逃げているだけ
クララは母と夕食をつくりながら親友、レイチェルの夫が不慮の事故で亡くなり、レイチェルが実家に戻ってきた話をきいた。
レイチェルとクララは、クララが王都の師範学校に進学してからもまめに手紙を送りあい、クララが王都から実家にもどれば一緒にすごしてと親密な関係をたもってきた。
しかしリチャードと離婚したあとクララは人との付き合いが怖くなり、レイチェルとの音信もたっていた。結婚し少しはなれた町に住んでいたレイチェルはクララの実家に手紙をくれたがクララは返事をしなかった。
そのせいで親友が大変な状況であったことを知らなければ、何の力にもなれていないことにクララは申し訳なさでいっぱいになった。
翌日、クララがレイチェルの実家を訪問すると、二年ぶりに会ったレイチェルはすっかり痩せどこか具合が悪いのではと思わせるほど顔色が悪かった。
「大丈夫? いろいろと大変だったね」
クララがレイチェルを抱きしめると、レイチェルが激しく泣きはじめた。
明るい笑顔でいつも場を明るくするレイチェルが泣くのはめずらしく、レイチェルの悲しみが胸にせまった。
レイチェルはひとしきり泣き気持ちが落ち着くと、「ごめんね。久しぶりにクララに会って気がゆるんじゃった」取り乱したことをあやまった。
クララがレイチェルの隣に座り背中をさすっていると、レイチェルが「息子を義家族に取られちゃった」つぶやくようにいった。
レイチェルの背をなでていたクララの手がとまった。
「ひどいよね。子供を母親から引きはなすなんて」レイチェルが大きなため息をついた。
レイチェルはお見合いした相手と結婚し気が合うことから夫婦仲はよかったが、義家族との折り合いが悪く苦労していた。
後継ぎ息子をうしなった義両親が、息子の次に後継ぎになる孫をレイチェルにまかせておけないと、レイチェルから息子をうばい実家にもどした。
「義両親の家の近くに住んでたから、義両親はこれまで通り息子とすごせるし、うちの両親が息子を育てるのを手伝うために一緒に住んでくれるといってくれてたのに……。
跡取り息子を私にまかせたら早死にしてしまうって、まるで私が夫を殺したかのようにいわれて義両親に手をあげそうになったわ」
義両親だけでなく義姉妹もこれまで何かとレイチェルにいやみをいい、無茶な要求をしてレイチェルをうんざりさせていた。
夫の死後、レイチェルをまるで義家族に害をなす敵のような扱いをするようになったという。
「何度も息子を返すよう義両親の家にいったんだけど、これ以上しつこくするなら息子に母は死んだといって一生会わせないっていわれて……。
これまでのことを考えればあの人達に気を許すべきじゃなかったのに、様子をみにきたと優しげにいわれて家に入れたのが間違いだった……。もっと警戒すべきだったのに」
「相手が卑怯すぎ。ふつう義家族がそんなひどいことするために訪問したなんて思わないよ。人としてどうかというレベルの最低さだよ」
クララのなぐさめにレイチェルが小さくうなずいた。
「クララだから弱音をはくけど……」
レイチェルは話すのをためらいしばらく黙った。
「……息子をあきらめようって何度かくじけそうになって、いつか本当にそうしてしまいそうで怖い。
息子を取り戻すためにいろいろな人に相談してるんだけど、私はまだ若いし再婚する可能性も高いから、後継ぎ息子を今の時点で手放しておいた方がよいとかいわれて。
あの子は後継ぎだけど、その前に私の息子なの。かわいい息子をなぜ母親の私があきらめないといけないの?
