心をむしばむもの
リチャード・ナイトが早めに仕事をおえ家に向かっていると、親友のノアと家の近くで遭遇した。
「ちょうどよかった。今日、王都からもどってきたからお前に会いに来たんだ」
リチャードはノアを家に招きいれ、ノアから王都での話を聞きながら茶をいれ何か食べるものはないかとさがした。
クララとヒューゴの姿はなく、まだ外から帰っていなかった。
「リチャード、復縁して幸せか?」
突然ノアから聞かれたその問いに「幸せだ」と即答できない自分にリチャードは苦笑した。
「復縁したこと自体は幸せだが、本当に幸せかときかれたらよく分からない」
「――クララはまだわだかまりをもってるのか?」
リチャードは大きく息をはいた。
「クララが俺と復縁したのは自分を罰するためだ」
「どういうことだ?」ノアがおどろいていた。
リチャードはノアにこれまでの事情を話した。
リチャードはクララと復縁してすぐにクララの父から手紙を受け取った。
義父はクララの親友、レイチェルからクララが復縁した本当の理由を知りリチャードに謝罪していた。
クララの実家ではクララが離婚したことやヒューゴに関する事情を周囲に隠していたが、クララはレイチェルには本当のことを話していた。
そのためレイチェルはクララが夫のもとへ帰ったと聞き、離婚したはずなのにどういうことなのか事情を確かめにクララの実家へきた。
レイチェルはクララが死を軽々しく口にしたことに腹を立て、死を考えるのではなく自分を不幸にしてでもヒューゴを育てろといってしまい後悔していた。
「二人が復縁してヒューゴを一緒に育てるのが一番よいと思い込んでいた。まさか娘が愚かなことを考え復縁したなど思いもしなかった」
リチャードは義父からの手紙に腑に落ちるものがあった。
クララが突然復縁したいといったことや、表面的には普通だがクララから拒絶を感じることに、本当にリチャードとやり直したいと思ったのか疑問だった。
だがクララが自分の側にいてくれるなら復縁した理由など、どうでもよいと思っていた。
クララと一緒にヒューゴを育てられることに満足していた。
しかしクララが隣にいてくれるだけでよいと思っていたが、実際にクララがいれば自分を見てほしい、自分のことを愛してほしいと思ってしまう。
笑いかけてほしい、ふれてほしい、以前のように温かな目で自分をみて愛しているといってほしい。
ただ隣にいてくれるだけでよいと単純に思えなくなっていた。
「……何といってよいのか分からない。なんでお前達がこれほど苦しまなくてはならないんだ。あの女が、あの女が暴走しなければこんなことにならなかったのに……」
ノアが視線を宙にうかせ両手で口元をおおった。
「お前はあの女の被害者で、クララにそのことをうまく説明できなくてすまなかった。もっと俺にできたことがあったはずなのに」
「ノアが俺のことを分かってくれたから乗り切れた。十分だよ」
リチャードはノアの肩をこぶしで軽くおした。
「あの女をずっと恨んでたが、ヒューゴを引き取った時に思ったんだ。あの女への恨みなんてどうでもいい。ヒューゴのことを守り幸せにしようって。
それに保護活動してる教会で母親から虐待された少年を保護したことがあるんだが、その時に人を恨んでも幸せになれないって痛感した」
リチャードは離婚したあと長い間あの女を恨み、頭の中で何度も女を殺していたが怒りと恨みはくすぶりつづけた。
ひょんなことからリチャードは自警団に所属する幼馴染みと一緒に教会の保護活動にたずさわることになった。
それまで一般的な奉仕活動はしてきたが、教会に助けを求める人達を保護することに直接かかわったことがなかった。その活動をとおし貧困、暴力、病、災害など理不尽な状況にさらされている人達を目の当たりにした。
そのひとりである母親から虐待をうけた少年は、母親に「お前は汚物だ」といわれて育ち体中に打撲傷や切り傷があった。
少年は自分を汚いと思いこんでおり、人に近付くのをおそれ、汚れてもいない手を洗い、手をみては汚れをとろうとするかのように服にこすりつづけた。
少年をかえせと母親が酔っ払った状態で教会に押しかけた時に、
「女をだますクソ男のせいで汚物をうむことになった」
「だました男にそっくりな息子に父親の罪をつぐなわせて何が悪い」
