あなたは被害者だった
ヒューゴが三歳の誕生日をむかえ、クララとリチャードは義両親を招き祝いの夕食をふるまっていた。
いつもヒューゴによくしてくれる義両親への感謝もかね、二人が好きな料理も用意したのでテーブルにのせきれないほどだった。
「おっ、よいところに来たみたいだな」
リチャードの親友のノアが食べようとしているところにひょっこりあらわれた。
「食べ物への鼻がきくな」義父に笑われながらノアも加わり祝いの夕食を楽しむ。
「ヒューゴが自分でご飯を食べてるなんて……。大きくなったなあ。なんか俺、ものすごく年取った気になったわ」ノアがしみじみという。
「大げさなんだよ、お前」リチャードがあきれたようにいうと、
「今日の祝い事はヒューゴの誕生日だけじゃないからな。俺の結婚が決まりました!」
ノアが誇らしげにいった。
ノアがお見合いした女性と婚約し半年後に結婚することになったと報告すると、リチャードだけでなく義両親からも「やっと結婚するのか」とからかわれた。
ヒューゴは食べ終わると義両親からおくられた木馬で遊びはじめた。ヒューゴは義両親やリチャードから「ヒューゴ、上手に乗れてるぞ」はやしたてられうれしそうだ。
クララはノアに食後の茶をすすめ、ノアの婚約者や結婚について話を聞いているとノアがふいに「大丈夫?」とクララにきいた。
突然、脈絡もなくいわれた「大丈夫?」にクララがとまどっていると、「リチャードとのこと」といわれた。
クララがどのように答えようかと考えていると、ノアがクララからの返事をまたず言葉をついだ。
「少しづつ歩み寄ってるとリチャードはいってるけど、本当のところクララはどう思ってる?」
「……ずいぶん立ち入ったことを聞くのね」
「夫婦のことに俺が首をつっこむべきでないのは分かってる。でもずっと心配してる。二人には幸せになってほしいし」
ノアから目をはずすとクララは小さく息をすった。
「正直、もう何をどう考えればよいのか、何をどうすればよいのか分からない。
自分の気持ちも分からない。大丈夫だと思った次の瞬間に訳の分からない怒りにとらわれたりする。
でも毎日、家事と育児におわれてゆっくり考える時間もないしね。ちゃんと考えなくてはいけないのは分かってるけど」
「――クララはまだリチャードのことを許せない?」
クララは答えにつまる。怒りを感じる時にその怒りがリチャードに対してなのか、あの女に対してなのか、自分に対してなのか、もうクララにもよく分からなかった。
許せないという気持ちも、リチャードに対してなのか、自分に対してなのか。きっとどちらに対してもというのが正しい気がする。
「俺が以前いったこと覚えてないかもしれないけど、リチャードはあの女の被害者だ。酔っ払ったリチャードの体を自分勝手にした。
男女を逆にして考えれば分かってもらいやすい。酔っ払った女性を男が勝手に服を脱がせて触ったらどう思う?」
クララは目の前にいるノアに、もし酔っている間に自分の体を好きにされたらと考え吐き気がこみあげそうになった。
「あの女の被害者はクララもだけど、直接の被害をうけたのはリチャードだ。リチャードはクララを裏切るつもりなんてなかった。本当に通り魔のようなものだったんだよ」
「ママ―!」
木馬にのってご機嫌なヒューゴの大きな声がし、クララはヒューゴに手をふった。
「ノアのいったこと考えてみる」クララはノアに視線をもどすと静かにこたえた。ノアが小さくうなずき笑みをみせた。
クララはノアが茶をのむ姿をみながら、ノアのいった「リチャードは被害者だ」という言葉について考えていた。
ノアがいうように男女を逆にして考えれば、すんなりと酔った女を自分勝手にする男が加害者だといえる。
クララが酔ったノアを好きにしようとしたらと考えると、それもすんなり自分が加害者でノアは被害者と思う。
