このままでよいのか
リチャード・ナイトは仕事をおえ家に向かっていたが、そのまま家に帰る気分になれなかった。
カフェで一息つこうかと思ったが、カフェという気分ではなくどうしようかとあてどもなく歩いていた。
人が集まっているざわめきが聞こえ視線をむけると酒場だった。まだ早い時間だが仕事をおえた男達が陽気な声をあげている。
断酒してずいぶんたち酒をのみたいという欲求はないが、酒場の雰囲気がなつかしかった。友人達と酒をのみながらくだらないことを話すのが楽しかった。
酒はたのむが飲まずに雰囲気だけを楽しもうとリチャードがドアに手をかけると、店から出てきた男と目があった。
「父さん」
「リチャード、こんな所で何をやってる?」
酒をのんでご機嫌だった父が、リチャードの顔をみたとたん厳しい表情をし、とがめるような声できいた。
「ちょっと酒場の雰囲気がなつかしくて」
父がリチャードにあごで行き先をしめすと歩きだし、なじみの食堂に連れて行かれた。
注文し水を飲んだあと父がリチャードと視線をあわせ「大丈夫なのか?」と聞いた。
リチャードはその問いに答えられなかった。クララに嫌いだ、ヒューゴのために一緒にいるだけだと叫ばれた。
クララの気持ちは知っていたが、面とむかってそのように言われたのは自分が思っている以上にこたえた。
クララを愛する気持ちも、あせらずにクララとの関係を築きなおしたいという気持ちも変わっていない。
しかしいまの状況を自分がずっと耐えられるのか自信がなくなっていた。
「もし……今の状況がつらいならクララとの離婚を考えてはどうだ?」
答えない息子にじれたのか父がそのようにいった。
「……クララと復縁する時に、彼女を幸せにしてやれといったのを父さん忘れたのか? 彼女を二度と不幸にしない覚悟がないなら復縁するなっていっただろう」
「忘れてない。だがお前は俺の息子だ。息子の幸せを一番に願ってる。
お前はクララと復縁した当初は明るかったが、この一年だんだん笑顔がへって深刻そうな顔をすることが多くなった。母さんも俺もお前のことを心配してる」
父と視線があう。毎日、仕事場で顔を合わせているがこのように向かい合うことは少ない。
「クララも表面的には笑顔だが幸せそうじゃない。
ヒューゴのことを考えれば三人でこのまま暮らしてほしいと思うが、二人が苦しみながら一緒にいても誰も幸せにならないと思った。
再婚したんだから離婚を考えるべきじゃないと思ってるかもしれないが、離婚を選択肢にふくめてはどうだ」
離婚ができるとはいえ実際に離婚する人は少ない。クララと離婚になった時「離婚するなんて恥ずかしい」と母がいったが、それが普通の感覚だった。
離婚する人間は我慢がたりず何かしら性格や人間性に問題があるという目でみられる。
そして離婚は理由がなんであれ女性側の瑕疵とされる風潮があり、母はクララの人生に大きな汚点をつけてしまい申し訳ないと泣いた。
クララの両親が離婚を隠したのもそのせいだろう。離婚した女性への世間の風当たりは強い。
離婚した男への風当たりもそれなりにあり、リチャードは周りから離婚したことについて否定的なことを何かといわれた。
リチャード本人だけでなく両親もリチャードの離婚についていろいろといわれてきている。
それだけにリチャードとクララが再び離婚すれば、周囲からの雑音はとてつもなく大きいだろう。
それにもかかわらずリチャードのために離婚を口にした父と、その父の考えに賛成したであろう母の覚悟をみた気がした。
「ありがとう、父さん。世間体やらをぬきにして俺のこと考えてくれて」
「俺も若い時はいろいろ馬鹿なことやって痛い目みた。だから自分だけだと思うな。生きてたら一つや二つ不名誉なことをやらかすもんだ」
父と母の気持ちがうれしかった。本当は一度目の離婚もしてほしくなかっただろう。しかし息子の幸せのために二度目の離婚を選択肢からはずすなといってくれた。
