怒りは人を狂わせる
ランプのあわい灯りにてらされたリチャードと向かい合ったクララ・ナイトは動揺していた。
体調がわるく寝室で休んでいると、リチャードと親友のノアの話し声で目が覚めた。そしてリチャードがクララが復縁した理由を知っていたことが分かった。
リチャードと復縁を決めた時にクララはリチャードの気持ちなど考えなかった。
自分を傷つけたリチャードに何をしてもかまわないう気持ちがあった。クララが何をしても受けとめるべきだと思っていた。
「体は大丈夫なのか?」
「大丈夫。お義母さんに甘えてしまって申し訳なかったけど」
ぎこちなく会話をしながら、何をどのように話せばよいのかクララはとまどっていた。
「クララ、初めて会った時のことを覚えてるか?」
思いがけない問いにクララが返事をできずにいるとリチャードが言葉をつぐ。
「つまらない夜会でクララに会って、楽しそうに教え子の話をしてくれた。
あの日はクララの教え子が間違っておぼえた単語のつづりをはじめて正しく書くことができた日だった。
何度教えても、何度練習させても単語のつづりを間違えるから、クララが歌をつくっておぼえさせてあの日はじめて間違わずにつづれた。
八歳の女の子が『今日は私の人生の中で最高の日』と大げさな言い方をしたのがかわいくてと、そのように話すクララ自身がものすごくかわいかった」
胸に痛みがはしった。思い出さないようにしていたリチャードとの幸せな記憶がよみがえる。
「二人の幸せをこわしたのは俺だ。本当にすまなかった」
クララの体が怒りでふくれあがった。
リチャードのことを愛していた。神の前で誓ったように、死が二人を別つまで愛し合って生きていくのだと思っていた。
信じていた夫に裏切られた怒り。自分を裏切った男の子を産み、子を愛せなかった絶望。
積もりつづけた怒りと痛みや苦しみで、クララは居ても立っても居られなかった。
「何なのよ! いまさらあやまって何がしたいの? 許せない。一生許せない。
いまだに思い出すの。消したくてもあの日のことは記憶から消えない。消してよ! 私からあの日の記憶を消してよ!!」
いつの間にか立ち上がっていたクララに、リチャードの手がのばされようとしていた。クララは大きく体をかわす。
ごめんとあやまったリチャードのつぶやきが聞こえ怒りが再燃した。
「あなたなんていらない。ヒューゴを引き取って育てたかった。でもそれが出来ないからあなたと復縁しただけ。あなたなんていらない!」
何の反応もみせないリチャードにクララの怒りが増す。
「何かいいなさいよ!」クララは叫んでいた。
リチャードが立ち上がるとクララを抱きしめた。「ごめん」といいながらクララを抱きしめた。
クララがのがれようと体をよじっても体をはなすことができず、「はなして!」と叫んでも、足をけってもリチャードはクララを抱きしめる手をゆるめなかった。
クララはいつの間にか泣いていた。「あなたなんか大嫌い!」叫びながら泣いていた。
ヒューゴの泣き声がきこえた。
クララは、はっとしてヒューゴのもとにかけつけると、ヒューゴが暗闇の中で泣いていた。感情的になり大きな声をだしたので寝ていたヒューゴを起こしてしまった。
リチャードも部屋にきて「大丈夫だよ」といいヒューゴの頭にキスをする。
ヒューゴを寝かしつけるのに時間がかかったため、リチャードとの話し合いはそのまま終わった。
クララはその夜、思い出さないようにしていた過去の怒りのせいで寝つけずにいた。
リチャードに裏切られた悲しみ、ヒューゴを愛せなかった罪悪感、そして他人の過ちを許せない不寛容な自分自身への怒りで苦しかった。
寝ているリチャードの背中をみながら、「この男のせいだ。いまならこの背に刃物を突き刺せば殺せる」リチャードを刺したいという気持ちでいっぱいになった。
クララはそっと寝台からぬけだし台所へむかった。体のどの部分を刺せば確実に殺せるのだろう。
死ななくても、死にそうなほど苦しませるだけでもよい。そうだ、簡単に死なない部分を刺しもだえ苦しませたい。
とにかく刺してしまえ。
クララは刃物をもち寝室へむかおうとし、そばにあった椅子にぶつかった。
寝静まった家の中でその音が大きくひびいた。
「――私はいったい何をしようとしてたんだろう」
自分の手にある刃物をみてクララは自分自身が怖くなった。
リチャードを殺そうと思った自分が怖かった。
