もうここにはいられない
冬は日が短いだけでなく、どんよりとした曇り空がつづくせいで機嫌が悪い人が多くなる。
エリオット・オコナーも雨こそふっていないが、いつふってもおかしくない濃い灰色の雲がたれこめているのをみて気持ちがくさくさしていた。
「エリオット!」
甲高い声で名をよばれ振りかえると、食堂で働いているオリビアだった。
「おつかい?」
「そう。今日の日替わりメニューに必要な材料を買いにいくの」
「今日の日替わりって何だ?」
「おしえなーい」
からかうような笑みをうかべるオリビアは食堂の看板娘だ。笑うとえくぼができるかわいらしい笑顔と愛嬌で皆から好かれている。
「でもエリオットが好きなものだから絶対食べにきてね」
オリビアがエリオットの腕に自分の腕をからませ、エリオットの顔をのぞきこむように見る。反射的に商売用のやわらかな笑みをうかべ「楽しみだなあ」とこたえた。
オリビアの目的地である食料品店につくまで話しつづけられ、短い間のことだったが疲れた。
機嫌が悪いこともあり、もしあと数分、彼女と一緒に歩いていたらひどいことをいったり、からめられていた腕を振りはらっていただろう。
「よう、モテていいなあ。朝からオリビアといちゃついて、いいご身分だよな」
同僚のジョセフにからかわれいらついたが、機嫌が悪いときほど愛想よくを心がけているエリオットは、「うらやましいだろう?」にやりと笑ってみせた。
オリビアに胸をときめかせる男はジョセフをふくめ何人もいる。
「オリビアはなんでお前みたいな、ひ弱な男にかまうんだよ? 俺みたいに強くて頼れる男の方がいいだろうに」
ジョセフの率直な物言いが心地よかった。
自分でも見目がよいわけでもなく、背も低く、女なので当然だが男らしさなどかけらもないエリオットに、なぜオリビアがよってくるのか分からない。
まさか女から好かれると考えもしなかったので大きな誤算だった。
誤算はそれだけでなく、男から声をかけられたり、絡まれることもそうだった。男色の男だけでなく、弱い男をいじめ憂さを晴らそうとする男はすくなくなかった。
男として違和感がないよう声色や口調、態度を気をつけていたが、ふとしたしぐさや反応に女性っぽさがでてしまうようで、「女みたいだ」といわれることがあった。
人から注目をあびないようにしているが無意識の行動で人目をひいてしまい、男になれば誰からも構われないだろうという思惑は見事にはずれた。
エリオットは商会をやめ、町をでようとしていた。
元夫であるリチャードがこの町にあらわれ、現在エリオット・オコナーと名乗り男として生きている、元妻のクララ・ジョンソンと復縁したいといった。
「すぐには無理だと分かってる。俺の顔をみるのも嫌かもしれない。でもチャンスがほしい」
復縁したいといわれたのも驚いたが、それよりもヒューゴを、養子に出したと思っていた息子のヒューゴを、リチャードが育てていたことに大きな衝撃をうけた。
街でリチャードを見かけた時に、リチャードが肩車をしていた赤毛の子がヒューゴで、一緒にいた女性は乳母だった。
ヒューゴを養子にだすといったものの、両親はヒューゴを不憫に思いリチャードに連絡しヒューゴをたくしたのだろう。
クララがおかしくならなければ、両親はヒューゴのことをリチャードに知らせるつもりは一生なかっただろう。しかし養子にだすことを考えた時に、ヒューゴには父親がいて、その父親は生きていることを思い出した。
赤の他人よりも父親にと両親が考えて当然だった。他人に養子にだしてしまえばヒューゴと二度と会えなくなる。それならばと父親であるリチャードにと思った気持ちは痛いほど分かる。
あの時、このことを自分にも説明してくれていればと思ったが、子を愛せないと不安定になっていたクララが素直に受けとめられたかは分からない。
クララはヒューゴを捨てた。愛せないと捨てた。
リチャードにヒューゴの名をだされた時に頭にうかんだのは「愛せなかった」で、罪悪感で胸がいっぱいになった。
いまさら母親だからといってヒューゴの人生にかかわるべきではない。クララは子を愛せず養子にだすことで自分を救うことを優先した。