女一人っていうのは立場が弱いから仕方ないっていわれるけど、立場が弱い人間に何をしてもいいってことじゃないのに……」
レイチェルの疲れ切った表情が痛々しい。夫を亡くし傷心で弱っているところに義両親に子をうばわれたレイチェルの心痛の深さを考えると、何の力にもなれない自分がはがゆかった。
「レイチェル、誰だって大変な状況がつづけば踏ん張りきれない。くじけそうになって当然だよ。だから弱気になる自分を責めないで。
私も何かよい方法がないかさがしてみる。それに弱音でも愚痴でもなんでも聞くよ。それぐらいしかできないけどレイチェルの力になりたい」
クララはレイチェルを強く抱きしめた。すこしでも自分の気持ちが伝わるように。
「クララ、ごめんね。すっかり甘えちゃって。クララも出産や体調くずして大変だったのに、私、ぜんぜん力になれなかった」
「それはいいの。こっちこそ心配してもらったのに手紙の返事もしなかったし。調子悪いからといってすっかりご無沙汰しちゃったしね」
レイチェルがクララの視線をとらえた。クララよりも濃い青い目がじっとクララを見つめる。
「ねえ、旦那さんと何かあった? 王都の家に手紙をだしたら宛名不明で戻ってきた。書き間違えたのかと思って住所と名前をたしかめたけど間違ってなかった。
引っ越したという話は聞いてないし、こっちに帰ってきてから旦那さんがクララに会いにきてるようでもないし」
両親はクララに何もいわないが、クララが実家に長くいることについて周りからなにかと探りを入れられているだろう。
里帰りや実家での療養自体はめずらしくないが、その期間が長すぎることや夫の影がまったくないことを周りは敏感にかぎつける。
「――レイチェル、あなたにだけは本当のことをいうわ。本当は離婚して実家にもどってきたの」
神に祈るしぐさをしたあとレイチェルがクララを抱きしめた。
離婚し実家にもどってきてから初めて家族以外に離婚について話したことへの解放感が体をかけめぐった。
クララが経緯をはなすとレイチェルが泣いた。
「ねえ、クララ。元旦那さんとやり直してみたら? 話を聞いた感じでは二人とも自分たちが出来ることをやっていない気がする」
思いがけないことをいわれクララの思考がとまる。
これまでリチャードとやり直すなど考えたことがない。
養子にだしたと思っていたヒューゴをリチャードが育てている。なおさらリチャードとやり直すなど考えられない。捨てた息子に合わせる顔がない。
「人って本当にいつ死ぬか分からない。私達が今日死んでもおかしくないんだよね。夫が死んでそのことが身にしみた。
相手が死んじゃったら本当に何もできない。愛しているということも、抱きしめることも、一緒にいることも、本当に何もできない。
クララは旦那さんのことを愛してた。だから裏切られても許したい、許して一緒に息子を育てたいと考えたことがあるんじゃない?
やり直せたかもしれない可能性を考えたことあるんじゃない?」
息がつまった。
そのような都合のよいことを考えてはいけない。考えること自体が罪だ。
リチャードが港町でクララに復縁をもとめ、クララの苦しみを自分も背負うためリチャードもヒューゴを捨てるといった時に、リチャードがヒューゴを捨てるなど許さない、それなら二人で育てると思った。
――二人でヒューゴを育てる。
考えてはならないことを考えてしまった。クララが望めば不可能ではないことに目がくらんだ。
「自分を許せないクララをみて、そんなに自分を責めないでと思った。さっきクララが私にいってくれたじゃない、自分を責めるなって。頑張りきれない時は誰にでもあるよ。
クララ、自分を責めても誰も幸せにならない。クララは自分を責めつづけて自分を罰してる。親友のそんな姿みたくない」
幸せという言葉を聞き体の中が怒りでいっぱいになった。
「幸せなんていらない! 私は幸せになるべき人間じゃない。子を捨てるような母親が幸せなんて求めちゃいけない。幸せになっちゃいけないの!」
クララは堰を切ったようにこれまでため込んできた気持ちを叫んでいた。自分がいかに駄目な人間なのか、夫に裏切られるような女で、子を捨てる冷たい人間なのだと叫んでいた。
「私みたいな人間は生きてる価値なんかない。死ねばよかった。死ねばよかったのよ!」
「死ぬなんて軽々しくいわないで!! だったら自分を不幸にしてでもリチャードと一緒に息子を育てなさいよ!
どれほどつらくても息子の側で母親として最低だって自分を責めながら母親の役目を果たしなさいよ。
幸せになっちゃいけないなら一番クララが不幸になる状態に身をおいて苦しみなさいよ!」
レイチェルの言葉が胸をえぐった。
――つらい状況から逃げているだけ。そうだ、クララがしていたことはそれだけだった。
何ひとつ責任をとっていない。ヒューゴをうんだにもかかわらず、つらいからと養子にだし母親としての責任から逃げた。
リチャードに裏切られたことを言い訳にヒューゴを育てることをリチャードに押しつけ今も逃げている。
「……ごめん、本当にごめん。言い過ぎた。クララは自分が望めば息子と一緒にいられるのに、でも私は望んでも一緒にいられなくて……」
レイチェルの言葉が遠くにきこえる。
死ねないので生きている屍だ。
誰の役にも立たない屍なら役に立つようにするだけだ。
クララはレイチェルの家を飛びだした。