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涙のあとに

「ただいま」


 リチャード・ナイトが家に帰ると、ヒューゴを抱っこしたクララが「おかえりなさい」と出迎えてくれた。


 二人にキスをするとクララが「ひげがチクチクする」いやそうにいい、ヒューゴも「チクチク、いたい」クララのまねをする。


 ひげがのびているのはその通りなので言われても仕方ない。


 クララがヒューゴを頬ずりしながら「やわらかくて気持ちいい」うれしそうに言っているのがちょっと悔しい。


 ひげをきれいにそっても男の頬の感触はいまひとつらしくクララがリチャードに頬ずりすることはない。


「もしかして女だとばれてたかなあ」


 クララがぽつりとつぶやいた。


 クララがエリオットであった時に女の子から頬にキスされ、子供のほっぺたみたいだといわれたことがあるという。


 エリオットという男であったクララを実際に見ているリチャードは、周囲はエリオットが自己申告していた歳より若いと年齢のごまかしは疑っていただろうが、性別をごまかしていたとは思っていないような気がする。


 それにしてもまさか頬をキスするほど仲が進展していた女の子がいたとは聞いていない。


 女の子からのキスで、それもエリオットという男に対してで、クララに対してではないとはいえもやもやする。


 リチャードはヒューゴの相手をしながらクララが夕食を用意している姿をみて、どこにでもいる普通の家族として過ごしているのが現実なのかいまだに信じられない気持ちだった。


 一度失ってしまった人と、存在すると思わなかった自分の子がいて、家族三人の暮らしがここにある。


 三人でカイトをあげにいった日、急にクララの様子がおかしくなりヒューゴが寝たあと話がしたいといった。


 クララは泣いていたのをごまかしたが、泣いていたことを考えれば良い話とは思えずリチャードは不安でいらだった。


 クララはリチャードと目が合うと視線をすぐにはずし、目が合わないようリチャードをさけた。復縁したあとクララがこれほどあからさまにリチャードをさけるのは初めてであせりがつのった。


 クララがヒューゴを寝かしつけたあと、覚悟をきめクララと話すため椅子に座ろうとしていると、リチャードが座るのをまたずにクララがあやまった。


「リチャード、ごめんなさい。これまであなたを一方的に責めて、あなたが置かれた状況をまったく考えないでひどい態度をとりつづけた。


 あの女が加害者だというあなたの言葉を信じなかった。傷ついているあなたに寄りそうのではなく、あなたが悪いと責めるだけだった。


 妻としてあなたを信じ、傷ついたあなたをなぐさめるべきだったのに。本当にごめんなさい」


 リチャードはクララのいったことを本当に自分が理解しているのかと考えていると、


「あの……、その……、抱きしめてもいい?」


 クララにいわれ息がとまった。


 復縁してからクララは自分からリチャードの体にふれたことがない。


 リチャードの体は金縛りにあったかのように動かず声もでなかった。


 リチャードの側にきたクララが不安そうな表情でリチャードと視線をあわせた。ようやくうなずくことができたリチャードをクララが抱きしめた。


「ごめんなさい。リチャードにひどいことをして苦しめて本当にごめんなさい」


 リチャードはクララの温かさに、抱きしめられるなつかしい感触に涙がこみあげ、気付くと声をあげて泣いていた。


 すべてのはじまりとなったあの日の動揺とその後の成り行きは悪夢のようだった。


 女が大声でわめいている声で目をさますとクララではない裸の女がいて、自分も裸であることに何がどうなっているのだとあせるが状況についての記憶がない。


 女からクララの名がでた瞬間、クララがこの状況を見たのではと急に意識がはっきりした。訳が分からないままクララに浮気したと思われ、クララは家を出て行ってしまった。


 何をいっても信じてもらえない。何をいってもお前が悪いと責められる。自分が望んでいない方向へと勝手に状況が進んでいく。


 何よりもつらかったのがクララの拒絶だった。全身でリチャードを拒むクララを見るたびに、自分の存在そのものを否定されたようで胸をかきむしりたくなるほど苦しかった。


 本当のことを一番分かってもらいたい人に何も伝わらない恐怖は夢の中でもくり返され、自分のうなされた声で目がさめることが何度もあった。


「ごめんね。リチャードの苦しみに気付かず、自分だけが苦しんでると思ってひどいことをして。あの女の嘘におどらされてずっとあなたを傷つけて」


 リチャードの背をなでながらクララも泣いていた。


 すっかり涙でぐちゃぐちゃになった顔をぬぐっていると、クララも自分の顔をぬぐいながら「お互いひどい顔になってるよね」といいくすりと笑った。


 復縁してはじめてクララの本当の笑みをみたと思った。


 ヒューゴも含め三人で一緒にいる時にクララがヒューゴに対し笑いかけたり、ヒューゴの言動でクララがリチャードの前で笑うことはあったが、それ以外でクララの笑顔をみたことがない。