子供のことなどまったく考えない自分勝手な母親であることに変わりはない。
リチャードはこの港町にしばらく滞在するという。リチャードがヒューゴを連れて会いにくるかもしれない。街で偶然でくわすかもしれない。それに耐えられるとは思えなかった。
この町に来ていろいろな意味で落ち着いて生活できるようになっていただけに残念だが仕方ない。
この地からはなれ女にもどり、リチャードともヒューゴともかかわることがないようにする。
「今度の休み家に来ないか、エリオット? 両親の結婚記念日を祝うためにご馳走をつくる。うちのモチモチ鳥の煮込みうまいぞ」
「悪い、その日は用事があって参加できない」
エリオットがそのように返事をするとジョセフはとくに深追いせず、それは残念だと言いちがう話をしはじめた。
仕事をおえたら商会長にやめることを伝え、今日のうちにこの町をでる。ジョセフにやめることをいうつもりはなかった。
人から外見だけでなく、子供のような声で男らしくないと馬鹿にされることが多いエリオットだが、ジョセフは同僚として普通に接してくれた。
ジョセフのおかげでエリオットは商会で気持ちよく働くことができた。ジョセフにこれまでの礼をいって別れたかったが、ひきとめられそうな気がした。
エリオットはジョセフに「行けなくて残念だ。誘ってくれてありがとう」別れの挨拶をしない代わりに、誘ってくれたことの礼にこれまでの感謝の気持ちをのせた。
仕事をおえ荷物をとりに下宿にもどった。大家には急で申し訳ないが引き払うことをすでに伝えている。
この土地に流れてくる人達はさまざまな理由をかかえていることが多い。そのおかげで商会長も大家もエリオットが町を去ることにおどろきはしたが、必要以上の詮索はしなかった。
下宿をでて海沿いの道へむかっていると「クララ!」とよぶ声が聞こえた。
「間に合ってよかった」
なぜリチャードがと思っていると乗ってきた馬車におしこまれ、リチャードの滞在先につれていかれそうになった。
「勝手なことをするな!」
ひとしきり抵抗し息があがった。
「お願いだから」
すがるようなリチャードの目にほだされそうになったが、リチャードの滞在先にはヒューゴがいる。絶対に会うわけにはいかない。
「話があるなら他の場所にしてくれ。それならちゃんと話を聞く」
その言葉にリチャードがほっとした顔をみせた。
大きな荷物を持ち歩くわけにはいかないだろうとリチャードがクララから荷物を取りあげ、絶対に逃げるなといいリチャードが滞在している場所にクララの荷物を運ぶ。
逃げてしまおうかと思ったが、暗いのとリチャードの滞在先近辺にくわしくなく余計な問題を引き起こしたくないのでとどまった。
「復縁はしないといったはずだ。迷惑なんだよ」
リチャードがくすりと笑った。笑われ腹が立ったが、リチャードと会話そのものをしたくないので黙った。
「ごめん、男言葉で話すクララにまだ慣れなくて」
そのようにいわれ自分が男言葉でリチャードと話していたことに気付いた。
リチャードはエリオットを酒場につれていった。
「ここなら周りがさわがしいから盗み聞きされることもない」
たしかにうるさいので少しはなれた場所に座れば、話し声は周りの騒音にかきけされ聞かれる心配はなさそうだった。
「酒場にくるのは初めてか?」
エリオットは首を横にふった。ジョセフに強引に一度連れて行かれた。
酒場は男の社交場だ。客は男性しかおらず、エリオットがクララとして女性の格好をしていれば、リチャードは酒場にクララをつれて来るようなことはしなかっただろう。
「それで何だよ? 復縁の話は断った。気持ちは変わらない」
リチャードは何かいいたげだが言いよどんでいるようだった。
「話す気がないならもう行く」
エリオットが立ち上がろうとするとリチャードが
「この町を出て行ってどうするつもりだったんだ?」ときいた。
なぜ出て行こうとしたのがばれたのかと思ったが、リチャードは先ほどエリオットが荷物をかかえ歩いていた姿をみているのを思い出した。
「どこに行こうとお前には関係ないだろう」
リチャードがじっとエリオットを見つめた。
「死のうとしてただろう」
エリオットの息がとまった。