裏切られ傷ついたとはいえ、それを理由にリチャードを殺してよいとはならない。たとえクララの心は死んでいても、クララの体は生きている。クララは生きているのだ。
クララは刃物を棚の奥深くにしまうと椅子にすわった。
苦しい。痛む心を体の中から取りのぞきたい。
この苦しみから逃れたい。いつまでたっても逃れることができない苦しみから逃れたい。
でもヒューゴのために、ヒューゴの幸せのために生きると決めた。自分を不幸にしてでもヒューゴのために生きて償うと決めた。
クララは暗闇の中、じっと痛みをこらえた。
クララは一日中酒をのみたい気分にさいなまされていた。昨晩のリチャードとのやりとりで、ずっと心の奥底に沈めていたはずの怒りで気持ちがざわついた。
怒りは静まることなく、何かきっかけさえあれば再び大きく燃えあがりそうで怖かった。
何か言いたげなリチャードの視線を受けながし、クララはリチャードにヒューゴの寝かしつけを頼んだ。
二人が寝ているのをたしかめクララは男装に着替える。昨日のことで気持ちが荒れているので、どうしてもクララは酒がのみたかった。
クララは手早く着替えるとそっと家をぬけだした。
酒場につくとすぐにエールを飲み干した。あまり酒に強くないのでいつもはゆっくりのむが、一日中もやもやした気分を持て余したこともありエールを一気にあおった。
クララは人気のない場所でのんでいたが、にぎやかな集団がクララの近くに腰をおちつけた。男達が仕事場の噂話や愚痴をこぼしているのが聞こえる。
「ふざけるな! お前が俺の何を知ってるというんだ。えらそうに!!」
突然大声がした。声がした方を見ると中年の男が若い男にむかって罵声をあびせ、若い男が中年男をなだめようとしていた。
「かわいそうに。ここに来たのが初めてで、あのおっさんに話しかけられて相手してしまったんだろうなあ」
クララの近くにいた男が仲間にそのようにいうのが聞こえた。
「あのおっさん、若い頃に恋人を親友にとられたことまだ引きずってんだよ。痛すぎだろう」
嘲笑が聞こえる。
「でも俺はおっさんが引きずる気持ち分かるなあ。親しい人間二人に裏切られたんだ。人間不信になる」
「人間不信になるのは分かるが、こんだけ長い間、悲劇の主人公みたいになってるのは違うだろう。
おっさん、悲劇の主人公状態でいるのが心地いいんだろうな。かわいそうな俺でいれば人から同情されるし。
それにおっさん考えないようにしてるだろうが、恋人が寝取られなかったとしても性格があわないとかで結局別れてたかもしれないのにな」
聞くともなしにそのような会話がクララの耳にはいり、「悲劇の主人公でいるのが心地よい」という言葉にクララはむかついていた。
そのように言えるのは人から裏切られたことがないからだ。裏切られた人間の心がどれほどずたずたになるか分かっていない。
他人のことだから笑える。経験したことがないから笑える。
再び大きな声がしたので視線をそちらにむけると、店主が若い男から中年男を引きはなし、中年男に親しげに話しかけながら店の外へと連れ出していた。
「店主もいい加減あのおっさん出入り禁止にしたらいいだろうに。毎回じゃないけど他の客にからんで迷惑かけてんのによ」
「出禁になんてするわけないだろう。お得意さまだぞ? 多少さわぎは起こしても律儀にここに通って金おとしてくれてるんだ。何年通ってるのかしらんが」
男達の笑い声がわく。
「まあ店主は商売的に得はあるが、あのおっさん、結婚してたら妻と子供が気の毒すぎるよな。この世で一番不幸ですって面したおっさんが家にいて、きっと被害妄想的なことを家でもまきちらしてるだろうし。
不幸にひたってる人間がいると周りが大変だ。家の中の雰囲気は悪くなるし、下手になぐさめると愚痴聞かされたりしてうんざりする。
励ましたら励ましたで俺の気持ちをちゃんと分かってないと切れそうだしな。どんだけ人に迷惑かける気なんだか」
クララは自分の話しをされているわけではないが、自分に向けられた言葉のように感じた。
――周りに迷惑をかけている。
クララは自分のことで手一杯で周りが迷惑していることに目を背けてきた。
追加注文したエールが目の前におかれた。
クララはそれをあおろうとしたが手が動かなかった。
周りに不幸をまきちらしている。何をしても周りに迷惑をかける。
体がぐらぐらと揺れているように感じた。