 お互い顔をきれいにし隣り合ってすわると自然と見つめ合っていた。


 ヒューゴと同じクララの空色の瞳をみていると言葉が勝手にこぼれた。


「クララだけには裏切ってないと分かってもらいたかった。本当に裏切ってない。本当に……」


 クララの目から再び涙がこぼれた。


「ごめんね。本当にごめんね、リチャード」ささやくような小さな声であやまると、クララがリチャードの鼻の頭にキスをし、まぶたや額、頬と顔中にキスをしたあとそっと唇をかさねた。


 クララの唇がはなれるのがいやでリチャードはクララの唇をむさぼった。


 リチャードがクララを抱きしめると「リチャード、愛してる」クララの声がきこえた。


 全身がゆれ涙があふれた。リチャードは再び声をあげて泣いていた。


 クララがあの女を加害者だといった時にクララが分かってくれたという喜びと同時に、本当に分かってもらえたのかと疑う気持ちがわきおこった。


 これまで何をいっても信じてもらえなかっただけに素直に分かってもらえたと思えなかった。


 しかしクララに抱きしめられ、キスをされ、愛しているといわれ、彼女が本当に分かってくれたのだと実感できた。


「あなたが私を一番必要としていた時に一緒にいなくてごめんね。それでも私のことを愛してくれてありがとう、リチャード」


 ずっと分かってもらいたかったクララに分かってもらえたうれしさで体がふるえた。


 クララがリチャードを抱きしめてくれる。抱きしめ返すと、より強い力でクララがリチャードを抱きしめた。


 ずっとクララにふれたかった。ふれてほしかった。抱きしめ合い愛しているといいたかった。


「俺のこと、もう気持ち悪くない? 汚いと思わない?」


 するりと口からこぼれたその言葉に自分自身がおどろいた。


 リチャードを抱きしめているクララの体から息をのむ気配がつたわる。


 クララにあの女にふれた汚い手でさわるなといわれた衝撃は大きかった。


 クララから気持ち悪いといわれ汚物をみるような目を向けられたことを思い出すたびに、クララがリチャードをみて吐く姿がまぶたにうかんだ。


「……本当にごめん。リチャードは汚くなんてない。汚いのはあの女でリチャードじゃない。リチャードは汚くなんてない。


 怒りのあまりひどいことをいって……。もし私が同じ目にあってリチャードにそんなこと言われたら死にたくなる。自分の残酷さがひどすぎて…… リチャードにあやまりきれない」


 クララがしがみつくようにリチャードを抱きしめ激しく泣きはじめた。


 あの晩リチャードはこれまでの人生の中であれほど泣いたことはないといえるほどクララにしがみつき泣いた。


 愛する人から抱きしめられる心地よさ、抱きしめ返すことができる安心感にリチャードは飢えていた。


 クララの体の温かさが体と心にしみこみ、これまで我慢していたものが一気にあふれみっともないほど泣いた。


 クララとリチャードは一晩中これまでのことを話しては泣きをくりかえしお互いの痛みを分かち合った。


 あの日から二人は本当の意味で復縁し新しい関係をきずきはじめた。


 しかし以前のようにお互いに不安をもつことがないというところまでは至っていない。


 クララに分かってもらえない、捨てられるという恐怖がふとした瞬間におとずれる。


 家に帰りクララの姿がないと捨てられたのではと胸が苦しくなることがあった。


 クララもリチャードに対する不安とヒューゴへの罪悪感で苦しそうな顔をすることがある。


「一度経験したことを記憶から完全に消すことなんてできないから仕方ない。


 でも逆にいえば失敗を覚えているから二度と同じ失敗をしないようにできるんだ。前より良い関係をつくれるようがんばれよ」


 ノアの励ましを胸にリチャードはクララとの関係をつくり直している。


「パパ、へた!」


 手元がくるい積み木をくずしてしまったことにヒューゴが怒っている。


「ご飯できたよ。食べよう」


 クララの声にヒューゴが積み木を放り投げるとうれしそうに椅子にすわろうとしている。気持ちよいほど単純だ。


 クララと目が合う。ほほえんでくれる。


「クララ、ヒューゴ、大好き」


 ヒューゴが元気に「だいすき」というと、クララも笑顔で「大好き」と返してくれる。


 リチャードは幸せをかみしめた。

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