海流に弄ばれていた奈波がパッと目を見開いた。
次の瞬間、奈波は信じられない速度でワタシの元へ接近してきた。
少なくとも、その時はそう感じた。
その認識が間違っているのだと気付いたのは奈波の腕がすぐ目の前に伸びてきてからだった。
信じられないことに、彼女の身体は元の何十倍もの大きさになっている。
「美海ちゃん、ありがとう」
奈波はそう言って笑うと、ワタシを掬いあげて泳ぎ始めた。
「あの島、かな?」
奈波の視線の先には高波の隙間に顔を覗かせる大きめの岩とも言えるような陸地で、そこに不釣り合いな灯台がにょきりと生えていた。
灯台は己の存在を主張するように四方へ光の筋を放っている。
ワタシたちはここをお化け灯台と呼んでいた。
お化け灯台には制御を失った船が引き寄せられるように集まってくる。
そのまま岩に乗り上げて座礁してしまう船もあったし、持ち直して海へ帰っていく船もあった。
ワタシたちはその様子を遠巻きに見て、彼らの無事を祈ったものだった。
「……あっ!」
声を上げた奈波の手から放り出されたワタシは慌てて受け身を取って着水した。
お化け灯台の窓を見つめる奈波は何かを見付けたようだ。
「お父さん、ここにいいたんだね。よかった、よかったね」
奈波は涙をポロポロと零しながらお化け灯台に抱きついている。
ワタシにはお化け灯台の中を見ることができないけれど、だいたいの想像はついた。
最後にこのお化け灯台に船が流れ着いたのは、ワタシの記憶が正しければ三年前の嵐の日だったから。
「美海! 無事だったんだな……」
不意に名前を呼ばれて振り向くと、そこには礁弥がいた。
礁弥は夢でも見ているような顔をしてワタシのことを頭の先から尾ひれの先まで何度も見回している。
ワタシも同じように礁弥を見つめた。
きっとサメにやられたんだろう。美しかった尾びれには穴が開き、全身の至る所に傷を負っている。
それでも無事に逃げ延びていてくれた。
今のワタシに残されたこの喜びを礁弥に伝える方法は抱きしめることただ一つ。
静かに、強く、礁弥を抱きしめる。
「こんなに傷だらけになって……。一体どこにいたんだ」
ワタシは答えられない。
水の中では文字を書くこともできない。
ただ、陸の方を指さすだけ。
「美海、もしかして人間の食べ物を食ったのか?」
礁弥に聞かれて、ワタシはおずおずと首を縦に振った。
それを見た礁弥は呆れたようにため息をつく。
「美海だって知ってるだろう? 僕たち人魚が人間のものを食べるとどうなるか」
ワタシには返す言葉がなかった。
本来ならば人魚と人間は別の世界に生きるもの。
海の底で静かに暮らす人魚と陸を支配する人間の生活は決して交わることがない。……はずだ。
過去に人間とかかわりを持とうとして悲惨な末路を辿った仲間の話は我々人魚の中で重大な教訓話として語り継がれている。
そして、人間といらぬ接触をせぬように、禁を犯した者は重い罰を受けるようにと取り決めを交わしていたのだ。
ワタシは洞窟で意識を取り戻した時にすでに声を失っていた。
ということはその時点で知らず知らずのうちに人間の食べ物を与えられていたのだと思う。
けれど、それを良いことに奈波の手から食料を受け取り、あまつさえそれを口へ運んでしまったのだ。
さらには、奈波を連れて海へ来た。
「きっとさっきの巨大な人間が美海を助けてくれたんだろ? あいつには感謝しないとな」
礁弥がお化け灯台を見上げて呟く。
ワタシは数分前に目の前で繰り広げられた光景を思い返していた。