二人で地獄に落ちよう
「死ぬなら一緒に死のう」
エリオット・オコナーとリチャードのあいだに沈黙がおちた。酔っ払いの自慢話や笑い声、喧嘩腰で話す声など酒場のさまざまな音が二人の間をすりぬけていく。
「……さっきから何をいってる。訳の分からない話をするならもう行く」
エリオットが立ち上がろうとするのをリチャードが押しとどめた。
「話は終わってない。死ぬなら俺も一緒に死ぬ。だからお前がここを出るなら俺も一緒についていく」
「いい加減にしろ! 死にたいなら自分ひとりで死ね! お前のたわごとに俺を巻き込むな」
「愛してる。だからお前が死ぬなら一緒に死ぬ。お前をひとりにしない」
エリオットはリチャードの胸ぐらをつかんだ。
「ふざけるな!! お前にはヒューゴがいるだろう。ヒューゴをおいて死ぬなんてふざけたこというな!」
「お前の方こそふざけるな!!」
そばにいた店員が喧嘩するなら出ていってくれといった。
リチャードが騒いですまないと店員にあやまったあとエリオットを無理矢理すわらせた。
「俺にとってクララはこの世で一番愛する人だ。クララも俺を愛してくれた。だから結婚して家族になれて本当に幸せだった。
それを俺が壊してしまった。クララがあの女との関わり方に気をつけるよういってたのに、女性からもてていることへのうぬぼれがあった。
女性からもてたいのは男の本能だし。
いや、そういう言い訳はどうでもいいよな。
馬鹿だった。クララ以外の女から好意をよせられれば面倒になることがまったく頭になかった。これまでせいぜい好意を伝えられるぐらいしかされたことなかったし。
あの女のことは本当に好きでも何でもなくて、同僚としてしか見てなかった。だから大丈夫だと高を括ってた。
自分の気持ちに関係なく、『相手の気持ち』がどうであるかや、相手には相手の感情や期待、思惑があることを分かってなかった。馬鹿としかいいようがない。本当に馬鹿だった」
リチャードが恥じるようにいった。
リチャードは同僚の女との不貞を最後までみとめなかった。クララを決して裏切っていない、やり直したいといいつづけた。
離婚前にあの晩リチャードと一緒に飲んでいた友人達が、それぞれクララに事の成り行きについて説明する手紙をかき、リチャードの親友、ノアを通してわたされた。
同僚の女が加わったのは偶然で、みな酔っていたので、女の家と同じ方向に住む友人ではなくリチャードに送らせようとしたことに何の疑問をもたなかったという説明だった。
リチャードと友人達がいうことを信じたい。しかしあの女があの日だけではない、リチャードはあの女を愛してるといったことが頭からはなれなかった。
もし一緒にいたのがあの女ではなく、行きずりのまったく知らない女性だったら酒での過ちと思いやすかったかもしれない。
しかし相手はあの女だ。あの女がリチャードに好意を持っているのは態度にあらわれていた。リチャードはただの同僚だと口ではいうが、必要以上にやさしくしているようにみえた。
それだけにもしかしたら二人の間に何かあったのではという疑いがあり、あの日だけでないという女の言葉に真実味をかんじた。
クララに愛をささやいてくれたリチャードの口が、あの女にも同じ言葉をささやいていたのではと考えるだけで吐き気がおそった。
やさしい目をクララだけに向けてくれるのだと思っていた。リチャードの腕の中は自分だけのものだと思っていた。愛しているという言葉は自分だけに捧げてくれているものだと思っていた。
これまで信じていたものが何も信じられなくなった。
「――ずっとあの女のせいだ、あの女にはめられた、俺は被害者なのにと思ってた。クララに俺が被害者だということを分かってほしい、裏切ってないと分かってほしいという気持ちでいっぱいになってた。
だから俺だけでなくクララもあの女の被害者だという意識がぬけてた。あの女のせいでクララも傷ついたのに、自分のことで手一杯でクララの気持ちをまったく思いやれなかった。
本当にすまなかった。クララを苦しめて本当にすまなかった」
エリオットはリチャードがいくら謝ろうと「いまさら」としか思えなかった。謝られても現状は変わらない。
クララ・ジョンソンであることをやめ、エリオット・オコナーという男としての人生を選んだのだ。
「もういい。すべて終わったことだ。クララは死んだ。もうお前の妻だったクララはいない。だからもういい」
リチャードがはっとした顔をしたあと悲しげな表情になった。
「――だったら俺も、お前の夫だったリチャードも死んだ。
ただのクララとリチャードとして新しい関係をきずきたい。二人で新しい関係をきずいてヒューゴを一緒に育てたい」
エリオットは怒りと罪悪感で体がねじ切れそうな感覚におちいった。
苦しい。息をするのも苦しい。
死ぬまでお互いだけだと誓い合ったリチャードに裏切られた怒りと絶望。
リチャードを愛していた。だから彼にも自分と同じように一途にクララのことを愛してほしかった。自分だけを一生愛し抜いてほしかった。
リチャードから愛されていると思ったのは勘違いだったのかもしれない。一時は愛していたのかもしれないが、愛しつづけるだけの価値が自分にはなかったのかもしれない。
自分がうんだ子を愛せなかっただけでなく子を捨てた。人として生きている価値がどこにあるのか。
もう嫌だ。生きていること自体が苦痛だった。
「さっきもいったがお前の妻だったクララはもういない。そしてお前とかかわりを持つつもりは一切ない。
もう二度と俺の前にあらわれるな。俺とかかわるな。クララは死んだ」
「――できない。それだけはできない。ヒューゴのためにそれだけはできない」
「お前の都合がよいようにヒューゴを使うな!」怒りのあまり叫んでいた。
「ヒューゴを使って俺の罪悪感をあおり復縁しようとしても無駄だ。
俺は最低な母親だ。お前に似ているからと自分がうんだ子を愛せない最低な母親だ。子を捨てのうのうと生きてるクズだ。罪を重ねることに何のためらいもない」
リチャードの目から涙がこぼれた。彼の涙をみたのは結婚の誓いで感極まって泣いた時だけだ。
「すまない。クララにこんなことを言わせるようなことになって……。あんなことがなければクララは何のわだかまりもなくヒューゴをうんで愛することができた。俺のせいで子を愛せなかったと苦しませている。
謝っても謝りきれない。本当にすまなかった。俺の考えなしな行動でクララにヒューゴをうんだことを幸せだと思えなくさせてしまった」
「やめろ! そんな話は聞きたくない!」
リチャードがうつむき肩をゆらしている。お前に泣く資格などないと怒鳴りつけたい気持ちをエリオットは必死におさえる。
いまさらだ。すべていまさらだった。過去に戻ってやり直すこともできなければ、過去の記憶を消すこともできない。
「ヒューゴを養子にだした時に親としてのすべての権利を手放した。ヒューゴはお前が幸せにしてやってくれ。ヒューゴの母親は死んだ。
もうお前と会うことはない。二度と俺をさがさないでくれ」
エリオットが立ち上がろうとするとリチャードが腕をつかんだ。
「俺を置いていくな。一緒にいる。お前一人に罪をおわせるようなことはしない」
リチャードの手を振りはらおうとしたが、がっちりつかまれ振りほどけない。
「ヒューゴを養子にだす。俺たちはどちらも子を捨てる最低な親として生きていこう。クララが地獄へおちるなら俺も一緒におちる」
エリオットはリチャードの前におかれた手つかずの酒をリチャードの顔にあびせようと手にした。