リチャードは自分自身の幸せについてだけでなく、クララとヒューゴの幸せを考える。
幸せではない状況をつづけることで自分たちだけでなく周りを巻き込んでいる。リチャードは自分が何をすべきなのかに思いをめぐらせた。
◆◆◆◆◆
クララ・ナイトとリチャードの生活はこれまでと同じようにすぎていた。お互いあの夜のことは何もなかったかのように過ごしている。
クララはそのことにほっとした。リチャードにもう一度話したいといわれてもクララは応じなかっただろう。
リチャードを殺そうと刃物まで手にした自分が怖かった。自分の中にひそんでいる、おさめきれないほどの怒りがこわかった。もうあのような状態になりたくない。
さいわい家事やヒューゴの世話でめまぐるしく一日がすぎていく。
「ママ、だいすき」
「ママもヒューゴが大好き」
うれしいはずのヒューゴの笑顔とその言葉をよろこべない。罪悪感がわきあがり申し訳なくなる。
これほど愛おしい息子を捨てた自分が許せなかった。リチャードそっくりな赤毛だからと愛せなかった自分を許せない。
受け取る資格のないヒューゴからの愛情をかんじるたびに、自分はヒューゴから愛されるべき存在ではないという自責の念でいっぱいになった。
クララは酒をのみたかったが、これまで通っていた酒場にはもう行きたくなかった。悲劇の主人公と嘲笑われていた男をみたくなかった。
「それは俺が運ぶよ」
水桶を運ぼうとしていたらリチャードがクララの手から水桶をうばった。
クララは小さい頃から弟の世話をするのが当たり前で、教師をしていたこともあり自分は人の世話をする人間だという意識がつよい。
そのためリチャードがクララを手伝ってくれたり、クララが当たり前のこととしてやっていることに感謝してくれることにはじめは戸惑ったが、リチャードに気にかけてもらえることがクララはうれしかった。
これまで考えないようにしていたリチャードへの気持ちがこみあがる。
リチャードは昔と変わっていない。クララが愛したリチャードのままだ。
クララはこの人と出会えたのが自分の人生の中で一番の幸せだと思っていた。
もしあのことがなければ何の屈託もなくこの幸せをよろこべたはず。
「生きる屍が何を血迷ったことを考えてるんだろう」
クララはもう幸せだった頃のクララではない。
汚く醜いもので心をいっぱいにし、自分だけでなく周りにも罪深いことをさせ平気な顔をして暮らしている。
生きている価値などないのに死ねないので生きている。
「大丈夫か?」
心配そうな表情のリチャードをみたクララは、自分の頬がぬれていることに気付いた。
クララは涙をぬぐいながら、「あなたのことが大好きだった……」つぶやいていた。
リチャードは一瞬おどろいた顔をしたが「クララ、愛してる」といいクララを抱きしめた。
クララが望まないことはしないといったリチャードは、復縁してから必要がないかぎりクララにふれることはなかった。このように抱きしめられたのは復縁してからはじめてだった。
「クララ、愛してる。ヒューゴのためだけであっても側にいてくれるならそれでいいから」
クララは泣かないようこらえる。
リチャードに愛しているといわれ抱きしめられるのは幸せだった。
リチャードのぬくもりがなつかしい。自分がどれほどこの場所にもどってきたかったかをクララは痛感する。
「私があなたを嫌いでいられるようにひどい人でいてよ……」
「俺はクララが大好きで、ヒューゴと三人で幸せに暮らしたいだけだ。クララを愛すること、ヒューゴを愛することが俺の幸せだ。ただそれだけなんだ」
幸せなどクララに必要ない。不幸でなければならない。子を捨てるような母親が幸せになってよいわけがない。
生きる屍に愛も幸せも必要ない。
それなのに――
クララはどうしてよいのか分からずリチャードの腕の中で泣きつづけた。




