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罪悪感の使い方

 クララはすべての家事をおえ一息ついた。


 リチャードがヒューゴを寝かしつけてくれ、リチャードもそのまま寝てしまったようだ。


 急に酒でものまなければやっていられないという衝動がわきおこった。毎日つらさだけが積みあがりいつも胸が重く不快だ。どこかで発散しなければ狂いそうだった。


 クララは久しぶりに酒場にいくことにした。あの酒場には行きたくなかったが、これ以上何もせず重い気持ちを抱えることはできそうになかった。


 男装に着替えていると「そんな格好をしてどこに行くつもりだ?」リチャードの声がし、つかみかかりそうな勢いでクララに近付いた。


「家を出ようとしてたのか? ヒューゴを捨てて」


 ――ヒューゴを捨てて。


 その言葉がクララの心を深く突き刺した。


 リチャードがクララのことを「子を簡単に捨てる女」と思っているからこそでた言葉だろう。


 体の奥底から怒りがわきあがり体がふるえた。


 この男が。この男が自分を裏切らなければ子を捨てるようなことにならなかった。


 妊娠したことを喜べず、ひそかに子が流れることを願う自分の身勝手さや醜さ、罪深さに苦しむこともなかった。


 この男に似た赤い髪の息子を遠ざけなければ自分を保っていられなかったのは、この男のせいだ。


 この男が悪い。この男が――。


「ごめん、クララ。ひどいことをいった。思ってもいないことをいった。出て行ってほしくなくてあせった」


 リチャードがクララを抱きしめようとのばした手を振りはらった。


 リチャードとそのまま対峙しているとリチャードが苦しげな表情になった。復縁してこれほど長くリチャードの顔を直視したのは初めてかもしれない。


 クララの前で取り乱したリチャードを見て、なぜ自分たちがこれほど苦しまなくてはならないのだろうと思った。


 そのように考えたとたん、勝ち誇ったように自分とリチャードはずっと浮気していたといったあの女の顔が頭にうかんだ。


 もう二度と思い出したくない女の顔、そして裸の女が寝室からでてきたこと、リチャードはあの女の方を愛してるといわれたことで頭の中がいっぱいになった。


 あの女が憎い。リチャードが憎い。


 なぜ自分がこれほど憎しみでいっぱいになっているのか。どこまで苦しまなくてはならないのか。


 クララは息苦しさをおぼえた。


「クララ、愛してる。一緒に幸せになりたい」


 リチャードのその言葉に胸が張り裂けそうだった。


 憎しみでいっぱいになっているクララの中で幸せな頃の記憶がよみがえる。


 ただ一緒にいるだけで幸せだった。手をつないで歩くだけで、同じ物をみて笑い合うだけで、見つめ合うだけで幸せだった。


 愛しているといえば愛していると返してくれ、抱きしめると抱きしめ返される。


 リチャードを愛し、リチャードから愛されていると心から信じられた。


 復縁しリチャードと暮らしていて苦しいのは、クララがリチャードを嫌いきれないからだ。憎い。でもリチャードを嫌いきれない。憎みきれない。


 大好きで、自分の半身だと思っていた。なくてはならない存在だった。恋人や夫婦としてかけがえのない思い出がたくさんあった。


 あの頃とかわらないリチャードの優しさや、復縁してからは以前気付かなかった部分を知ったり、ヒューゴに愛情をそそぐ姿を好ましく思う気持ちがクララを苦しめた。


 リチャードがひどい男で、嫌いになるような、憎めるような行動をとってくれたならリチャードを憎むのは簡単だっただろう。


 しかしリチャードはクララが愛したリチャードのままだった。


 リチャードは酒での失敗を二度とおこさないと断酒し、女性に対しあれ以来親しげにされたり、馴れ馴れしくされると嫌悪感をおぼえるといい礼儀正しく接するだけになっていた。


 クララとやり直すために行動を変えたという。クララを愛しているからクララが安心できる行動をとりたいと。


 そのようなリチャードへ好ましい気持ちがつのるが、クララはどうしてもあの日のことが忘れられない。


 そして何よりも自分がヒューゴを捨てたひどい母親であることを忘れてはいけない。


「どうやって幸せになれっていうの? あなたは私が自分の子を簡単に捨てるひどい女だと思ってるんでしょう? 私はあなたが思うとおりひどい女なのよ。自分のために子を捨てるひどい母親なの」