しかしそれをリチャードとあの女に置き換えることができなかった。
リチャードとあの女のことはどうしても素直にそのように思えない。
裏切り。あると思っていた愛がもろかったことへの悲しみ。思い出したくもない感情が刺激される。
クララは怒りがこみあがりそうになるのを感じ、これ以上考えてはいけないとあわてて意識をそらした。
クララ達は休日にリチャードが取引先の人からもらったカイトを空にあげようと空き地へむかっていた。ヒューゴが待ちきれないとばかりに走る。
「子供って外にでるとなぜか走りだすよな。これって本能なのか?」
リチャードがヒューゴを追いかける。
空き地でリチャードが走りながらカイトをあげると、ヒューゴが「ぼくも!」とリチャードのあとをうれしそうに追う。
リチャードからカイトの糸をわたされたヒューゴが満面の笑みをうかべ、「とんでる」興奮して何度もいう。高い所へあがっていくカイトに「もっと、もっと」大声をだしてよろこんでいる。
リチャードがヒューゴの手のすぐ側でカイトの糸をあやつっていたが、空に舞うカイトが急に落ちてきた。
リチャードがあわてて糸をたぐりよせたが木に引っかかってしまった。カイトを木から救いだすと端の部分が破れていた。
「ぼくのカイト……」
泣くヒューゴをなぐさめながら、クララは子供の時に弟とカイトで遊んだ時のことを思い出した。
弟とカイトで遊んでいると犬がカイトにむかって吠えたかと思うと、地面に落ちてきたカイトに飛びかかり踏みつけたあとくわえた。
あっという間のことで犬をとめられずカイトはすっかりぼろぼろになった。そして飼い主によばれた犬は呆気にとられるクララ達の前から姿をけした。
カイトは父に買ってもらったばかりで、家に帰ると父に「どうしてもっと大切に使わない」と怒られた。
犬のせいだと話しても父は「お前達の不注意だ」と不機嫌だった。
そのようなことを覚えていた自分におどろいたが、ふと、
「通り魔のようなものだ」
「リチャードは被害者だ」
ノアの言葉が頭にうかんだ。
リチャードが家に帰って破れた部分をなおせば大丈夫だとヒューゴに笑いかけるのを見ながら、「リチャードはあの女の被害者だ」という言葉が胸にすとんとおちた。
クララ達がカイトで遊んでいただけだったように、リチャードも同じく友人達と酒をのんでいただけだった。
そして犬が勝手にクララ達のカイトに飛びかかりこわしたように、あの女はリチャードが招いたわけでもないのに家に入り込み酔ったリチャードの体を好き勝手にした。
「なんてことを……」
クララはこれまでのリチャードへの自分の態度に血の気がひいた。
ノアがいったように、もし男女が逆でクララの女友達が酔って男に好き勝手にされたら、クララは友をなぐさめ悪いのは男だという。
しかしクララはリチャードがクララを裏切ったと責め、リチャードの言葉を聞こうともしなかった。
悪いのはリチャードだ、すべてリチャードのせいだと、一度もリチャードが被害者だと考えなかった。
あの女の言葉にまどわされていたがリチャードは被害者だった。クララではなくリチャードこそがあの女の被害者だった。
「ママ、いたい?」
ヒューゴにいわれクララは自分が泣いていることに気付いた。
「目にごみがはいっちゃった。ちょっと痛いけど大丈夫」
クララがそのようにいうと、ヒューゴがリチャードにせがみ抱っこをさせ「とんでけ!」手振りをつけていったあと、クララの右目近くにキスをした。
大人のまねをして痛みをとるおまじないをするヒューゴが愛らしく自然と笑顔になる。
「痛いのとんでいけ」リチャードがクララの左目近くにキスをし、クララとリチャードの視線が近距離でからんだ。
日に照らされまぶしげに細められたリチャードの薄緑色の瞳がやさしげにクララを見つめていた。




