汚されたものは
汽車が定刻通りに終着駅についた。
一年前に結婚しクララ・ジョンソンからクララ・ナイトとなったクララは、愛する夫、リチャードにもうすぐ会えると気持ちがはずんだ。
予定よりも早く帰れることになり夜行列車に飛び乗った。一日はやい妻の帰りを喜んでくれる夫の姿が目にうかび自然と顔がゆるむ。
夫のリチャードとは夜会で出会った。義理で出席しなくてはならず一通り挨拶と世間話をすませたあと退屈していると、自分と同じように退屈しながらワインを飲んでいたリチャードと目が合った。
それをきっかけに話しをするとリチャードと思いがけず話がはずみ、次の休みの日に話題のカフェへいくことを約束していた。
カフェを皮切りに二人でさまざまな場所へいくようになった。一緒にいるのが楽しく、自然と恋人になり、そして結婚した。
恋愛結婚がふえていたが、まだ親が決めた相手との結婚やお見合いで結婚することが多いだけに、好きな人に出会え結婚することができたクララはとても幸せだった。
たまに喧嘩することはあるが二人は仲の良い夫婦で、これほど幸せであって本当によいのかと怖くなるほど幸せだった。
父から母が倒れたことを手紙で知らされたクララが一週間の予定で実家に帰りたいとリチャードに相談すると、リチャードは快く承諾した。母の状態がよくないようなら自分のことは心配せず滞在を延期するようにともいってくれた。
クララは両親が経営している商会の繁忙期なこともあり実家のことが心配だったので、リチャードの心づかいがうれしかった。
心配していた母の状態は思ったよりも深刻ではなく、疲労で倒れた母は三日間安静にすると「もう大丈夫だから」と通常どおりに働きはじめ、クララに「旦那さんに迷惑かけて申し訳ないから早く帰りなさい」というほどだった。
とはいえ病み上がりの母に無理をさせるわけにはいかないので手伝っていたが、母が「一日早い夜行の切符が手に入ったから」といい予定より早い汽車に乗ることになった。
「家で集まってお酒をのんだ惨状がそのままね」
町全体がまだ寝静まっている時間なので、家の中もしんとしている。クララは散らかった家の中の惨状にため息をついた。休日前に友人達とあつまり酒をのんだリチャードが起きるのは昼だろう。
家でのむ時はきちんと片付けをすることを条件にしているが、クララが一日早く帰ってくるのを伝えていないので、リチャードはクララが予定通りに帰ってくるまでに片付けるつもりだろう。
リチャードに文句はいえないと思いながら、汚い状態に我慢できないクララは片付けはじめた。
寝室のドアがあく音がした。
「起こしちゃった? おはよう」リチャードに声をかけると、リチャードではなく裸の女がドアをあけた姿でかたまっていた。
裸の女。
その女の顔をみて「なぜここに?」と思ったとたん、何が起こっているのか状況を判断しようと猛烈ないきおいで頭が働きはじめた。
「夫は―― リチャードは――」
突然、女がはじかれたように寝室の中へもどると「リチャード、起きて!」リチャードの名をよんだ。
――リチャードが浮気していた。
胸の鼓動がうるさいほど体の中で鳴りひびく。話し声らしきものが聞こえるが自分の心臓の音がうるさく聞きとれない。
「クララ? えっ!? 裸? なんであんたが裸なんだ」
声のした方をむくと裸のリチャードが寝室から出ようとしているところだった。
クララの頭の中は状況に対する情報、夫への感情、これからどうするのか、女のことなど混沌としているにもかかわらず、冷静に考えようとする自分がいた。
「クララ! これは――。自分でも何が起こったのか――」
「二人とも、まず服をきてくれる。見苦しい」
椅子にすわり目の前にあるワインのボトルやグラス、食べ散らかしたナッツの殻をみているうちに、すべてなぎたおしたくなった。
視界にはいる汚い物を見ていたくない。
テーブルにおいた自分の腕でテーブルの上にあるものをはらおうと腕に力をいれたところで、「すまない」といいながらリチャードが目の前にすわった。