「クララにそのように思わせる原因をつくったのは俺だ。


 俺と一緒にいることでクララが幸せになれないなら、俺がヒューゴをあきらめてクララとヒューゴが二人で暮らせるようにするべきだと思うができない。


 どうしてもできない。三人で幸せになりたい。そのためなら何でもする。そのための努力なら何でもする。クララとヒューゴをあきらめることだけはできない」


 二人の視線がからみあう。リチャードの薄緑色の瞳がクララの心をゆらす。


「あの女が憎い。私達の幸せをこわしたあの女が憎い。殺したいほど憎い。


 あの女を殺したい。でもできない。ヒューゴを人殺しの息子にできない。


 あなたも殺したかった。でもあなたはヒューゴの父親で……。あなたを殺すことはヒューゴのためにできない。


 いくら憎んでも何もできない。だからもう憎む気持ちを持ちたくない。でも憎んでしまう。


 完璧な人間なんていないし、私だってこれまでたくさん間違ったことをして人に迷惑をかけてそれを許されてきた。


 だから私も許したい。でもあなたのことが許せない。許せない自分の弱さが情けなくて、許せずに苦しんでいる自分がつらい。


 でもどうしたらいいか、もう分からない。もう何をどうすればよいのかまったく分からない」


 クララはこれまで胸にためこんできた思いを吐き出していた。あの女のことなど考えたくないのでずっと頭の中から追いだしていたが思い出してしまった。


 一度思い出せば女への憎しみでいっぱいになる。あの女のせいでという気持ちで再び自分が自分でいられなくなるほどの怒りにとらわれるのが怖い。


「クララだけじゃない。あの女を殺したいのは俺もだ。あの女のせいで幸せをうしなった。


 でも俺たちはヒューゴのために人殺しになれない。


 あの女にこれ以上振り回されたくない。あの女のせいで不幸なままでいたくない。


 クララ、幸せになろう。もうあの女のせいで苦しむのはやめよう。ヒューゴのために幸せになろう。三人で幸せになろう」


 リチャードがクララをきつく抱きしめた。


 クララはリチャードを抱きしめ返した。復縁してはじめてリチャードを抱きしめ返した。


 温かい。このぬくもりを失いたくない。自分を抱きしめてくれるこの腕を二度と失いたくない。


「クララがヒューゴに対して罪悪感をもつ気持ちは分かる。でもクララがどれほどヒューゴを幸せにしているかを見て見ぬふりをしてる。


 クララにヒューゴを捨てたと思ってほしくない。クララは一時的にヒューゴの世話をみることができない状態になった。だから自分の代わりに俺にヒューゴをまかせただけだ。


 ヒューゴを幸せにしている現実をちゃんと見てほしい。過去のつまづきじゃなく、いまこの瞬間、ヒューゴが元気に育っているのを見てほしい。罪悪感で自分を責めてほしくない」


 クララは胸にはしる痛みをこらえる。何をどのようにいおうとクララがヒューゴを捨てた過去は変わらない。


「この間、自警団の団長が教会の保護活動にきた。その時に団長が酒で問題をおこした男と話しているのを聞いて考えさせられた。


 その男は子供の時に馬車が来てるのに気付かず道に飛びだし、自分を助けた父親に一生足を引きずる怪我をおわせた罪悪感から酒にはしった。


 団長が男にいったんだ。


『罪悪感の使い方をまちがえるな。罪悪感はやらかしたことを反省してもう二度と同じ過ちをくりかえさない、二度とやらかさないために使うんだ。


 自分が悪いと自分を責めて、自分だけでなく周りもみじめにするために使うもんじゃない。


 命がけで守った息子が自分に対する罪悪感で人生を棒にふってるなんて、父親にしたら地獄だ。罪悪感で自分と周りの人を不幸にするな』


 それを聞いて男が泣いた。自分を助けてくれた父親をみじめにしてるといわれたのがこたえたといってた。


 だからクララに罪悪感でこれ以上自分を苦しめてほしくない。ヒューゴにとってクララは大好きなお母さんなんだ」


 クララはリチャードがいったことを頭では理解できるが、すんなりと受け入れることはできなかった。


「でも……私は許されないことをした。もし両親がヒューゴを他家に養子にだしてたら……」


 リチャードがクララを抱きしめていた腕をゆるめクララと視線をあわせた。


「ヒューゴは父親の俺のもとにきたんだよ、クララ。もう仮定の話を考える必要はないんだ。


 クララが自分を責めてしまう気持ちは分かる。すぐには気持ちを切り換えられないだろうが、一緒に、ヒューゴと三人で幸せになろう」


 クララはリチャードの薄緑色の瞳をみながら、幸せになっても本当によいのかと自分に問いかけた。

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