灰色の服の少女
口をきけないワタシのところへ灰色の服を着た少女は甲斐甲斐しく食べ物を運んできた。
最初は興味本位で着ているのだろうと勘ぐっていたけれど、彼女の態度を見ているとどうやらそうではないらしいとわかった。
少女の名前は白浜奈波。「ガクセイ」で、着ているのは「セーラーフク」というというものらしい。
普段は「ガッコウ」に行っていて、その行き帰りにこの洞窟へ顔を出してくれているのだと話していた。
ワタシが濡れた指で岩に【美海】と書いてみせると、奈波は非常に喜んだ。
喋ることはできないけれど、こうすれば奈波とコミュニケーションが取れることに気付いてワタシの世界にも光が差し込んだように思えた。
人間が捨てたゴミや沈没船にあった色々なものを見て覚えた文字をだから間違っているかもしれない。
それでも勉強しておいて良かったと思えるのは、奈波が楽しそうに笑ってくれるおかげだろう。
ワタシは拙いながら奈波に自分の生まれた海底都市のこと、普段食べていたご飯のこと、家族のことなど色々なことを話した。
サメから逃れるために泳いでいてこの洞窟に辿り着いたことも話した。
奈波はワタシの話をひとつひとつ真剣な眼差しで受け止めてくれる。
そんな彼女に伝えるのは申し訳ないと思いつつ、ワタシは水で文字を書く。
【人間 怖い 聞いた】
「あはは、それはその通りかもしれないね」
奈波は寂しそうに笑う。
「どう? 美海ちゃんは私のこと怖いと思う?」
【違う】
「そっか……。
私、学校じゃ不気味な奈波ちゃんって言われてるんだよ」
それでも? と奈波が聞いてくる。
奈波が他の人間から何と呼ばれていようとワタシには関係ない。彼女はワタシの命の恩人だ。
「私ねぇ、本当は美海ちゃんのこと助けるつもりなんてなかったんだ」
地底湖の水面を眺めながら奈波は言う。
ワタシは言葉の続きをじっと待った。
「私のお父さんね、船乗りだったの。だけど三年前の嵐の後から帰ってこなくって。
ここの洞窟って潮の流れの関係でいろんなものが流れ着くんだよね。だからここにお父さんの船が来ないかなと思って毎日見に来てたの。そしたらあの日美海が流れ着いてた。
人魚ってさ、船乗りを惑わせて船を沈めさせるって言われてる伝説の生き物なんだよ。それが急に目の前に現れたから本当にビックリした。人魚の伝説って本当だったのかなとか考えたし。お父さんの船が帰ってこないのも人魚のせいなんじゃないかって思ったりして。でも、顔を見たら私と同じくらいの女の子なんだもん。そんな子が海に戻ろうとして血まみれになってるのを見ちゃったら見捨てられないよね」
奈波の言う嵐の日のことは海の中にいたワタシもよく覚えている。
あの日は海の中もめちゃくちゃになって大変だったから。
【ワタシ 船 探す】
命を救ってくれたことへのお礼になればと思って申し出た。
しかし、奈波は首を横へ振る。
「美海ちゃん、彼氏さんを探すんでしょ?」
――礁弥。
彼は今頃どうしているだろうか。
サメから無事に逃げ延びているだろうか。
もしかすると反対に礁弥がワタシのことを探しているかもしれない。
考え始めると急に礁弥が、海が、恋しくなった。
傷はまだ完全に癒えたとは言えないけれど、ワタシは泳げる。
傷んだ鱗が剥がれ落ちようと、傷が開いて海を赤く染めようと構わない。
今はただ、一刻も早く海に戻りたかった。
「美海ちゃん、聞いて?」
奈波は一言一言を噛みしめるようにワタシに告げた。
「明日の晩、嵐がくるの。その時間はちょうど満潮の時間と重なる。そうするとね、ここの水たまりと向こうの海が繋がるんだ。
美海ちゃん、海へ戻りたいんでしょ?」
ワタシはこくりと頷く。
「お願い。その時に私も一緒に連れて行って!」
奈波は深く深く頭を下げた。
額を岩に打ち付けるのではないかと心配になるほどだった。
【人間 水 息できない】
ワタシは岩に書いて見せた。
けれど、奈波の覚悟は揺らがない。
「私ね、もう生きるのに疲れちゃったの。できればお父さんのところに行きたい。美海ちゃんは知ってるんじゃない? 海の中で難破した船が辿り着く場所」
奈波にじっと見つめられて、ワタシは反応に困ってしまった。
全く心当たりがないと言えば噓になる。
彼女は命の恩人でもあるから、できる範囲での恩返しはしたいと思っている。
しかし、そこはワタシたち人魚でさえ気を抜けば押し流されてしまうような流れの強い場所だ。
人間である奈波は到底そこへ辿り着けない。
死んでしまうことは火を見るよりも明らかだ。
そんな場所に奈波を連れて行くことはできない。
よし、断ろう。
ワタシが心を決めた時。
「それじゃあ、また明日ね」
ワタシの返答を待たずに奈波は自分の家へと帰って行ってしまった。