「子は親のいうことを聞いてればいいんだ。いうことを聞かないなら聞かせるようにするだけだ」とわめいた。
自分の子を汚物とよぶだけでもありえないが、何の罪もない息子に自分をだました男の償いをさせたいと思う人間がいることにリチャードは愕然とした。
リチャードがその母親を幼馴染みと取り押さえていると、神父が母親に「ずっとつらかったですね」と声をかけた。
「あなたの苦しみに気付き助けてくれる人がいなかったようですね」神父が静かに母親にいった。
神父からかけられる言葉に悪態をついていた母親が、「これまでよくがんばりましたね」といわれたとたん声をだし泣きはじめた。母親は落ち着いたあと家に送られた。
リチャードは神父になぜあの母親にがんばったなどといったのかを聞いた。七歳の少年を虐待してきた母親のどこをとればがんばったといえるのだと。
「あの母親は自分をだました男性への恨みにとらわれ、自分ひとりでどうすることもできず苦しんできたように見えました。
そして息子を愛したいが愛せないという矛盾にも苦しんできたのでしょう。
彼女の息子は痩せてはいますがちゃんと食事をあたえられている体つきで、服も体にあったものをきていました。
彼女に息子を愛する気持ちはあるが、だまされた恨みにとらわれたせいで男に似た息子にその恨みをぶつけてしまう。
女性がひとりで子を育てるのは大変です。両親がそろっていても子を捨てたり、子を売る親がめずらしくない中、彼女は息子を育てつづけたのです。
子への虐待はまったく許せませんが、子を育てつづけたことはほめられるべきだと思ったのです」
神父のその答えに反吐がでた。人には何かしら美点があるものだといったきれいごとにしか聞こえない。
自分は汚物だからと執拗に手を洗う少年の姿は、リチャードがあの女に自分の体を好き勝手にされ、自分自身を汚いと思い過剰なまでに手や体を洗わずにいられなかったことを思い出させた。
クララに汚い手でさわるなといわれ、被害者であるにもかかわらず周りから理解されず、これまで築きあげたものすべてを壊された。あまりにも理不尽だった。
息子にお門違いな恨みをぶつけた母親のせいで、自分を汚いと思い込んでいる少年の悲しみや苦しみは想像を絶する。少しでもきれいになりたいと願い手をきれいにしようとする少年の姿に胸がつぶれた。
それだけにあの母親にがんばったという言葉を使ってほしくなかった。
しかし幼馴染みが、
「もしあの母親が少年の父親と結婚できていたか、それか男を恨みつづけても幸せになれないと思えていたら、息子を虐待することなく良いお母さんになれたかもしれないな」
といった時にリチャードの中で何かがはじけた。
――恨みつづけても幸せになれない。
その言葉がゆっくりリチャードの中にしみこんでいった。
「お前にあの少年のことを話していて思ったんだが、クララがヒューゴを手放さなければならないほど病んだのは、あの母親と同じぐらい大きな怒りがあったからだと、いまさらながら気付いた。
クララはその怒りをヒューゴに向けるのではなく自分にむけた。ずっと彼女はヒューゴを捨てたと自分を許さず責めつづけてる。
クララが苦しんでるのに助けられない自分の情けなさに涙がでそうだ」
ノアがいたわるような目をむけた。
「俺にできることはあるか?」
リチャードはゆっくり首を横にふった。夫婦で乗り越えなくてはならないことだ。
二人はそのあと世間話をし、ノアが帰ろうと玄関のドアをあけるとヒューゴを連れた母の姿があった。
ノアと母が挨拶をしている間に、ヒューゴが「パパ!」リチャードに飛びかかった。
みなでノアを見送ったあと「ノア、すっかり頼もしくなったわね。昔はあんたと一緒に悪ガキしてたのに」母が笑いながらリチャードにいう。
「クララは大丈夫? ヒューゴはちゃんとご飯を食べさせたから、あとはあなたが面倒みるのよ。クララに無理させないようにね」
ヒューゴを抱きしめ、またねといってキスをする母をみながら、リチャードはクララが体調をくずし家で休んでおり、自分たちの会話を聞いていたかもしれないことに気付いた。
夫婦の部屋のドアが半分あいている。リチャードとノアの会話はクララに聞こえただろう。
リチャードは自分たちが何を話していたかを思い出しながら、クララを傷つけるようなことをいっていないことを祈った。