すこし遅れて女も寝室からでてきてリチャードの側にきたが、リチャードが「帰ってくれ」女にどなった。
「でも――」
「言うことを聞いてくれ」
「でも、昨日あったことを奥さんにちゃんとお話ししたいの」
「黙ってもらえないか!」
リチャードがいきり立つと女が泣きだした。
しかし泣きながら、
「リチャードのことが好きなの」
「いつもやさしくしてくれた」
リチャードへの気持ちを、リチャードに何度もさえぎられながら大声でいう。
「リチャードは私のことを愛していて、奥さんにかくれてこれまで何度も体を重ねたの」
「嘘をつくな!!!」
リチャードが手をふりあげ女をぶとうとしたので、クララはリチャードの腕にしがみつき止めた。
クララはリチャードの腕に触れたとたん、気持ち悪さで吐きそうになった。
それまで嬉しそうにリチャードへの気持ちを話していた女は、ぶたれる寸前だったことに動揺したのか、ひきつった表情をし口をつぐんだ。
「夫婦だけで話したいのでお帰りください」
クララがそのようにいうと女がリチャードに、「家まで送ってもらえますか?」甘えるようにいった。
リチャードが答える前にクララは素早く「辻馬車をつかまえてあげて」というと、リチャードは何か言いたそうにしたが「すぐ戻ってくる」といい女性をつれて外へでた。
ここにいたくない。
しばらく友人の所で世話になるため必要なものを持っていこうとしていると、クララは再び吐き気におそわれた。
もうここにいたくない。吐いたあと荷物をまとめようとしたが、着替えなどは寝室にある。
とてもではないが寝室に入ることなどできない。
寝室以外で必要な物はあるかと見回し、お気に入りのマグカップをカバンの中につめた。
マグカップは親友のレイチェルが、王都の女子師範学校に進学したクララに贈ってくれた物だ。ここに置いていくわけにはいかない。
もうここへ来ることはないだろう。
冷静にそのように考えている自分が悲しかった。
リチャードが浮気をした女はリチャードの同僚だ。前々からリチャードに気がある素振りをみせており、彼女にやさしくしすぎると誤解されるので気をつけてほしいとリチャードにお願いしていた。
二人が男女の仲になっていたことにショックはうけたが、おどろきはなかった。なるべくしてなったという感じだ。
「すまない。本当にすまない。こんなことになるなんて」
いつの間に帰ってきたのか。リチャードがクララに謝りながらクララに触れようと手をのばしている。クララは体を大きくかわした。
「このような状態で冷静に話し合いができると思えないから、私は友人の所へいくわ。今後の話し合いは第三者をいれる。それから私の持ち物にはいっさい手をふれないで」
「待ってくれ! まずはちゃんと話を――」
「何を話すつもり? 彼女といつから浮気してたか?」
「違う! 本当に違う。彼女と浮気なんてしてない!」
「じゃあ二人とも裸になって寝室で何をしてたの? 妻がいない間に」
「それは…… 気がついたらああなってた」
「そうなのね。分かったわ。じゃあ」
クララが荷物をもって出て行こうとすると、リチャードに腕をつかまれた。
「待ってくれ。ちゃんと話を」
吐き気がおそった。気持ち悪い。さわるな、気持ち悪い。
我慢ができずリチャードの手を乱暴にふりほどき流し台に胃の中のものをぶちまけた。
「さわらないで。気持ち悪い。他の女を抱いた汚い手でさわらないで」
リチャードが呆然と自分の手を見つめている間にクララは家をとびだした。
リチャードの顔などみたくない。あの部屋の汚れた空気をすってしまった自分も汚れてしまったような気がする。
どうして――。
リチャードに会えると浮き足だっていた自分が馬鹿だった。早く会いたかったのはクララだけで、愛し合っていると思っていたのはクララだけだった。
クララは友人の家へいくため辻馬車を必死でさがした。少しでもリチャードから遠くはなれた場所に行きたかった。